思考の再構築③
こんばんは。海月です。
書いているのがたいてい夜なのでこんばんはとしておきます。
普段はXでデュエプレに関する情報発信を主に行っています。
質問箱の再読3回目です。
Tier表の作成について
懐かしいデッキ名ばかりで、これだけで記憶がフラッシュバックする人も多いんじゃないでしょうか。
こう時間が経ってから見ると、当時やっていた身でも表の正確性が思い出せないものですね。
Tier表が何を基準に作成されているかはしばしば論争の種となり、同時に誤解を生む種になっていると思います。
なので、制作者はどういった基準で作成したかを前面に出す必要があるのだと、経験からも考えるところです。
直近で書いた記事では、強さと流行度の両方を比較的カバーできる指標として、最終レジェンドの想定入賞数を基準にすることとしていました。
これはデッキポテンシャル(≒デッキパワー)も評価指標に含めることができるので、結構アリかなと考えています。
まあ、多様な要素を取り入れるということで、その分成果物に揺らぎも出やすいってことなんですけどね。
自分なりには納得レベルが高いので、しばらくTier表を作る時はこの方針で行こうかなと思います。
回答に戻ると、消極的な三つの理由を付けて返していますね。
それぞれ再考してみます。
・突っ込まれることが多くて面倒
これはほんっとうにそう。
そもそもインターネットでの文字の議論の9割9分くらいを不毛と感じているのですが、その理由は主張の一方向性にあります。
直接の言葉のやり取りじゃない性質からタイムラグを中心に様々なマイナス要素があって、意見の交わりも折り合いもあったもんじゃないです。
具体的な情景を言えば、理由を述べたTier表を作成して出したところに「〇〇がTier1なわけないんだよな~」とか引用で言われようものなら、もう対等なステージで一つの物事を考えるのなんて不可能になります。
こうしたことは余裕で無視できないレベルで起こるので、嫌気がさしてしまうんですよね。
反論すれば泥仕合、口を閉じれば敗走した気分で、どちらに転んでも気が晴れることはありません。
これは似た発信を行う立場を経験した人であれば、広く理解していただけるのではないでしょうか。
・各自で答えを出してほしい
カードゲームの面白さの根源は、構築・プレイ・読みといった様々な要素に知恵を費やした上で、その総合値を競うパズル的な側面にあると思っています。
そのため、発信者としては「如何に読み手に知識を授けるか」と同じくらい、「授けた知識をどう活用させるか」の導線を引いておくことが大事だと考えるのです。
知識の二次生産とでも言いますかね。
私が整理した情報を基に、そこから読み手側で色々と考えを巡らせてほしいんです。
よく週刊などの細かい周期で更新されるTier表を見ますが、それは見る側を受け身にして振り回すものに感じたりもします。
一方的な答えの提示は、長期的に役に立たないその場しのぎの情報となりやすいです。
この辺りは社会一般の通念としても、よく耳にすることでしょう。
ところで、この私の考えには、前述した「突っ込まれることが多くて面倒」に背反する穴があります。
私が出力したものを読み手側が思考を巡らせた後、反対意識を持ってフィードバックするのは活用の結果として当然のことで、それをシャットアウトしてしまっては矛盾しますよね。
指摘されると窮してしまうのですが、そこは一人間である以上不可避なジレンマとして許容していただけると幸いです。
せめて、極力反対意識が湧かないよう、砕いた説明を心がけるようにしています。
・他の人がやることを残しておきたい
これは「餅は餅屋」という私の生来的なスタンスが影響しています。
要はそれぞれの得意分野で還元し合っていった方が、効率がいいだろうという考え方です。
先ほどの導線を引いておくという部分にもかかってきて、私の発信を受け取った別の人がまた発信をするサイクルが生まれればという期待もあります。
これも「ならお前が餅屋なのでは?」と言われると言葉をなくしてしまいますが…
独占を好まない性質も混ざっているのを感じますね。
これもまた、前述の知識の二次生産に繋がって来るところです。
Tier表に関しては、それがどこに需要があるのか?というターゲットのことも最近ではよく考えることになっています。
自分が受信側だった時は何の疑問も持たなかったことなので、発信を始めてから3年経つ今でも思考の対象であることに少し驚きます。
同時に、深く考えることのない発信者との間には隔たりを感じる部分です。
有料記事を書くことについて
長い間この回答の通りの思想でした。
ところが、『モルト王の思考整理』を皮切りに、2023年末から一部記事について有料で発表を行うようにしました。
つい先日も、『レッドゾーンの思考整理』という記事を有料で出しています。
理由は様々にあるのですが、大別するならば二つになります。
一つは「デュエプレの活動に対価を求めた」心情変化を認めなければなりません。
デュエプレに時間を割くことを喜べなくなってきたのです。
これは決してデュエプレがつまらなくなったからではなく、私自身の変化に因っていると思います。
しかし、時間をかけることが惜しくなってきたとは言え、やりたいことや、やらなければならないと感じることがあります。
それらを続けていくにあたって、動機付けにできる対価が必要だったのです。
グダグダ言っていますが、早い話がタダ働きが嫌になって、働きに対して報酬を求めたということにほかなりません。
「労働と感じる部分が出てきた」というのは、最も変化の核心に近そうです。
値段を他投稿者と比べると抑えたり、未成年や初心者への無料頒布を行ったり、収益を災害地への寄付に回したりしているのは、申し訳なさとせめてもの矜持ですかね。
もっとも、自分発の情報に値段を付けられるようになったのは、成長の一歩とも捉えられるのかもしれません。
その重みも発表毎に強く実感していて、はっきりと自身にとってのストレス(プレッシャー)になっています。
「もっと良いものを書けた」「無料にするべきだった」「書く価値がない」などの悔いは後を絶ちません。
こうした苦しみを受け入れる選択ができたのは、創作を続ける上での大きな進歩に感じます。
もう一つが、極めて個人的ですが、お金を貯める必要が出てきたためです。
将来的に金銭で不安になる可能性が高くなる身辺の変化が、ここ最近で起こってきています。
もちろん、記事で稼げる額などたかが知れているのは百も承知です。
ですが、それでも限られた時間をただ娯楽に費やすよりは、そこで幾ばくかの生産を行わねばと、危機感にも近い感情を持つようになったのです。
こうした理由の結果として取った有料にするという選択が、短絡的で、本質的に自分のためになっていないのではないかと感じることもあります。
特に「自分を安売りしている」という批判は兼ねてより受けてきたものです
が、その声がいっそう刺さってくる今日この頃です。
「好きなことを生業にしない方がいい」という警句はよく耳にしますが、こうした苦悩も含まれるのだとは、経験して初めて知ることのできるものでした。
ものに価値を付けるというのは、ものすごく難しく重いことなのだと、強く、強く感じています。
今後も記事を書くことは続けていくと思います。
それが有料か無料かはその都度考え、発表しては考えてを繰り返していきます。
いつか私が苦悩なく自分の書いたものに値段を付けられる日が来た時、またこの議題を再考してみたいです。
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