HSPと云う解釈がもたらす 社会への依存的肯定及び負の側面 (編集版)
※この文章は、精根がひん曲がっている人が書いています。なので、読み進めていく内に論理、文脈が破綻し、先入観と憶測で話が進んでいく事があり、不快な描写もありえます。この文を読んで気分を害したら、その責任はこの文にあり、あなたには一切の責任はありませんし、この文に正当性はまったくありません。むしろ破綻しています。
※下劣な内容です。
※散文です。
※答えはありません。
※2020年12月にupしたものを編集したものです
冒頭
HSPについて、私はよく知らない。
だから一先ず、他人の感情を細かい所作から読み解こうとする気質があって、故に物思いに沈みやすいと云う、一言でまとめると感受性が豊か、という事に一応はHSPを定義して、この記事では扱う。
所で、何故HSPという言葉は流行ったのだろう。
流行ったという事は、HSPという傾向に心当たりのある人達が、日本には大勢いたからなのだろうか?
ちなみに、私がHSPという名前を知ったのは、大体1年前、2019年の事だ。ココロジーだっただろうか、心理学系エンタメサイトにてある記事が立ちあがっていて、私がそれを読んだからで、HSPが話題になっていると感じたのは、書店の、心理系統の書棚ではなく、ビジネスライクな書庫の、割かし注目される列にHSPに関する本が幾つか並んでいて、テレビで話題のカウンセラーが、クライアントさん対し「HSPですね」と笑顔で告げ、当のクライアントさんは一方その言葉に対し「うんうん」と云った風に、実際そう発し、頷き同意を示しているシーンが放映されていたからだ。
HSPが流行った理由を考える(時代背景)
HSPは何故流行ったのだろう。その背景を考える。ここからは、たちが悪くて性格がひん曲がった私の偏見で話をすすめていきたいと思う。
人は誰しも内心、自分は特別、少なくとも、他の誰かよりも特別だと思っている。それは断定的だと思う。多分。おそらく。その価値観が最も培われるのは当然、学校で、クラスで、凡そ、スクールカーストと呼ばれる、自分が属するコミュニティによって、クラス内での格が決まる、あれである。
そもそも、スクールカーストが生まれる理由は、恐らくに、人間関係の諸問題は、元々はそういった対人関係上の問題を引き起こしている相手と、同性の肉親との関係にそもそも問題があると云われる事から、恐らくは、両親との関係性がそういった、対話ではなく、序列的な関係性に現在終始している事に、起因するのではないか。
つまり、昨今の日本は父と母、子供、と云うヒエラルキーが明確に分かれているが為に、ある種の序列的関係性を構築する風土が根差しているが故に、クラス内でそれが繰り返され、と云うか、両親の自分に対する態度を模倣、ないし逆行する事により、スクールカーストと云うモノを結果として形作っているのではないか、という話ではある。
一方でドグラ・マグラと云う作品内の、「胎児の夢」内においては「動物時代の名残として、ある種の群れにも類似する集団を形成する際、ヒエラルキーを構築する事で群れをまとめようとする習性が残っている」という事が述べられている様に、ある種の生物的本能が導き出す傾向である、と云う解釈もあるが、今はそれは据え置く事とする。
とにかく、目下大事な事は、その時期に構築された、私の、私達の価値を肯定してくれる価値観は多くの場合、その後延々と付き纏う事になる、と云う事である。
同じ様に、自分の価値が貶められれば、その社会から抹殺されると云う事を学ぶ。
そこから云える事はつまり、勉強が得意な子で、特別な扱われ方をされたのなら、彼は博識であろうとするし、音楽が自分を肯定するものだったら、彼はミュージシャンないし作曲家、熱心なファンになるであろうし、スポーツなら、肉体的に優れた存在であろうとするだろうと云った風に、逆に、いじめられたのであれば、自らはそういう人間であるとして判断し、そういう自部を全うする、という事になる、私の様に。
そうでなくとも、社会を自分で読み解いた際、社会的に、個人的に、とは問わず、最も自分を肯定してくれる価値観で、私達は自分を特別であらせようとする。ある種、アイデンティティを形成する事の出来る自分を、他者と区別する事の出来る自分こそを、自分とする傾向が、私たちにはあると云える。
別に悪い事ではないし、偉大な仕事はそうやって生まれるのだろうけども。
私達の「特別」像は、インターネットによって小さくなった世界でやたらと出会う、表現の世界におけるスーパースターの優れた表現作品は、私達の感性が求めるモノを優れた形で代弁してくれているから、私達の感性のすばらしさは、いつもどこかで確かめる事が出来る。
ある種の共感性がもたらす奇跡である。
「自分が感じている感情が、みんなから特別なモノとして扱われている!」
「ライブは、とてもいい空間だ。みんなと、自分が特別だと思っている事を共有できる。私達の、社会の中ですり潰される感性を、否定する理性は存在しない。」
逆に、話を小さくし、道行く主婦の会話の多くの主題は、話の内容ではなく、相手の中で自分の存在を大きくするという目的にある様に思える時がある。
「たまねぎが安くてねー」
「ねー」
文面からは、「だから何だ」としか思えないかもしれないこの会話、しかしながら、やたらと大きい「ねー」は、相手の注意を会話から、自分に引き戻そうとしている様に思える時があれば、自分の感性の正当性を相手に突き付けようとしていたり、時には相手を否定して、相対的に、自分の価値を向上しようとしている様に思える時がある。
自分の価値の向上という面だけでみれば、主婦だけに限らず、どの世代の会話でも、マウンティングという形で、よく見られると云える。
好きな話をしている人と、自分の事を馬鹿にしてくる人の表情は、喜びに満ち溢れているという点で、よく似ている。違うのは、その視線が自分に向いているのか、想像の世界に向いているのかという事だ。
だから、私達が自分を肯定する方法は、一先ず2択ある事になる。
自分の感性に共感してくれる存在と、共存する。共同体的感覚
相手をこけおろして、自分の価値を高める。マウンティング、承認欲求
どちらにしろ、私達の心は、自分に価値を、与えたい。
HSPが流行った理由を考える
さて、この世の中において、共同体的感覚を養うのと、マウンティングで相手をこけ下ろすの、どっちが簡単だろう。
何故、インスタグラムにて、人々は幸せな風景を、いかにも幸せな風景として表現するのだろう。
何故、日本全国精神科医に出合うには、平均1ヵ月半以上も待たなくちゃならないんだろう。
何故、どんなコミュニティにもヒエラルキーが存在するのだろう。
共同体はどこにでもある。その多くは似通った価値観で作られた居場所を機能させる為であったり、自分達の価値観を肯定する為にある。
その共同体を肯定する価値観は、「社会的な幸福」であり、「優れた専門性」であり、その事実を、幻想から乖離する為に、意図的にマウンティングという形をもってして、共同体を現実と結びつけている。
だから、人間として生きる以上、ヒエラルキーから逃げられないし、絶対に、マウンティング的な要素を伴う何かと、私達は延々死ぬまで付き合わなくちゃならない。
もし、自分を肯定する価値観が共同体の中で見出せなかったら?
もし、マウンティングを心の中ですらとれない、従順な性格だったら?
その被害者の会、「インナーチャイルドに出合うには」で作者が嬉しそうに記述したであろう、「競争社会の敗者」たる私や、私達を、社会的に比較する事なく肯定してくれる、数値に現われない概念、それこそが概念によって誕生した超大規模コミュニティ、HSPなのではないだろうか?
成程、基準はよく分からないけど、人より感性が優れていると言われて、悪い気はしない。社会的に自分が上手くいかない理由を、感性のせいだと、責任転嫁出来る。
少なくとも気楽に生きる、糧にはなる。
HSPとそうでない人の差異
私たちの多くははボルトの様に速く走れないし、オペラ歌手の様に壮大な声を出せなければ、テニスで265キロのサーブを打てないし、投げたボールのスピードが、165キロも記録する事はない。ラフマニノフみたいに絶頂を語れないし、米津みたいに新しい音を生み出す事も出来なければ、村田さやかみたいに奇天烈な世界を描けないし、ザハハディトみたいないかれた建築も生み出せなければ、ピカソみたいにキュビズムなんて思いつかないし、描けない、そうでなくとも、私が知らない、世界が知らない、偉大な創作物、世の中のプロが手にした技術の大半、ほぼ全てを、少なくとも私は身に着ける事なく、死ぬのだろう。
それは肉体的な問題でもあるし、技術的な問題でもある。唯、見ているものは同じな筈だ。感じていることの精度が、私達と段違いなだけで。
ありきたりだが、私達はみんな違って、みんな個性がある。
なら、所で、HSPとそうでない人の差異は1体どこで生まれるのだろう。自閉症の様に、生まれ持って身に着けた個性なのだろうか?
16パーソナリティや、エニアグラム診断、それらは私達の先天、後天、あるいは総体的な人格を表しているのかは、私にはよく分からない、だけど、そこにHSP的要素が記載されている人格特性は、多くて3種位だったと思う。そう思うと、5人から10人に1人はHSPという唄い文句と、心理テスト双方に、妙な信頼感を覚える。
所で、HSP以外の人達は、繊細ではないのだろうか?
ある意味、HSPと云う囲いを造る事によって、そこに属さない問題を抱えている人たちの感情を、否定している側面はあるのではないだろうか?
そもそも、生まれながらにして感じ方の差異はあれど、生き方が環境によって左右されるのであれば、性格特性とは、単に学校等で身に着けた処世術を客観的に言い表したものとして捉ええて、だとしたら、HSPも生まれながらの人格特性なのではなくて、生きていく内にそうならざる得なかった、処世術と云えるのではなのではないだろうか?
モノ言わぬ子羊、という表現が適切かどうかは定かではないけれど、そういう子を育てたければ、その子の意思をくみ取らず、云う事を聞かせ続ければ良いと私は思う。そうすればその子は、外と接点を持たなければ、自分の感情を自分の中で押し留めて、1人悩み続ける存在になるから。ある種、HSPはそうして生まれると、私は考えている。
先の閉鎖性とは異なり、対人的な感受性が豊かな子にしたければ、教育的な親がそうであるように、自分で考えさせる癖をつけさせればいい。例えば、訳もなく、子供をしかりつける。そうすれば子供は、両親に叱られる体験をしない為に、自分達の思いを推し量り、思考錯誤する様になり、やはりHSPとなる、と、私は思う。
ただ単に、理想的な養育と逆行する事をすればいい。あなたに対してだれかがそうした様に。きっとみんな、そういう経験がある。
HSPと、自己肯定感は、とても密接な関係をもっていると思う。自分を肯定できないから、その根拠を見つけ出すために、自分の生ならぬ性に実感を見出すために、あらゆる事に溺れてゆく。その依存対象が、感情や思考であるだけなのかもしれないと思う、HSPの場合。
自己肯定感、でなくとも、別に、誰かに対してマウンティング的な行為を出来る何かがあれば、少なからず、HSP気質は良くなるんじゃないだろうかと、私は思う。
少なくとも、HSPにおける、統合失調症の過度期的な症状は休まるんじゃないだろうか。というか、悩みは減るんじゃないだろうか。
インスタやツイッター、私の様にオンラインゲームに溺れる経験のある人は、凡そ頭の中を誰かから見た自分で埋め尽くしていると思う。
5人に1人はHSPという割合は、5人のうちの何人が、インターネットを用いた人とのつながりに依存しているという割合と、どれくらい近しいのだろう。そもそも、インターネット利用者の割合とどれくらい、近しいのだろう。
そもそも、HSPという概念を意識してしまうのは、少なからず私達が内面にに悩まされているからであって、もし、多少なりともそういう側面を抱えていても、もし仮に幸福だとしたら、そういう本を手に取るだろか?
承認欲求を、私達の多くは欲している。
正直いって、相手にマウンティングをとって傷付いたという反応をみて、あるいは、勝手に思い込んで、悦に浸っている人間に、HSPの側面が全くないかと云えば、それは無いと私は思う。寧ろ、他人の感情を感じ取って、明確に楽しんでいる。つまり、共感性にも表れ方は人それぞれなのである。
だとしたら、大抵の人はHSPで、唯、マウンティングで頭を満たす事で自分を肯定し続けられる気ちがいじみた狂人と、その被害者がいて、単に、やっぱり、冒頭と同じく、その被害者的側面を帯びた、そういう立場に追いやられるライフスタイルを身に着けてしまった一団が、HSPと呼ばれているのかもしれない。つまり、受動的な環境に育った人物達。
ただたんに感じている事に悩んでいるか、そうでないか、マインドフル、ならずとも、マウンティングで自分を肯定出来ているか、出来ていないか、その差異を、HSPは被害者側を肯定する形で、存在しているだけに、やっぱり過ぎないのかもしれないと、私は思った。
ある種、前述した、アイデンティティを獲得したい受動的な人間が、自分を肯定する為の概念として、HSPは、誕生したのかもしれなかった。
要するに、ここまで日本においてHSPが流行った理由(2020年12月時)はある種、日本においてはHSPと云う概念が無ければ、自分を肯定する方法を持たない人たちがあまりに多い、という事でもあった。
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