自然農/妙なる畑の会 合宿会にて

自然農/妙なる畑の会 合宿会にて 2012/2/25〜26(文字おこし)

川口由一さんが言う、
境地を体得するということ。
相対界ではなく、絶対界に立つこと。
個々個々別々で、一体の営みを理解する。
すべての根底はひとつであることを理解し、
人間性の成長に欠かせない境地を得る。


日々の生活の中で、親子の関係で、子どもが何を言っても、そうか、それならこうしたらいいんじゃないかって。ちゃんと答えを出せるときがあるんですよね。ところが虫の居所が悪かったら、かあっとなることがあるんですよ。これはもう境地が落ちてるんですよ。自分の収まり方において。あるいは人と話しているときは、なんとなく自分の、前の人が何か言ったら、それに対して違うことを言いたくなるんですよね。違うことを言ったら、また前の人も違うことを言って、もう衝突ばかりしている。そのときはお互いに境地が低いんです。要するに対立的になっているんです。

ところが、対立的になっているということは、相対界に落ちているわけですね。相対しているわけです。それを絶対界に立ったならば、別なきところに立ったならば、境地が高いから、言っていることの内容に対して、いやそれはこうと違うかとか、なるほどそうだなとか、話がかみ合って、深く追及できるわけですよね。それは境地の体得。絶対界に立っている。相対界に落ちていないわけです。

相対界というのは、個々個々別々になっているわけですよね。このいのちの世界においては、個々個々別々。みんな別々なんですよ。ひとつとして同じものはないわけです。でも根底はひとつなんですよね。すべては根底はひとつ。一体なんです。そこに立てているときは絶対界に立っていると言いますのやわ。それから個々個々別々のところに立っているときは、相対界に落ちている。相対界に落ちて対立的になっているときは、もう衝突ですよね。争いになるときはケンカでしょ? それで国と国との戦争だとか、民族との戦争だとか、そうなるわけですけども。なかなか今日の人類は絶対界に立てないわけですけども。思想の違いからとかね。あるいは利益にとらわれて、お金にとらわれて、国家エゴにとらわれて、衝突するとかね。全部、元は相対界に立っているからですね。

その境地の体得。相対界を離れて、個々個々別々を離れて、ひとつのあるところに立つ。ひとつのあるところに立ったら、個々個々別々は明らかなんですよ。一体のところに立ったら。僕と湯飲みは別なんですよね。別なんですよ。最初から僕と湯飲みの別をつけたら、相対界に落ちているわけですよ。でも湯飲みと僕の別がないところで、別なくこうやっているときは、湯飲みは湯飲み、僕は僕なんですよね。絶対界に立っているときは、相対界も極めてますのやわ。だから衝突しないんです。この境地の体得ですね。絶対界に立つ。別なきところに立つ。そのときの知恵は、平等察知とか言いますけど。別なきところでの知恵なんですよね。

あと害虫と益虫の別をつけるのは、相対界に立っているんですよね。男女の別で権利を主張をしているときは、相対界に立っているわけです。女性は女性の権利を主張している。男性は男性の言い分を言っているときは、これは相対界に立っています。男性と女性の、相対しているところにね。でもこれ絶対界に立ったら、同じ人間でしょ? 別がないわけです。そこに立ったら、男性の立場、女性の立場、ちゃんとはっきり明確になるわけですけども。その境地の体得ね。

それはね、ちょっとしたことで絶対界に立てるし、ちょっとしたことで相対界に落ちるんですよね。一日の中で何度も繰り返しているわけですけども。常に相対界に落ちないで、絶対界に。それでいて別を極める。あなたはあなた、私は私。夫婦といえども、あなたはあなた、私は私。それでいて夫婦は一体ですよね。一体だけだったらダメだし、別々だったらダメなんですよね。それはそういう夫婦関係じゃなくて、自然界においてすべてそうですよ。

地球と私はひとつ。離しようがないんですよね。それでいて地球は地球、僕は僕。僕は死んでも地球は死にませんよね。それでも僕の存在は、地球あってのことで、切り離せないんですよね。地球生命圏があって。地球生命圏の中にすべてのいのちがそこにいてて、初めて私の存在がある。切り離せないんですよ。それでいて僕は僕なんですよ。太陽とも切り離せないんですよね。太陽が太陽のいのちを生きていることによって、地球でもたくさんのいのちが生きられるんだけども、これは切り離せないんですよ。存在においても、営みにおいても。それでいて太陽は太陽、地球は地球。地球上における生物は生物、僕は僕なんですよね。さらに言うならば、すべてをあらしめる宇宙本体とも別なきひとつなんですね。それでいて宇宙は宇宙、僕は僕。宇宙は宇宙、太陽は太陽、月は月なんですよね。その基本のところは、すべてはひとつ。そこに立ったならば、絶対界に立っているということですね。それを見ることができたら、絶対的視野でものを見ている。絶対界を見ているということですよね。事実は絶対の存在ですので、このいのちの世界は。それを見れるか見れないか、ね。そこに立つか立たないかなんですよ。

そこに立てるようになったときに、人間性の成長として、これは絶対に欠かせませんのやけど。人間性の成長で欠かせない境地の体得ね。それから善悪・真贋・美醜の別をつける。それから総合力をつける。それから、自分の資質を明らかにして、一生のうちにどういう分野の仕事をしたらいいかを明らかにして、その技術・能力を身につける。あるいは知識を身につける。そのへんのところで、人間性の成長は、かなりすごいですよね。それを明らかにして育っていったらね。大きく決定的に左右するのは、この境地の体得だと、つくづく思うんです。境地の体得ね。

すべての人に、絶対界に立てるときがあるんですよ。月を見ると夜にですよ、もうきれいだなって。月を見ててきれいだって、空気も澄んでるんですよね。黒い雲がかかっていて、雲もきれいだなって。それでいて、見ている自分の存在をしっかりと認識しているんですよ、そのとき。空気が澄んでいて、月がなんともいえず輝いていて。見ている僕のこともしっかりと認識してるんですね。その空間も、染み渡っている空間も、これ宇宙を見ているんです。これは絶対の境地なんですよ。で、月は月なんですよ、僕は僕なんですよ。月を見ている僕も、はっきりと認識してるんですよね。そういうときは絶対界に立っている。月との隔たりがないんですよ。雲との隔たりもないんですよ。別がない。月と対立してないんですよ。月とケンカしているような状態じゃないんですよ。それでいて月は月なんですよね。

それで絶対の境地に立っているということ。そこで初めて自然界の、あるいは月の美しさに打たれて、なんとも言えず澄んでいて、鏡の如きだなというときは、私の心も鏡の如きなんですよね。それからもやもやしているときは、そんな月は見えませんよ。月の存在すら見えないわけです。ですから、心の状態で、境地を得るときは月とひとつになる、一体になる。それでいて月は月、私は私ね。そしてなんとも言えず美しい。静かな宇宙空間で。静かな宇宙が広がっているわけです。私の気持ちは静かで澄んでて、なんとも言えずさわやかでね。幸せなわけでしょ? そのときは足りないものは何もないわけですよ。そういう境地の体得ね。

そういう境地の体得をして、我が道を得たときに、例えば教育の分野で、教壇に立っても、いい状態で教育ができるんですよね。それが生徒と先生の、教壇に立っている人が相対界に落ちたら、もう生徒と衝突ですよ。たぶん生徒のほうが対立的になってますので、それに左右されますよ。こちらのほうが相対界に立っていたらね。ところがこちらが絶対界に立っていたならば、相対界に対立的になっている生徒をうまく対応できるわけですよね。振り回されずに。いい教育の場を、教育することのできる場をつくって、そういう雰囲気になって、生徒も学ぶ姿勢になってきて、それで教育が成就するわけですよ。何をするにおいても、その絶対の境地は絶対に欠かせませんね。

文章を書くときもそうです。文章を書くときでも、書きたいことがあるんだけども、書きたいことにとらわれていたららば、少し絶対の境地から離れてしまってますね。そのへんのところで、絶対の境地を体得したうえで、書きたいものを。それを見失わずにですよ。書きたいものを見失わずに、その境地も見失わずに、書きたいものを、言葉を探しながら、表現していきますのやわ。

田んぼに立ってもそうですよ。田んぼに立っても。この大根はうまく育っていないのは何でなのか? かってにこぼれたジャガイモが芽が出ているのは何でなのか? というときにね、その絶対の境地で見たときには、いろんなことが見えてくるわけですよね。対立的になったらダメだし、大根に依存していて、大根のことしか見えなかったら、やっぱりこれはダメなんですよね。別をつける。その境地の体得は、人間性の成長でね。そのへんのところは総合的に、総合的にというのはそういうところも含めてですけども。

※5Dmk2動画のテストアップ(無編集)

基本的に、noteでいただいたサポートは、ほかの方の記事のサポートに使わせていただいてます。