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【脳からでまかせ】その2 〜スピリチュアルな思考方法?〜

※散歩してたり風呂に入っている時などにふと思いつく、本当にどうでもいい事を、整理も熟考もせずにただ「書くためだけに書く」というのを楽しむためのシリーズでございます。


引き寄せの法則

先日、かなり大きな古本屋を徘徊していまして。

店内をブラブラと歩き回っていた時に、多分『自己啓発』とかその手のコーナーでひときわ私の注目を集めるタイトルを目にした。正確なタイトルは覚えていないのだが大まかにこんなタイトル。

『アナタに富が集まる”引き寄せの法則”』

うん、いいんだ別に。そういう本が古本屋にあっても。

しかし、自分の経験を踏まえると、この書物が古本屋に置かれるようになった経緯を考えずにはいられない。
「まさかこの本を売りに来た人は、お金に困ってコレを売りに来たのか?」と…。
それは、この本に書かれていることが役に立たなかった事を意味する。
それをさらに古本屋でお金出して買う人はいるのだろうか?

この本の定価が仮に1800円だったとしよう。
おそらく古本屋での買取価格は300円前後。
きっと書店で新品だったこの本を買った人は富を引寄せたかったんだろうと思う。本屋さんでスピリチュアルな感じの本が並ぶコーナーでこのタイトルを見つけて、その場でパラパラとページをめくってみる。

同じように、こういう系統の書物を何冊も書店でパラパラとめくってきた私の感触からすると、いろいろなタイトルがあり、いろいろなアプローチ方法があるにしても、どの書物でも要約すれば大体以下のような事が書いてある。

「自分は既にソレを手にしていると信じて、毎日明るく元気に過ごせばそーなりますよ」

表現の仕方は各々多少異なるが、大雑把に言うとそんなところだろう。

だがちょっと待て。
そもそも私たちは子供の頃、大抵は「何か」が起きるまでほとんどの望みは実現すると根拠もなく思い込んでいて、毎日明るく元気に過ごしてはいなかっただろうか?

それが例えば、「お金に困る」という状況になってしまったが為に、叶わない望みばかりが膨れ上がり、望みどころか今月の支払いをどうしようという困った状況になって、明るく元気ではいられなくなったのではないのか?
もしかしたら、どうせなんでも叶うと思い込んで、明るく元気に過ごしていた結果として、現在の困窮生活に至ったのではなかったか?

そして、この本を古本屋に売った人は、似たような状況の中でただでさえキチキチの食費を切り詰めて1800円でこの本を買って安心して、その結果今晩をカップラーメンでしのぐために300円でこの本を売ったのではないだろうか?
なんて事を考えたりした。

おそらく、子供の頃から辛い現実と向き合わなければならなかった人たちは、こうした本に出費などせずに、読む時間も惜しんで堅実に稼ぐための作業をしたり、そのために役立つ書物で勉強するなどしており、まずは少しずつでも自分が明るく元気に過ごしていけるようにしているのではないだろうか?
まぁ例えば、1800円払って300円を回収するよりも、1800円できちんと栄養のある食事を取って、深夜の読書は控えて睡眠を充分取るとか。


この本が果たしてどれくらい売れているのかは知らないが、この本で富を手にしたのは、読者ではなく著者や出版社だったのではないかと思う。

そういう意味では「引き寄せの法則」というのは確かに存在する。
そして「引き寄せの法則」という言葉に引き寄せられる人たちも存在する。

いや、こういう捻くれた書き方をしているからと言って、私はこういう本を批判する気はないし、それを買ってなにかしらの生きるヒントを得ようとする人たちも批判する気はないんですよ。
書いている人の中には本当に自分が経験したことや見聞した事を踏まえて、広く皆さんに紹介して多くの人を幸せにしたいと思って書いてる人もいるだろうし、読んでいる人はきっと、その価格やページ数に見合った分の時間だけ、幸福や安心感は味わえていると思うので。

そして、こうした本を本心から書いている人たちが伝えたかった真髄というのは、結局のところ先ほどちらっと書いた、こうした本を読まないタイプの人たちのような心の持ちようなのではないかという気もするのです。

もしくは、出版社の要請なのかもしれないけど。


私の”スピリチュアル”体験

かく言う私はというと、実はこの手の事に対して比較的興味を持っている人間なんです実は。
「引き寄せの法則」という事ではないし、そしてそれを生業にできるようなアレではないけれど、色々と経験した事もあれば色々と感じたり反応したりすることもある。
ちょっとここでは詳しく書くつもりはないけれど。
その色々の「メッセージ」だか「内なる声」だか「ハイヤーセルフ」だかによってそれなりに毎月決まった給料をもらっていた職を離れたりもした。

あとはアレですね。俗に言う”神様”というものも信じております。特定の宗教には属してないし、特定の教義も信じてないけど。
そういうのを信じて所属してたり帰依している方に対しては、それぞれの事情があったり、体験を経てのものだろうからとやかく言うつもりはないけれど、私個人としては自分の体験や知見を経て、信仰というのは自分自身の中でそれぞれの形で自由に持ってりゃいいやってものだと思っているので。

あ、”神様”と言ってもですね、白い服着てヒゲの生えたお爺さんとかがいると思ってる訳ではないです。いてもいいけど。なんならヒゲの生えたおばあさんでも構わない(昔近所にいたけど、まさか彼女ではあるまいな?)。

それは自然現象とか宇宙の構造とかでもいいし、なんか人間っぽい姿で存在しているものでもいいし、宇宙人だったとしても問題ない。要するに「得体の知れない作用がある」という意味で信じている。

こういうのを信じている事を「非科学的」という人もいるかも知れないけど、単に「現時点での科学では、そしてもしかしたら今後もずっと、ヒトには解明できない事柄がある」と思ってるのね。
ほんのちょっと前までは、あんなでっかい鉄の塊が何百人も乗せて空を飛ぶことだって充分に非科学的だったのだから。
付け加えるなら「科学で計算、証明できないものは、この世には実在しない」というのだってさ、ヒトがそう決めてるだけの話で、クマやヒツジも同じ考えだなんて話は聞いたことないし、ヒトの中にだって同意しない者は大勢いるだろう。それこそ、その主張が絶対的に正しいと、どうやって計算したり証明できたりするんだろう?

というくらいに、”神様的なもの”は信じているし、精神的なものに比較的重点を置くタイプの者でございます。


ただ、いわゆる”スピリチュアル”という冠で定義づけられたり、語られたりする事とか、そういうのを何かの「仕分け」みたいな形で名称付けしたり、知識や思い込みや錯覚を「私はスピリチュアルなジャンルに精通しております」みたいなアピールしてる感じに抵抗があるんですよ。

あとは、こういう類のものを見聞きしたり、特定の宗教に属しているような方々で(クドイようですがそのこと自体はまったく否定しません)、私のような戯言を吐く者を不快に思ったり、自分は深くその事柄に精通しており、そのほかの哀れな人たちより素晴らしい人生を歩んでますみたいな意識を持っている(自覚はないかもしれないが態度に表れる)というタイプの方が苦手なのだ。これはもう、生理的に。


ちなみに、私の信じている”神様的なもの”とか”スピリチュアルなもの”は「ユルい」。そして「冗談好き」だ。もうひとつ付け加えるなら「せっかく全部用意したのに、なんで教義なんて縛りを作っちゃうの? もったいない」とか言いそうなくらいのアレである。

教義があるとするなら
「全部好きなように使っていいよ。楽しくやんなさい。」
って事だろう。

なので、このように神や精神世界に対して、いちいち茶化したような物言いをしても失礼には当たらない。ちゃんと「愛あるいじり」と受け止めてくれる点では、昨今のテレビ業界やそこを執拗に責め立てる視聴者よりも融通が効く。

そして、神は試練とともに冗談も与え給う。

放っておくと一冊の本が書き上がりそうなんで(1800円くらいの)、一例だけにしておくが、私のお気に入りの体験談を紹介しておこう。

いろんな時代、いろんな地域で「聖人」と呼ばれた人たちは皆、たとえ話や寓話を語るのを好むが、これもそんな話のひとつだと思って読んで欲しい(ごめん、やっぱりそれはナシ)。

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今から十数年前のこと。

私は非常に生活に困っていた。
今よりも困っていたのだと言うと、今の私を知っている者なら「そんなに!?」と驚愕するくらい困っていたのだ。

そんなある日、一軒のカフェに入った。
レジで200円のコーヒーを注文して、その場で受け取って会計を済ませるタイプの店で、その日は5人くらいの集団の客がアレコレ注文している最中で、私は少し離れた場所で順番を待っていた。
その時、足元にATMに置かれているような、銀行の封筒が落ちているのが目に留まった。

ちょっと膨らみがある。

拾い上げてみる。

膨らみに見合う重さを感じる。

中をのぞいてみる。

中身をちょっとだけつまみ出し、ざっと数えてみる。

1万円札が凡そ20枚…

中身を戻してあたりを見る。

レジにいる客たちは、メニューを見ながら何を注文するかを決めたり相談したり、店員に質問するのに余念が無い。

店員はそれをさばくのにてんやわんや。

客席までは距離もあり、皆携帯電話をいじったり、会話に夢中で、だれもこちらを見ている者はいない。

どうする?

どうしよう?

どうだろう?

ものすごく悩んだ。あと、久しぶりに大金を手にしていて緊張と興奮もしていた。

しかし、おそらくここでこの金をいただいたとしても、あとあと嫌な気持ちでアレコレ悩んじゃうだろうなと思い、自分の順番が来た時に、店の人に「コレ、落ちてたよ」と渡した。

結局、落とした人はその店内におり、まぁ、めでたしめでたしだったんだけどね。

私はと言えば、その事で結局翌日までアレコレ悩んだのだ。

あの20万があれば、どれだけ助かった事か。
誰も見てなかったし、あの客だっていつどこで落としたのかなんて気づいてないんだから、後でバレるなんて事もなかっただろう。

しかも、誰もこっちを見ていなかった。
コートを着ていたし、封筒をさりげなく内ポケットに入れてしまえば、簡単な事だった。

あぁ、お金が欲しい。もっと欲しい。今すぐ欲しい。できれば働かないで楽して欲しい。アレは神様が与えてくれたチャンスだったのではないのか? なんでオレはあの時ビビってしまったのだ? これこそ、オレが引き寄せの力を使ったのではないのか?

しかし、他の誰も気がついていなくても、私はその一部始終を見ていたのだ。あの時、オレが見てさえいなければ…

そして私は固く心に誓った。
「拾ったものを届けても結局こんだけウダウダ考えちゃうなら、今度こういう事があったら絶対に着服してやる!」

その翌日。

私は昨日と同じカフェに入って、またしても順番待ちとなった。
そして前日と同じ付近で
「あぁ〜、昨日ここにオレの20万があったんだよな〜」
などと思いながら足元を見てみると、なんと同じ場所にお金が落ちているではないか!

……‥…‥‥‥‥‥‥‥‥2円…。

次は20万円着服してやると思って、2円って…。

その瞬間、私の暗く澱んで張り詰めていた気持ちは霧散し、一人小刻みに震えながら笑いをこらえた。

そしてその1円玉2枚を拾い上げ、昨日と同じ店員に「また落ちてた。2円」と非常に愉快な気分で差し出した。

おしまい
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このように、私の神様はブラックというかシニカルなユーモアが好きである。

こういう体験は実はいくつかあり、そのような体験に救われて、そして導かれている。
どこに導かれてるのかは知らないけれど、たまに気を抜くと落とし穴も仕掛けられてたりするくらい冗談がキツイ神様である。

コレの何が”スピリチュアル”な体験なのかまったく分からない方も多いのではないかと思う。こういうのは多分、体験した本人がその空気の中で感じる類のもので、決して語り得ないものなのではないかという気がするのだ。

”スピリチュアル”と銘打たれて、文章化したり理屈立てて書かれた「ハウツー本」を読んで、頭で理解して、そんな気になって「解釈」しているのと、体験して「腑に落ちる」のとはちょっと違うかなって気がする。

『ユーモアは神の御心』
と、冗談めかして言う事があるのだが、まぁ冗談なんだけど、コレをただの冗談だと思って受け止める人もいれば、きょとんとする人もいるし、中には不快感を表す人もいらっしゃる。

私は知り合いやこれまで出会った人の中に、そういう関係の分野を仕事にしている方とか、仕事ではないにしてもそんな感じの気配とか能力とかをお持ちの方が何人かいるが、そういう方々は、さっきのセリフを聞くとすぐに理解して同意してくれる。
そして、彼ら彼女らの口から「スピリチュアル」という言葉を聞いた事がない。

なんと言うか、今や”スピリチュアル”って言葉は中身を逸脱して「健康器具」とか「オタク」みたいな、経済流通や何か実生活上の分類系統立ての名称になってしまったようで、ちょっと口に出すのに慎重になってしまうという感じ。

あ、ちなみに私自身はなぜかそういう人と出会う事が多いというだけの話ですよ。私に「富を引き寄せる方法はなんですか?」と聞かれても、それはこっちも知りたいくらいです。だれか教えてください。
まぁ、私を見れば「富を引寄せてない」と判断するだろうから余計な心配か…。


消費する精神

話が支離滅裂になっているが気にするな。

もうひとつ、自分の事を紹介すると、私は先述の『20万円着服未遂事件』の数年前から、部屋に物があるという状況を好まなくなってきて、今でも続いている。

まぁさっき書いた「生活に困った状況」というのがきっかけで、2000枚近くあったCDをほぼ売り払い、同様にやたらと持っていた書物を売り払い(今では癖になって読み終えると売るか知り合いに譲渡する)、DVDやらレーザーディスクのソフトのコレクションを売り、再生機器も売り、とにかく部屋にあった売れそうな物は全部売り、そうこうしてるうちにまだ色んなものがある事がなんとなく嫌になってきて、引越しの機会にテレビも冷蔵庫も洗濯機も処分し、皿や茶碗やコップなども一人分で十分なので処分して、ベッドも捨ててマットと布団だけにした。

使いもしないのに捨てられずにとっていた物はこの先に必要になる事があるかを検討し、多分、このままとっておきたいがためにとってあるんだろうと判断したものは「失った後で後悔すればいい」と言うことにして捨てた(たまに探しても見つからない物はあるが、今のところ後悔した事はない)。

一人暮らしだから成せる技だとは思うけれど、冷蔵庫はリビングから1分くらいのところに「ローソン」という名前のものがあるし、洗濯機はリビングから5分くらいで、何台も並んでいて、しかも夜中に回しても隣近所の迷惑にならないし、思いっきり大型だ。
どうせ洗濯物は溜め込むので、仕事があった日の夜中などに一気に大量に洗濯できるのが非常に楽だ。休日を有効に休める。

子供の頃は大邸宅に住みたいと思っていたのだから、リビングから冷蔵庫まで1分、洗濯機までは5分かかるくらい広い家に住んでいると思えば、夢が叶ったと言えなくもない。執事やメイドがいないのは一人でいるのが好きなのだから仕方ない。どうせ性格的に、あんまり長い時間を第三者と過ごすのは疲れてしまうので、こちらの方が快適だ。

そしてテレビがなくなったおかげで、1日は長くなった。
どうしても見たい番組があればネカフェに行けば良い。都度「この2時間番組は1000円近くを払ってまで見たいくらいのものなのか?」と自分に問いかけるようになり、今ではそこまでする番組は『IPPONグランプリ』くらいのものである。

断っておくが、何もストイックな気持ちでそういう生活にしているわけではない。
自分にとってはそういう生活の方が楽だし、そんなにスペースのない住居も空間ができてどちらかと言うと快適だからそうしているだけのことです。

しかしながら、そうした生活になってから数年後、こういうのがネーミングされてちょっとした流行になった。
極力必要以上の物を持たないライフスタイルを送る人を『ミニマリスト』と呼ぶようになっていたらしい。いつの間にか。
あと、『断捨離』って言葉もよく使われるようになったね。

雑誌とか各メディアでもこの名称をよく聞くようになった。
そんなのわざわざ誰かに紹介されなくたって、自分の生活を快適にする方法なんて自分で決めればいいのにと思うのだけれど、どうなんだろう?

というか、極力物を持たないで生活するって、究極はホームレスなんじゃないかと思うのだが、そういう事でもないらしい。

名前が付けられて、メディアで取り上げられたらそれはもう、ひと時代前に「こういう車に乗って、こういう機能のテレビを置いて、こういう美容用品を使えばアナタも幸福で快適な毎日を過ごせますよ」って宣伝して物を売ってたのと同じ構造で周知されていく。
何かを消費させるためにライフスタイルを提案したりとか精神的な充足感をイメージさせたりする手法だ。

それがかつては「フローリングの部屋に奇抜なデザインの家具を置いて、オシャレなソファーに寝そべりながら高級ワインを嗜みつつ大画面のTVとサラウンドのスピーカーでDVDを鑑賞する」と言ったものだったのが、今度は「何もない部屋で、シンプルなデザインの素材の良いシャツを着て、無農薬の果物を食べながら本を読む周りでルンバが動き回って掃除してる」に変わっただけの話だ。

当時、書店に行った時に『ミニマリストコーナー』というものまであった。そのミニマリストな生活を送っている方のエッセイやら、ライフスタイルを紹介したムック本などが多数まとめて紹介されていた。
要するに、「コレを商品にすれば売れる」って判断して出版するところとか、「コレを特集してコーナー作れば売り上げが上がる」と考える販売店があるという事だ。
発想としては「コギャルのアイテム紹介」とか「人気スターになったカリスマギャルの写真集」とかを出版して、コーナー作ってるのと変わらないし、おそらく買う側の購買意欲が掻き立てられるのも、そういう物質的関心事と同じ回路が働いているんではないかと思う。

そもそも「物を増やさずに、シンプルに生活する」はずの人が『ミニマリストコーナー』で手に取り買うその一冊が、無駄な所有物を増やした事にはならないか?
で、そのコーナーに置かれてたムック本をめくってみたら、何人かのミニマリストが紹介されてたけど、「なんでこんな土地持ってるんだ?」みたいな綺麗な森の奥の広々としたところにデカイ一軒家建てて住んでるとかさ、そんな写真ばっかりだ。
ホームレスの人は誰も紹介されてなかった。

あと『ミニマリスト』ってネットで検索してみたら、トップで出てきたのが通販サイトの『ミニマリストのマストアイテム』だったのは爆笑した。

要するに「物を持たない」というテーマで消費活動しているという事であって、”スピリチュアル”という言葉も消費の中に取り込まれちゃった感が強くしたものだ。

『ミニマリスト』は結局その後聞かなくなったけれど、『断捨離』は今でもSNSとかを覗いてみると結構使われてるみたいだ。
ただ、最近は元々の意味合いは薄れて、単純にちょっと大掛かりな掃除とかいらない物を処分する時に、精神性を含む要素として用いられる言葉に引っ掛けて使ってるという印象がある。もしかしたら、元々の意味合いを知らずに、いらなくなった物を一気に捨てるという行為を『断捨離』と言うものだと思っている方もいるかもしれない。

それはそれとして
『ミニマリスト』も『断捨離』も流行った当時は”スピリチュアル”への関心ごとと無関係ではなかった。
要するに「物を所有したいという欲望や執着を捨てない限り、本当の幸福は訪れません」というのがあって、それで不要な物は手放してシンプルに生きましょうってことになったのだと思うけれど、ここで大事なのは「欲望や執着」を捨てるって事だと思うのね、多分。

なんかこう、そういう話を見聞きして「そうか、それなら持ってたものは捨てよう」ってさ、それは「幸福になりたいから」であって、幸福に対する欲望や執着はあるよね?
物を捨てるという行為にまで及ぶくらい強いよね?

別に何に対して欲望や執着を持ってても、持っていたいのなら持っていればいいと思うので、「あんた、結局は欲と執着にまみれてるじゃないか」みたいは批判がしたい訳ではない。
ただ、こうした流れでミニマリストになってみようとしたり、断捨離する人の多くは、その自分の中にある欲望や執着っていうものをあまり認識していないのではないだろうか?
だから、なんと言うか”スピリチュアル”を置き去りにして『スピリチュアルというカテゴリーに分類された消費物に関するハウツー』が流通してるのかなと、そんな気がする。

うまく言えないけど、物質的な物を受け取るのと同じ構造によって”スピリチュアル”に関する情報や知識を収集して頭で理解する事で「スピリチュアルになったつもり」という人が多いんじゃないかなって思うのです。
私が見て感じる限りの話ではあるけれど。


まとめとしての「おねがい」

色々と取り留めのないことを書いてきたが、このように書いて公表するほどの価値のないことを書いて公表しちゃったりする時に、私は非常に充足感を覚えて、心がウキウキと沸き立つような感覚を覚える。読んでいる方には申し訳ないけれど、正直、何かを主張しようとか、共感を得ようとかも思っていない。楽しければ心にもない事だって書くよ。

ただ自分の心が喜ぶ感触を体感したくて書いているのです。要するに遊んでるのです。
まぁ、世間の定義とは異なるかもしれないけれど、自分にとってはこういうのが『スピリチュアルな作用』をもたらしてくれることだったりする。

色々とあって、しばらくコレがやりたくてもできなかったので、最近またこうした下らない文章を書けるようになって大変嬉しい。ある意味幸福だ。

もしかしたら、コレを読んでご自分の”スピリチュアル”だとか”信仰心”だとかに文句をつけられた気がしたり、批判されたりバカにされてるような気持ちで不愉快になったり傷ついたりする方もいるかもしれないなっていうところはちょっと気になったんだけれども。

でも、それが自分の目的ではないし、考えてみれば強く信じて実践している人が私が思いつきで書いた程度の事なんぞは特になんとも思わないというか、相手にもしないだろうから大丈夫だろう。なんなら、この文章読んだ時の自分がどんな感情を持つかによって、自分の信念の度合いを確認するのに使ってもいいかもしれない。

なぜこんなふうに念を押して書いているかと言うと、この文章を読んで不快になったり怒りを覚えた人たちの『スピリチュアルなパワー』を恐れるからだ。

具体的に「アイツに念を送ってやる」とかも怖いが、怒りを持たれた事が作用して(それが神様に届いて天罰が下るというのでも、その怒りから生じたエネルギーが量子的な反応によって私になんらかの作用を及ぼすというのでも)私の元にやってくる事にちょっと警戒してしまうのである。

「ちょっと不愉快になったり、バチが当たればいいと思ったくらいで、そんな事は起きない」と思うかもしれないが、それは”スピリチュアル”というものを信じていないからそう思うのだ。

私に言わせれば、天罰だろうと量子的作用だろうと、それはヒトの心から生じるものの反応である。誰だってそういう力を持っている。だから、どうかその事に無自覚なままで、そんな気持ちを持たないでください。
つまり、私を悪く思わないでください。

と、そのくらい、先述した通りに私は”スピリチュアル”を信じているし、たとえ冗談が好きな神様であろうと、それを信じているのです。

だから、私の神様がかつて20万円の翌日に2円を見せたあの冗談も、実は「前フリ」であって、この後に20億円くらいを与えてくれるという壮大なオチで私の笑いが止まらなくなるようにするつもりなんだと、固く信じている。
信じているというより、私はそれを知っているのだ。

どうか近日中にお願いします。年度替わりは何かと要り用なので。

もし必要なら口座番号もお知らせしますんで、よろしくお願いします。
振込み手数料はご負担願います。


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