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[ことばとこころの言語学・22]「時そば」は聞き手に新しいスキーマとスクリプトを提示してそれを自ら崩すことで面白さを生じさせる。

落語に「時そば」という演目があります。夜遅くに腹が減り、通りすがりの二八蕎麦の屋台を呼び止めた男と、その様子を影から見ていた男の話です。

蕎麦屋の亭主に、「何ができるのか?しっぽく?じゃあしっぽくにしようじゃないか。今日は寒いからねぇ」と。亭主は「ええ、たいそう冷え込みますから」と返します。「どうでえ、商売のほうは?なに?ぱっとしねえか?まあ、そのうちにゃあいいこともあるさ。あきねえといって、あきずにやるこった。」
「ありがとうございます、お客さんはうまいことをおっしゃいますねえ」
「どうもお待ちどうさまでぇ・・・」
「おう、もうできたかい、ばかに早いじゃねぇか。こうじゃなくちゃいけねえや。こちとら江戸っ子だ。気が短えからあつらえもののおせえといらいらしてくる。おや、えらいなあ。おめえんとこじゃ割り箸をつかってるな。うれしいねえ。割ってある箸や塗り箸なんてのは気持ちがわるくていけねえや。誰が使ったかわからねえんだから。それにいいどんぶりをつかってるねえ。・・・中身がうまそうにみえるぜ・・・この汁ぐあいがまたなんともいえねえじゃねえか。かつぶしをおこったな。夜鷹そばの汁なんてものは、むやみに塩っからいものが多いもんだが、これだけの汁はなかなかありゃしねえぜ。うん、いいそばだ。細くて、腰が強くて、ぽきぽきしてらあ。・・・ちくわを厚く切ったねえ。これでなくちゃちくわを食ったような気がしねえや。なかには麩でごまかすやつがいるからひでえじゃねえか。・・・」「いくらだい?」
「十六文いただきます」
「小銭だから、まちげえるといけねえや。手を出してくんねえ。勘定して渡すから」
「では、これへいただきます」
「いいかい、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何どきだい?」
「へぇ、ここのつでえ」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六だ。あばよ」
これをかげできいとりましたのが、世の中をついでに生きているようなぼーっとした男で・・・
[ずっと様子を見ていた男は、蕎麦を食べてお金を払うときに時間を聞いて、一文ずるしていたことに気がつきます。そして、自分もそれを真似て得してみようと思います。]

この男は、次の日に出かけていき、蕎麦屋を呼び止めます。

「おい、蕎麦屋さん、何ができるんだい?え、しっぽく?しっぽくをひとつこしらえてくれ・・・。寒いねぇ」
「いえ、今晩はたいそうあったこうございますが・・・」
「あ、そうだそうだ。今晩はあったけえや。どうだい商売の方は?」
「ええ、おかげさまでうまくいっております」
「なんだい、いいのかい?・・・早くねえなあ。おい、まだかい?江戸っ子は気が短えからとんとんといってもらいてえが、・・・もっとおれは江戸っ子のうちでも気が長えほうだからいいけども・・・それにしても、まだかい?」
「へえ、お待ちどうさまで」
「おやえらいなあ。おめえんところじゃ割り箸をつかってるな。うれしいねえ。割ってある箸や塗り箸なんてのは気持ちが悪くていけねえや。誰が使ったかわからねえんだから。そこへいくと、あれ、この箸はもう割ってあるな・・・、まあ、いいや、割る世話がなくって・・・いいどんぶりだ。中身がうまそうにみえるぜ、器がいいということは・・・、あれ、汚ねえどんぶりだ。ヒビだらけだ。・・・おめえんとこじゃかつぶしおごったな、汁のぐあいが・・・うーん、塩っ辛い。そばに取り掛かろう。太い蕎麦は食いたくねえ、そばは細い方が・・・おい、これが蕎麦か?太いねえ、これは。こうやって食うと、腰が強くて、ぽきぽきしてねえや。うーん、ぐちゃぐちゃしてる。ずいぶん柔らかい蕎麦だね。・・・おめえんとこじゃ、ちくわをずいぶん厚く・・・いや、こいつはうすいや。まあ、それにしても麩を使わねえだけいい。麩なんてのは病人の食い物だ。ふなんて食いたくねえ。・・・そこへいくと、あれ、本物の麩だ。・・・おい、いくらだい?」
「へえ、ありがとう存じます。十六文でございます」
「手を出してんねえ、勘定して渡すから」
「へえ、これへいただきます」
「いいかい、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何どきだい?」
「へえ四つで」
「いつつ、むっつ、ななつ、やっつ・・・」

引用:興津要編『古典落語』(講談社学術文庫)から引用、筆者による要約。

少し長い引用になったのですが、この落語の面白さはおっちょこちょいな男がカッコつけようとして、まんまと失敗してしまう。その失敗が連続することで、絶え間ない笑いとなるのです。私たちの現代のコミュニケーションにおいて落語の世界のスキーマやスクリプトが不足しているにも関わらず、面白いと思えるのはどうしてなのでしょうか?「時そば」は最初の男の物語で、蕎麦屋でのやり取りを提示します。つまり、蕎麦屋の屋台に声をかけ、会計をすませるというところまでのスクリプトの提示がなされるのです。こうして、観客も一通りの流れをおさえることが可能になるのです。

そこで、落語に少しでも詳しい人であれば、この後そそっかしい男が出てきて、それを真似して失敗するという大きなスクリプトを思い出せると思います。しかし、数年前に大学の授業でこの後どうなる?と学生に質問をしても展開を説明することができた学生は一人もおりませんでした。つまり、落語は聴衆によって、大枠としてのスキーマやスクリプトを持っている人と、そうでない人が混在しているのです。ですが、この先が読めないと言っていた学生たちも大笑いすることになるのですが、なぜでしょうか?

それは、最初に提示されたスクリプトを理解し、それを真似ようとした男が発する一言一言が裏目に出ることがわかり始めるからです。最初は、「寒いねぇ」といったにも関わらず、蕎麦屋は「あたたかい」と言いました。ここでスクリプトの一つ目の裏切りが起こります。次に、「商売の方は?」と聞くと「うまくいっている」という返答がありました。ここで2つ目の裏切りが起こります。こうしていくと、だんだんと次はどのように裏切られるのだろうかと期待をしながら落語を聴くことになります。この時点で、聞き手は落語の世界に完全に入り込んでいくのです。

スクリプトの裏切りを箇条書きにしてみると
① 寒さで共感をしようとするが失敗
②商売のことについて「ぱっとしない」という答えを期待し、かっこよく決めてやろうと思うも失敗
③すぐそばが出てくることに対して、江戸っ子だから気が短い、良い店だと褒めたいが、なかなかそばが出てこない
④新品の割り箸を使っていることを褒めたいが、再利用の割り箸が出てくる
⑤器の良さを褒めたいが、器はヒビだらけであった。
⑥汁の具合が絶妙であることを褒めたいが、塩辛かった。
⑦そばの繊細さを褒めたかったが、ベチョベチョのそばだった。
⑧ちくわを贅沢に使っていて麩でごまかしていないことを褒めたかったが、薄っぺらい麩だった
⑨支払いの時に時間を聞いて、1文ごまかそうと思ったが失敗する。

というスクリプトの裏切りが生じるのです。この「時そば」が面白いのは、聞き手と同様に、そそっかしい男の中にも経験として「そばの注文から時間を聞いて1文ごまかす」という一連の流れ、すなわちスクリプトが提示されるのです。そしてこのスクリプト通りに実行して、見事に裏切られるという流れで落語が成立しているのです。

実際の落語を聞いて見ましょう。笑点に出てくる小遊三さんの「時そば」です。枕があるので、6分から本題に入りますのでそこから確認してください。落語家さんによって演じ方が異なるので、いろいろな方の落語を聞いてみてください。


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