17.上古音と中古音

中国語の漢字音は漢民族の音(上古音という)の上に、異民族である北方民族の鮮卑・匈奴の音が載り、形声文字の細かな音の違いが変化して、ある文字は上古音とは違う音になる。このような形で生まれた北方系の発音を中古音という。

魏・蜀・呉が覇権を争うことになる三国時代の前夜、プレ三国時代ともいうべき漢末の動乱時、中国華北に鮮卑・匈奴などの北方民族が流入しはじめ漢民族は激減した。

184年、黄巾の乱が発生し後漢は崩壊に向かい、これを契機に曹操、劉備、孫堅が各地で挙兵し三国志の時代を迎える。

220年、曹操死去し、子の曹丕魏王を襲位。漢の献帝は曹丕に皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢滅亡した。禅譲を受けて曹丕は皇帝(文帝)となり、魏を建国した。

221年、劉備も漢の後継者と称し皇帝に即位し、蜀を建国した。

222年、呉の孫権も帝位を宣言し、三国鼎立の状態となった。

三国時代を通じて北方民族の流入はみられた。

263年、蜀が魏に滅ぼされる。

265年、魏が晋の司馬炎に帝位を禅譲。

280年、晋が呉を滅ぼし天下を統一した。

晋の初代皇帝・司馬炎の死の1年後の291年、王族だった司馬氏同志が抗争を繰り広げた八王の乱が勃発。王族だった司馬氏は戦闘に北方民族を傭兵として活用したことで、華北は完全に鮮卑や匈奴などの北方民族が支配するようになった。

316年、漢民族の晋は匈奴に滅ぼされ、首都洛陽を追われた司馬睿は揚子江流域の呉の地に遷り、東晋を建てた(都、建康、今の南京。それまでの晋を西晋と呼ぶ)。

華北では五胡十六国が乱継続し、386年、北魏が建国し、439年、その北魏が華北を統一した。

華南では420年、東晋から宋に移り、南北朝時代となる。(鮮卑族の北朝は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝。漢人の南朝は宋・斉・梁・陳の四王朝が興亡、呉・東晋朝を合わせて六朝時代。)

南北朝の時代に漢字音はそれぞれの地方で独自の変化をしたが、漢民族の南方系はそれほど変化しなかった(上古音を色濃く残していた)。

三国時代が上古音から中古音への変遷期とみる向きもあるが、魏晋時代の歌謡などの押韻パターンは去入の押韻がかなりあり、去声の多くが濁音韻尾を保持していた可能性が強く、ほぼ完全に上古音の体系になっている。

上古音から中古音への変遷期は五胡十六国の時代で、それも華北において顕著であったと見るべきであろう。

589年、南北朝は北朝系の隋により統一された。

〇切韻

隋の仁寿元(601)年、陸法言・顏之推らによって中国最初の韻書(発音辞典)である『切韻』が編纂された。

『切韻』に「秦人は、去声も入声(「k、t、p」の子音で終わる音節のこと)のように発音する」と書かれており、秦人にも濁音韻尾の上古音の体系が残っていた。つまり、『切韻』成立の隋の時代には濁音はほぼ消滅していたと推定される。

『切韻』は唐(618-907)の時代に増補され『唐韻』(732年成立)と称された。

唐代には韻書の他に日本語の五十音図に相当する韻図が盛んに作られ、その一部は現存していることから、この時代の漢字音はよくわかっている。

中古音は韻書や韻図を資料とする唐代の音韻体系で「隋唐音」「隋唐代標準音」とも呼ばれている。

唐の長安の発音は、声母の清濁がほぼ消滅し、次濁声母(鼻音)が鼻濁音化した。

 唐の時代になると異民族であった北朝系を歴代王朝として正当化する為に、自分たちが使用した鮮卑・凶奴の音が混じった発音を「漢音」と称し、漢民族の音である南朝系の使用した言葉に「呉音」のレッテルを貼った。

唐の李涪は『刊誤』の中で切韻の発音を「呉音」であるとし、「然呉音乖舛、不亦甚乎。上声為去、去声為上<呉音の間違いはまたひどいものではないか、上声を去声とし、去声を上声とするとは>。」とか、長安では「何須東冬中終、妄別声律<東と冬を分ける切韻のような、ややこしい韻の区分をしてはいない>」と述べている。

『切韻』は当時の中国語の音価を反映したものではなく、漢人に対して異民族の王朝である隋・唐が多言語の統一国家を文化制度面で維持するために、儒者たちが古典を朗読するための「音価はこうあるべきだ」という、国家が認定する標準的な読書音を示した発音辞典である。

上古音とは詩経や楚辞あるいは辞賦などを資料とし推定された音韻体系(詩経音系)である。

だからこそ、『切韻』は科挙の基礎ともなった。

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