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[ことばとこころの言語学・19]いいわけが嘘くさく聞こえるのは?

「会話の協調の原理」について様々な例を通して考えています。本題に入る前に復習です。

会話の協調の原理(Cooperative Principle)

グライスは、わたしたちは協調しながらコミュニケーションを行なっているということを前提に次のようなことを言っています。

Make your conversational contribution such as is required, at the stage at which it occurs, by the accepted purpose or direction of the talk exchange in which you are engaged. (Grice, 1975)
グライスは、自分が参加している会話では、その会話で目指しているとされているもので必要とされているような貢献をしなさいということを提示しています。

そして、会話の協調の原理には4つの規則があり、その規則をもとにして私たちはコミュニケーションを行なっていると考えています。

量の規則:必要なことだけ言いなさい。
質の規則:正しいことだけ言いなさい。
関係性の規則:関係のあることを言いなさい。
伝え方の規則:簡潔に、順序立てて言いなさい。

それでは、詳しく私たちの日常言語に迫ってみましょう。次の会話例から考えてみます。

母親 :こんな遅くまでどこに行っていたの?
娘 :だって、今日、学校でマリの相談に乗っていたら、結構遅くなって。。。マリ彼氏とうまくいっていないみたい。だから、その後夕飯を食べに行こうっていうことになり、そこでもマリの話を聞いていたら、気分を変えよう!っていうことで、カラオケに行くことになって。だって、気がついたら3時間経ってたの。だって、急いで帰ろうと思ったら、電車も遅れていて、なかなか来なかったの。
母親:いい加減にしなさい!

どうして、お母さんは怒ったのでしょうか?遅くまでどこにいっていたの?と聞かれた娘の答えが、だらだらと余計な情報ばかりだからですよね。娘の発話が単なる言い訳にしか聞こえなかったため、母親は「いい加減にしなさい!」と言ったのです。娘の立場になって考えてみると、遅く帰宅したことが咎められると思い、怒られないような理由を並べています。これは、余計な情報まで話しています。つまり、情報量が異常に多いため、量の規則に違反していると考えることができます。娘の発話から言い訳をして、怒られたくないという彼女の気持ちが含意されていると推論できます。

どうでしょうか、みなさんが子供の頃、親に叱られると思った時に言い訳をしませんでしたか?そういう時に限って、情報量が異様に多くなりませんでしたか?ちょっとした嘘をつくには、それなりの理由がありますよね。

例えば、友人からあまり興味のない映画に誘われていく気がない時に、「ごめん、まだ宿題が終わっていないから」とか「夕飯を家で食べるって言ってきたから」と言って断ります。もちろん「いや、その映画、興味ないから行かない」と言って断ることもできます。どんな断り方をしてもいいのですが、私たちは、断り方の表現を慎重に選びます。それは、相手との関係性を考えて、適切な表現を選ぶのです。例えば、両親に映画に誘われたとしたら、「いや、その映画、興味ないから行かない」と言っても大丈夫そうですよね。でも、仲のいい友達だとしたらどうでしょうか?自分が嫌なやつだと思われたくないと思い、何か言い訳を考えますよね。つまり、事実に反することを言ったりします。これは質の規則を意図的に違反します。人間関係を考慮して、規則の違反が意図的に行われるのです。

次の写真をみてください。

この写真はとある公園に掲示されている公共サインです。ここに使われている英語が間違えているのは、今回は問題にしません。まず、本当に赤ちゃんのいる家庭がこの公園に隣接して存在しているのでしょうか?そして病気の人を看病している家庭が実在していますか?この公共サインは10年以上前からここに掲示されています。そしたら赤ちゃんも立派な中学生ですし、病気の方も健康になっているかもしれません。ちょっとおかしいと思いませんか?つまり、本当のことが書かれていない可能性もあります。さらに、静かにしてほしいということを長々と余計な情報を加えてまで説明をしています。質のルールと量のルールを意図的に違反しているのです。

なぜでしょうか?

おそらく、「夜は静かにすること!」という表現にしてしまうと、失礼だと思われたり、高圧的だと思われたりするかもしれません。なかなか直接的に注意をすることは心理的に負担がかかるものです。したがって、「静かにすること」とストレートにいう前に、何らかの「架空のストーリー」を付け加えようとします。それがある意味、コミュニケーションを円滑にするために用いられるストラテジーなのです。

マンションに住む子供が、ドタバタと走り回っている時にどのように言いますか?「下の階の人が迷惑しているでしょ」とか言ったりしませんか?これも、「架空のストーリー」を追加しているのです。他者への配慮を求めるような場合がこれに当たります。

次の例はどうでしょうか?

右折禁止だけでいいのに、なぜ、警察の指導により、という言葉をつけているのでしょうか?これは「架空のストーリー」ではなく、おそらく「実際のストーリー」ですが、少しだけ情報が多くなっています。これも量のルールに違反していると言えるでしょう。これも、私たちが禁止しているのではなく、警察がダメだと言っているから、右折で(センターラインを越えて)この駐車場には入ってはいけません。ここの警備員さんがダメって止めても警備員さんに怒らないでください、彼らは警察の指導をきちんと守っているだけなのです、というようなことが含まれています。おそらく何らかのトラブルを回避するための措置として書かれているということが含意されている掲示物です。

もう一つの例をみていきましょう。

これは、英語で書かれているところもそうなのですが、言いたいことは「ここでタバコは吸えません」ということです。全くタバコを吸ってはいけないという文言が書かれていないにも関わらず、ここでタバコを吸えないと理解できるのかは、禁煙マーク(ピクトグラム)が与えられているからですね。禁煙と直接言及していない、すなわち関連性の規則を違反した表現になっているにも関わらず、その含意を推論することは容易です。

私たちはこうした言語外の情報などを総合的に判断して、私たちはここでタバコは吸えないんだと理解するのです。しかし、このピクトグラムがなかったら、単なる標語のようなものになってしまい、注意喚起の役割は果たせません。

このような言語外の情報を「コンテクスト」ということがあります。つまり、ことばはコンテクストがあってはじめて意味が伝達されるということがここでも理解できたと思います。



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