見出し画像

真夏日の夕焼けとQWERTYキーボード

初めまして、私が俗にいう天才ですッッッッッ。うっせえわ。いま私は、クーラーの効いた快適な部屋で、まだ終わっていない期末レポートを尻目に、この文章を兄から貸してもらったBluetoothキーボードの試し打ちというていで、ぱたぱたとiPadに打ち込んでいる。

正直やりずらい。
だかこのキーボードをうまく活用できるようになれば、希望の光も見えてくるというもの(一体何の)。そんな感じでまた、このキーボードとの格闘を始める。


はじめに

夏休みの夕焼けが眩しい時間帯、地中に潜っていた生物はいささか驚いていることだろう。サマータイムの概念なんて知らない地中の者にとって夏はただ、じりじりと体力を蝕むつらい季節であるのだろうか。


道路の真ん中で干からびているミミズがコンクリートジャングルがもたらす温暖化を訴えている。

と、まあただのBluetoothキーボードの試し打ちついでにつらつらと今この瞬間の心情を吐露してみたのだが、文章を考えることってこんなにも楽しいのね(もう?)、考えたこともなかったわ、まじで。

実は中学の頃から小説を読むのが好きだった(正確には中学の頃だけだが)私は自分で文章を書くことなどあり得ないと思っていたので、なんだか新しい自分を発見できたようで嬉しい(そんな大層なものは書けていないけどいいじゃん別に、うっせぇぞ)。


愛Phone

大学に入ってパソコンに関わることが多くなったおかげで、キーボードを打つのが速くなった。それまでもっぱらiPhoneしか触ってこなかったので(我は根っからのiPhoneユーザー、ちなみに初めての携帯はiPhone 5である。自慢ではない、いやほんとに)、そのおかげでフリック入力はお手のものであったが、キーボードは得意ではなかった。


Dvorakの無念

話は変わるが、キーボードはもともとタイプライターという、それは昔、新聞記事などの文字を紙に印刷するために作られたアナログな装置であった(話の振り幅よ)。


当時のタイプライターは、あまりはやくタイピングしてしまうと、機械が壊れてしまうために、人工的にタイピングをしにくいような配列に変えられてしまった。


それが未だなお全世界で使われているQWERTYキーボードである、ということを先週、大学の授業で知った。それも経営学部のビジネスモデル分析の授業でだ(私はなんとまあそんな重要なことを今まで知らなかったのだろう)。

その後、オーガスト・ドヴォラックというワシントン大学の教育心理学者が開発した、QWERTYキーボードよりも効率よく打ち込めるように配列しなおされたキーボード(Dvorak配列)が誕生したものの、普及することはなかった。


当時すでにQWERTYキーボードが普及してしまったために、世間に受け入れられなかったのだ。R.I.P. August Dvorak


もしそのときにDvorakキーボードが普及していれば、いま現在私たちが生きている世界は180度変わっていたかもしれない。死に際の作家が残せた貴重な言葉があったかもしれないし、QWERTY配列であるがためにタイピングがうまくできずパソコンをいじることをやめた人が天才プログラマーになれたかもしれないのに!

だがしかし、幸いにも日本には、「かな入力」なるものがある。パソコンをいじる日本人なら見たことない者はほぼいないであろう(決めつけは偏見につながるので断定はしない)。キーボードの各ボタンに振られた、一見整列されていないようなひらがなの並びのことだ。


この整列されていない日本古来より伝わる文字の列こそ、現代のDvorakキーボードである(と思う)。


にもかかわらずやはりQWERTYキーボードの影響力は凄まじく、かな入力ができる日本人はわずか10%にも満たないという。こんなことがあってなるものか!一体何万人もの学生がレポートのためにパソコンに文字を非効率的に入力しているというのだ!かな入力であれば2分の1の回数のタイプで済むというのに!

私は中高と、かな入力を教えてこなかった情報の先生をのろった(あくまで比喩です。過激表現ですので、ひらがなにしておきました)。


たかがキーボード、そんなに深く考えたことはなかったが、今まで、キーボードはQWERTY配列によって、効率よく打てるようになっていると、全くもって真逆の勘違いしていた私にとってそれはそれはショックであった。

この衝撃の事実をなんといった風でもない感じで話していた先生とは対照的に、私の心は穏やかではなかった。


そもそも

人間とは効率的な生き物ではない(またも話の振り幅よ)。生きることに直接関係のない草花を愛したり、聞く必要のない音楽にお金を払ったり、サブスクに入っている曲をわざわざレコードで聞いたり、こう考えていくと、人間の歴史は無駄なものばかりで形成されているようにも思えてくる。


いつどこで聞いた話かは覚えていないが、世の中のビジネスはエンタメが9割ということを聞いたことがある。それが統計などもっともな証拠があるのか、ただの誇張表現であるかは知らないが(調べろ)、まあそんな気もする(熱意どこいった)。


結局

地球上の生物の中で(恐らく)唯一言葉で意思疎通ができる、私たち「人間」は、食糧を調達する術を覚え、生命を安定的につなげることに成功した。それから「人間」は、過剰になった食糧を通貨として使用し始めた。他の村に行き、鉄鉱石と交換したり、時には珍しい工芸品と交換した。


鉄鉱石は農工具となり田を肥やし、時には武器となった。工芸品は、時には食器として、時には死者や神を祀る道具として使われた。神を祀るために音楽が生まれ、歴史を伝えるために書物が生まれ、絵画が生まれた。


つまり、今ある「人間」の無駄はかつての歴史に必要であったのだ。QWERTY配列のでなければタイプライターは壊れ、全世界に普及することもなく、パソコンは生まれず、マーク・ザッカーバーグが遊び半分でフェイスブックを開発することもなく、現代のインフルエンサーは田を耕し、丁寧な(レンズ越しではない)生活をしていたかもしれない、つまりそういうこと、知らんけど。


疲れたから終わり。意外とタイピングしやすいかもこのキーボード、かな表示ないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?