奥能登の農耕儀礼『アエノコト』 ー 柳田民俗学と固着する儀礼像 ー
はじめに
こんにちは、パトラッシュです。12/22のアドカレ担当ということで、今回は年末にふさわしい民俗儀礼「アエノコト」の紹介をしたいと思います。
『アエノコト』とは
まず、『アエノコト』とはどのようなものでしょうか。
『石川県大百科事典』を開いてみると以下のことが書かれています。
ちょっと長いですが、文章としてはこのような説明がなされています。文章だけではイメージがつきにくいと思いますので、私が今年の秋に柳田植物園で撮影したアエノコトの模擬実演の写真も貼っておきます。
つまりは、奥能登地方に伝わる民俗儀礼で、田の神様がまるでそこにいるかのように田地から迎え、入浴させ、座敷に座らせ、ご馳走を振る舞ってもてなすという一連の儀礼が年末年始に行われているのです。そして、先程の記事の続きにはこのように記載がされています。
つまりはアエノコトは天皇家で執り行われる新嘗祭の民間バージョンであり、稲作農耕民族である日本人の原初的な信仰を素朴に伝える行事だそうです。
しかし、これは果たしてそうなのでしょうか。結論から言ってしまえば、このような現在普及しているアエノコト像は決して唯一見いだされる儀礼像ではなく、むしろこれら新嘗祭との関連を示唆する言説は、民俗学における理論的要請をありきにして、アエノコトが「調査」「記述」されていった結果と言えます。
つまり経験科学としての民俗学の手法として主張されるような、「確かな事実」の集積によって分類し、客観的な比較検討に基づいて行われたものではなく、意図的・政治的なものが含まれていったということです。
では、どのようにしてアエノコトが民俗学に受容され、変容していったのか。それをこれから見ていきたいと思います。
なお、これから話すことは菊地暁(2001)『柳田国男と民俗学の近代』吉川弘文館をベースに書いています。しかし、今回の記事ではかなり内容を端折っており、また私の読解力不足により著者の主張を誤謬している場合などが大いに考えられます。なので、正確に知りたいという方がもしいましたら、ぜひ上述の書籍を読むことを強く推奨します。
『アエノコト』の"発見"と創出される儀礼像
『鳳至郡誌』と『珠洲郡誌』
さて、まずはアエノコトがいつ人々に知られるようになったのか、そこから見ていきましょう。
アエノコトが文献として初めて登場するのは、大正年間に小学校の同窓会誌として編纂された『七浦村志』の中です。
中身からこれがアエノコトのことを指していることがわかるかと思います。ここでは田祭として項目立てがなされていますが、これが活字として表された最初のものでしょう。
ただし、これが同窓会誌という性質上、民俗学徒の間に流通することはなかったようです。
実際に民俗学徒によって知られることとなった記事は同じく大正年間に編纂された『鳳至郡誌』と『珠洲郡誌』中の記事になります。
『鳳至郡誌』では七浦村、大屋村、町野村、柳田村に関して、『珠洲郡誌』では木郎村、宝立村、上戸村、直村、正院村、三崎村に関しての記述があり、短いものでは1行足らずですが、最も長い宝立村の記載を例に上げると以下のようなことが書かれています。
ここで注意してほしいのが、名称についてです。詳しく見てみると、行事の名称については「田の神様」が5例、「田の神の祝」「田神の祭礼」「あえのこと」「よいの事」「あいのこと」が各1例という具合で、この時点では「田の神様」と呼ばれることが一般的だったようです。また、「あえのこと」という名称についても、
といった簡潔な説明があるのみです。
いずれにせよ、これがアエノコトについて周知されることとなった記載となり、かの有名な民俗学の父こと柳田國男もこの儀式について注目するようになりました。
『分類語彙』の出版
アエノコトの記述が初めて世に出てからそう遠くない時代の1930年代、柳田國男は『民間伝承論』『郷土生活の研究法』といったような方法論に言及した著作を発表し、日本民俗学において科学的方法が確立した時代でした。
その中でもメルクマールの一つとして挙げられるものが『分類語彙』と呼ばれる一連の編纂書の刊行です。当時、民俗学研究の資料や論文については主に雑誌上に載せられることが多かったため、時期がずれると入手困難になることが多々ありました。そういった現状を改善し、全国の民俗学徒が容易に資料に当たれるような目録を作り調査研究の指標とする、そのような目的をもって『分類語彙』の編纂がなされることとなりました。そしてこの『分類語彙』の編纂作業の一環が、柳田が初めて自身でアエノコトについて執筆する契機となりました。
柳田によるアエノコトの記述は「年中行事調査標目」と呼ばれる『旅と伝説』に連載されたもので、その第十回目に登場します。「年中行事調査標目」も、『分類語彙』編纂と同様、年中行事に関する郡誌、雑誌等の情報を分類整理し、民俗資料の共有や調査目標の明確化を目的として編まれたものです。アエノコトについては、中項目「田神祝と山祭」の小項目「アエノコト」「ヨイノコト」「タノカミイハヒ」「タノカミムカヘ」に現れます。基本的な説明は前述した郡誌と同様なので省きますが、問題は柳田が新たに付加した部分です。
ここで、柳田は『鳳至郡誌』に述べられていた由来を排除し、「アエ=饗」の「コト=祭」という解釈をしました。
しかし、先ほどの『鳳至郡誌』の記述まで遡ってみると不可解なことがわかります。というのも、この段階では「アエノコト」という呼び方見出されたのは一件だけであり、専ら「田の神様」という呼び方がメジャーだったわけです。たった一例しかない「アエノコト」という名称をあたかも奥能登の儀礼の代表的名称であるようにみせたうえで、古語の解釈を用いて柳田は「饗応の祭典」という儀礼像をアエノコトに与えたのです。
儀礼像の成長 ー『日本の祭』から『山宮考』にかけて
これ以降、柳田の想像は留まることを知りませんでした。
戦争真っ只中の昭和16年、大政翼賛会に呼応して東京帝大で結成された全学横断の組織「全学会」の講演において柳田は再びアエノコトについて言及しました。
ここでは割愛しましたが、アエノコトが発見されてからここまでの間に、小寺廉吉による奥能登のアエノコトの実地調査がなされています。そのため、それら成果が反映されたことで「年中行事調査標目」の際の記述よりも儀礼について仔細のことが書かれていますが、基本的な柳田の想像による儀礼像は踏襲されています。しかし一方で、主人が大声で説明するのは神様が盲目だからだという村人たちが伝える説については、原因は別にあると断じて以下の解説を柳田は行いました。
柳田はアエノコトに祭主が神になり代わって供物を食べること、つまり「祭主=神主=神」という神人合一の姿を見出そうとしたわけです。
神人合一云々という話、これは「固有信仰論」と呼ばれる柳田が考える日本人の宗教観に関する論理です。この論理は、「日本の神は全て祖霊であり、土地に常にいるものではなく季節によって祖先の元へ訪ねてくるものである。そのため、神に対し来る時の目印を設けて、来る場所を清め、神人共食し、合一することで神託を伺うのだ。」といった観念であり、アエノコトが言及された講演と同じ場で提唱されました。
つまり柳田は、彼が提唱する固有信仰論の論拠を強固にするため、わざわざアエノコトを引っ張り出してきたわけです。この固有信仰論が戦時中の世相の中で萌芽したものであるという背景も見過ごしてはなりません。
このように柳田は既存の資料とは無関係に想像を羽ばたかせ、それ以降も同様、昭和22年に『山宮考』においてアエノコトに祀られる田の神は山の神であって祖霊であるといった解釈を行いました。
この時点ですでにアエノコトは、「漢字では「饗の事」であって御膳や風呂は神人合一の境地を具現化したもの。そして祀られている田の神は実は山の神であってそれは祖霊なのだ。」という儀礼像ができあがってしまっています。
柳田は、民俗学の根幹は「確かな事実」の比較研究に拠ると主張してきました。しかしその言葉とはうらはらに、「アエノコト」は極めて限定的な資料や一部を取り上げることにより、柳田の逞しい想像力をもって儀礼像が与えられることとなりました。そして、そのような儀礼像は、彼自身に留まることなく彼の著作を通して各地の民俗学徒へと広がっていくことになりました。
終戦とアエノコト像の確立 ー にひなめ研究会の創設
昭和20年に終戦を迎え、宮中における祭祀についての情報も公開されるようになりました。その折に、戦争に負けた日本国民を勇気づけるため「天皇制の起源を新嘗の行事のうちにもとめよう」という気概が三笠宮崇仁親王を中心に湧き起こり、それは柳田を巻き込み「にひなめ研究会」が発足することとなりました。
この会で、柳田は「新嘗祭の起源について」「稲霊信仰」「倉稲魂神名考」と三回わたって研究報告を行っており、そしてその中でアエノコトについての言及がなされました。
以下は、その研究報告をまとめた『新嘗の研究』第一輯「稲の産屋」より引用したものです。少し長いですが。
「稲の産屋」において柳田は二つの点に焦点を当てています。一つは沐浴、もう一つは種籾俵です。この段階で柳田の主張は「祖霊」から「稲霊」へとスライドし、そして民間行事と宮中祭祀との間に共通点を見出し、民間と皇室との間にアエノコトを接着剤として稲霊信仰を見出しました。
にひなめ研究会は敗戦による意気消沈した国民を鼓舞しようという動機のもと発足した研究会ではありますが、一方民間および宮中に伝わる農耕に関係する儀礼に共通性を見出すことにより天皇制を民衆というベースの元に再構築しようという、戦後という特殊な社会背景によって生み出された意図もありました。
柳田は晩年、自身の人生を振り返った『故郷七十年』の中で次のように述べています。
柳田にとって皇室と国民をも包含した「日本」という根源的な同一性は自明でした。戦後、日本文化史に論争を巻き起こした騎馬民族説は彼にとって承服しがたいものであり、その中で皇族たる三笠宮が発起人となり、皇室と国民の間に稲作民族としての日本人たる共通性を語るという場は願ったり叶ったりといったものに違いなかったでしょう。
これにより、アエノコトを原初的な農耕儀礼とする解釈以外のあらゆる解釈を見出す可能性は完全に失ってしまったのでした。
そしてそれは学界のみならず、奥能登の現実へも染み込んでいきました。
おわり
アエノコトが如何にして柳田民俗学に受容され、儀礼像が固着していったかというのを大雑把にではありますが見ていきました。しかしこれはまだ始まりにすぎません。
今回は割愛しましたが、そのような儀礼像はその土地へ、伝承者へと徐々に浸潤し、時には写真などのメディア媒体を通じて儀礼そのものの姿を変容させていくことになります。
ちなみに1999年出版の『日本民俗大辞典』の「アエノコト」の項目を引くと、かなり慎重な記述となっていました。
アエノコトは、昭和51年に重要無形民俗文化財になり、そして平成21年にはユネスコ無形文化遺産に選定されました。それら文化財制度による選定も民俗行事への往く末を変化させていくことになりますがそれはまた別の話。
万人が気軽に情報を発信することができる現代、これから民俗儀礼がどのように変容していくか、興味の尽きないところです。
参考文献
岩本通弥編(2013)『世界遺産時代の民俗学 ーグローバル・スタンダードの受容をめぐる日韓比較』
菊地暁(2001)『柳田国男と民俗学の近代』吉川弘文館
福田アジオ他編(1999)『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館
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