我が妻との闘争2022〜或る晴れた穏やかな日曜の朝〜
年々残業の疲れが抜けなくなってきて、休みの日はアラームをオフにし、最近はとことんまで寝るようにしている。のだが、悲しいサラリーマンの性、大抵は出勤時間に間に合うような時刻で目が覚めてしまう。
長女ちゃんは今年入籍し、コロナ禍で結婚式こそ挙げてはいないが、小綺麗なハイツで既に新婚生活を送っている。長男ちゃんは大手企業の社員寮暮らし。学校を卒業してから、職場に恵まれなかった次男ちゃんは、しがらみを全て捨て去り、単身宮古島へ飛んで、ダイビングのインストラクターを目指している。
家族五人と愛犬二匹で過ごした賑やかな家も、すっかり寂しくなってしまった。ラッキーちゃんは亡くなり、今では病気がちのチャッピーちゃんと嫁さんとの三人暮らしだ。
育児に追われ、日々修羅の形相で猛烈に家のことを回していた嫁さんも、最近では穏やかな顔つきになり、それは私が取り込む洗濯物の量や、ゴミ出しの時に感じる減ったゴミの量でも、家事の総量が減ったことを実感できた。
「おはよう。起きたか?」
「おはよう。やっぱ昼まで寝るのは無理な身体になってるみたいやわ」
私は幾分自虐的に言ってみせた。
「そうそう、今日の昼はな、お互いにボーナスも出たし、前から気になってたステーキ屋さんを予約したんやで。たまには美味しいものでも食べんとな」
嫁さんは台所に立ち、私に出すアイスコーヒーをコップに注ぎながらごきげんさんである。
「それはエエな。楽しみや」
そうだ。苦楽を共にした夫婦、育児を終えた夫婦。これからは努めて仲良くしていかねばならない。
「そうそう、そういえばな」
ランチがステーキに決まっているからなのか、今朝の嫁さんは穏やかで機嫌が良い。
「姫路にな、いきなり辻ちゃんが来てな、私ブログとか結構チェックしてるんやけど、子供さんにはモザイクかかってるねん。でも実際に見たらな、こんな可愛い感じの子なんか〜、って、びっくりした夢見てな」
ここで『夢なんかい!』と叫んではいけない。私は長年の結婚生活で鍛錬した。笑顔で話を聞く体制をスタートした私の表情は、目の色は消えてしまったが、数ミリだけ微妙に頬の位置が変化しただけに留まった。
会話はキャッチボールだ。向こうは気持ちよくボールを投げてきたのだ。暴投気味ではあるが、取れない球でもない。気持ちよく返そう。気持ちよく返せば気持ちの良い一日がきっと始まるはずだ。
それにしてもどうだろう。この嫁さんの思考回路は。分類上は【激情天然】に分類されるのだろうが、この会話では仮に私が『子供さん見れてラッキーだね』と言ったところで、嫁さんの夢の中の話なのである。どう返してみたところで、全てが不毛なものではないのか。
嫁さんが見た、という辻ちゃんの子供さんの顔だって、嫁さんの空想内のウソくその顔なのだ。
どう返せばこの不毛な会話を建設的に進められるのだろうか。いや、人生建設的なことだけが正解じゃない。もう一人の私が私の前に立ち腕を組んだ。
「リアルな夢を見たんだろう。だから誰かに話したい。信頼しているお前に打ち明けているんだ。可愛らしい女性と言えるではないか」
もう一人の自分が諭す。なるほど、そうかもしれない。せっかくの穏やかな休日の朝なのだ。波風立てぬが吉、であろう。
「面白い夢を見るなぁ、そういえば俺も思い出した。前にな、ウチにな、マイケルジャクソンが来てな、びっくりしたんや。向こうはディズニーランドみたいな家やろ? こんなウサギ小屋ですいませんすいません、って」
私は荒唐無稽な嫁さんの夢の話に対して、敢えて感想をコメントせず、自分も夢の話で会話を続けていく道を選んだ。するとどうだ。
「それはないわ〜」
嫁さんは半笑いでのたまうのである。
「な、なんでワシの夢はあかんねん。ここにマイケルが来たんやで?」
「だってマイケル亡くなってる方やん」
謎の嫁ルールの出現である。もし私の夢に出た人物が存命ならば、キャッチボールは続いたのであろうか。私にしてみれば内容に大差は感じられない。なぜ嫁さんの夢はクリアで、私の夢は却下されるのか。それも半笑いで。
『アンタ、とぼけた事言うてたらアカンで』
とでも言いたげな口調であった。私は歩み寄りを見せたではないか。苦楽を共にした夫婦、育児を終えた夫婦。私はどんな内容でも大きな心で受け止めたのに、なんでマイケルが死んでるからという訳のわからない理由で私の夢だけ否定されるのか。
「亡くなってるも、亡くなってないも、そもそもそっちかて夢の話やん」
「いや、死んだ人が家に来る、て」
「だからそっちの夢かて、子供の顔面のモザイク取れた顔見れた、ってオマエが考えたウソクソの顔やろげ。見たんか? 実際の子供さんの顔見たんか? 見てないんやろ? そんなウソクソの顔面に、ワシなんてコメントしたらええねん。可愛いな〜、ブサイクやなぁ〜、どんな感想言うたところで全部無意味とちゃうんかい。どないやねん」
「ひどい、言い方がアンタほんまひどい」
庭で雀達の可愛らしい鳴き声が聞こえていた。
「自分の無茶苦茶な夢だけオッケーで、なんでそないに変わらへんワシの夢は『ないわ〜』って半笑いで返すねん。お前の方がひどいやんけ。そもそも会話のレベルがひどい。幼稚。」
「……。」
「なんやねん、その顔」
嫁さんは押し黙って私を睨みつけていた。
「そらアンタは本をぎょうさん読んで言葉も知ってるわ。なんで私こんな人と結婚したんやろう……」
結構言うてはならないフレーズを今、嫁さんは口にしたのではないか?
「そもそもそっちが無茶苦茶な夢の話をワシにするから……」
「はいはいはい、いいです、もういいです。もう二度とアンタに頭の悪い話しません」
ここで私はハッと我にかえる。熱くなった脳内の血液を冷却する。あれ? なんでこんな状況に陥っているのだ。子供も巣立って、仲良くしていこう、と決意した朝ではなかったのか?
「朝ごはんは……」
「知りません、自分で好きにしてください」
気がつけば全てが崩壊していた。向こうは無の表情で台所に立っていた。覆水盆に返らず。割れた茶碗は粉々になり、ピンセットとアロンアルファを使っても、元通りになる気配はなかった。
私が悪かったのだろうか。どこでどう間違えたのだろうか。互いに不満を抱えているから、何かをキッカケにして暴発してしまうのだろうか。問題が全くない、とも言い切れない。
私が望んだ穏やかな休日とは程遠い時間が無言のまま流れていく。
そして昼前、会話はなかったが、互いに昼はステーキを予約していることを思い出した。どう切り出したものか、と思案していると、嫁さんの方が先に立ち上がった。
「行くで、ドタキャンなんてお店に失礼やろ」
嫁さんは私の目を見ず、吐き捨てるように言った。私も意地を張り、謝る素振りなど微塵も見せず、後に続いてガレージへと移動した。
「どこの店や」
「○○や」
お互いキツい物言いで車に乗り込んだ。スマホのナビでセットして、無言のまま移動する。
「予約していた呉です」
「奥のテーブルへどうぞ」
ログハウスを思わせる昔ながらのステーキハウスであった。地元から愛されている感じが店内の雰囲気から自然と伝わってくる。
互いに無言でメニューを眺める。しばらくするとウェイトレスさんが注文を聞きに来た。
「ええと、スペシャルステーキランチ、と」
「私はミックスステーキランチで」
別々の方向を向いたまま、料理が届くのを待つ。なんという居心地の悪さだろう。ウェイトレスさんも変わった夫婦だな、と思っているのではないだろうか。
鉄板をジュウジュウと言わせながらステーキランチが運ばれてきた。
「あっ、そっちカニクリームコロッケ乗ってるやん」
美味しそうなプレートを見て、私は冷戦中であったことを忘れ、思わず普段通りの声をかけてしまった。しかしそれが功を奏した。
「アンタのも横のハンバーグ、デミグラソースめっちゃ美味しそうやん」
その言葉をきっかけに、会話が再開されたのである。
「ちょっとシェアしよか」
「ええな、じゃあカニクリームコロッケここに置くで」
「じゃあハンバーグ、ここに置くわな」
「な、そんなにええのん?」
「こっちスペシャルで量も多いから食べな、食べな」
帰り道は満腹で満足した互いの感想大会である。肉の焼き加減が絶品であった。味付けが絶妙でドキつくないから、また行こうと思わせる味だった、と。
今朝の言い争いを、嫁さんは完全に忘れている模様であった。
「アンタ、あそこのスーパー寄って。今日は確か野菜が安かったはずや」
私は運転をしながらフト我にかえる。今回の冷戦は食事に助けられたのだ。美味しい食事に二人が満足したからこそ、争いが曖昧になっただけのことなのだ。抜本的には解決も改善も何もなされてはいない。ただ問題を先送りにしただけのことである。
〜これがお互いに歳を重ねて、ステーキを食べる気力も体力も無くなった場合にはどうなるのだろう〜
という考えが一瞬頭をよぎる。日焼けしそうな暑さにもかかわらずハンドルを握る手は、一瞬鳥肌が連れてきた寒気で震えてしまうのであった。
〜これを読んでいる独身者諸君
夫婦で共通の楽しめるものを一つでも多く作っておけ
と一言いっておきたい〜
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