脳内ファンタジア

ファンタジア的思考回路

人が何かを求める時、人は求める対象そのものを求めているのだろう。それはこの世界に存在する物質?私たちの頭の中にあるイメージ?偶像?そもそもその何かを得るという事自体が目的ではなく、それよって得られる体験、感情を得るために欲するわけであって、得るという行為そのものはただの手段であり、重要なのは私たちのテリトリー、生活空間の一部に対象が組み込まれることでる。少なくとも私たちにとって価値のある、感情を発露させる存在が私たちの一部になる事で私たちは自己のイメージを周囲に投影し、自己のイメージが現実と一致していることを確認し、安心するのである。それは自己実現とも呼ばれ、安心感や喜びといった精神の安定を生み出す要素の一つであり幸福の材料である。
 しかしそういった行程を経たとしても、そこに私たちの幸福が存在すると確証を得る方法はない。そもそもここに述べていることはただの妄想であり戯言であるといえる。ではこの文章は何のためにある?自己の内面をここにとどめることによって、私は私に対して安心を提供しているのだろうか。何かを目的とし、それを達成するためにする行為自体が目的であるとするなら、私はこの行為をすることによって得られる自己のイメージに満足しているのだろうか。
 話を戻すと私たちの頭の中には私や世界に対する漠然としながらも明解なイメージがある。それは現実の体験とそこから生み出される私たちの感情によって構成されるが故に、現実の詳細、分子によって引き起こされる事情を省いた観念の世界であるがために、深みに欠け、現実によって起こされる満足をイメージの世界で妄想しても現実から生まれる感情には程遠いものとなる。では2次元表現によって引き起こされる感情はどうだろうか。現代芸術には絵画や写真といった紙を媒体とする表現方法とテレビやスクリーンを用いた表現、つまり静止画と動がの世界ともいえるが、ひとまず2種類に分類される。それらは私たちに物語、現実かフィクションかはさておき伝えてくれる。それらの物語は私たちの感情を何かしら発露させ、目の前で起きた出来事としてきおくされる。言わば第三者として傍観した記憶であるが、それらによる感情は脳内イメージに、記憶によって引き起こされる感情とは違い、ひとまず私たちを距離を置いた、客観的で物質としてこの世に表現された一個体のメディアであるという事から立派な現実の出来事といえる。そしてその物語の中で自分のなにかしらが表現さりえれば、そこに自己を見出し自分とメディア内の物語の同化が始まり脳内イメージさえも現実と結びつけられる。

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