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板場の浅太郎は赤城の子守唄を歌わない

相当以前だが、浅草の名画座で東宝映画の「国定忠治」を観た。監督は谷口千吉、脚本は新藤兼人、となれば多少は期待出来るのだが、実にどうでもいい駄作だった。忠治役は三船敏郎、勘助は東野英治郎、勘太郎はなんと中村勘三郎である。浅太郎が誰だったか記憶にない。まず、苦しむ百姓のために悪代官を斬る、などといった時代劇の王道のような筋立てでは、面白くなりようがないのだが、谷口千吉の仕方なく撮ってる感が全編に漂ってるような映画だった。だがこの映画、アメリカでは「gambling Samurai」のタイトルでそこそこ人気があるらしいんだな。まあ連中はミフネが刀振り回してりゃ大喜びだからねえ。

この映画の勘助殺しはこんなふうだった。

大捕物のあと赤城山で、忠治は浅太郎に盃を返し、勘助の後見をしろと命ずる。浅太郎は山を下って勘助宅まで行くが、捕方にいた勘助を裏切り者と勝手に思い込み斬って首を刎ねてしまう。そして勘太郎をおぶり勘助の首をぶら下げて赤城山に戻る。忠治、本当は勘助が捕方の手薄な方向を教えてくれて逃してくれたのにと、勘助の首に詫びる。浅太郎真っ青。あ、思い出した、浅太郎役は夏木陽介だった。これ以上お百姓に迷惑はかけられねえ、赤城の山も今宵限りと忠治は勘太郎を背負ってどこぞへ旅立つのだった…。

忠治は人情に篤い親分、浅太郎浅慮の馬鹿、勘助とんだとばっちり、てな描き方だ。ま国定忠治といえば概ねこんなもんである。

では実際はどうだったのか。

二足草鞋の勘助が捕方にいたことで、浅太郎が密告者と疑った忠治が、身の潔白を晴らしたかったら勘助の首を持って来い、と命じたのは前回の通りだが、実際の浅太郎は単身勘助宅まで行ったのではなく、自身の子分を従え総勢八人で乗り込んでいる。殴り込み同然である。

勘助がいる妾宅を押し込み、有無とも言わせず叩っ斬り、首を切り落とし、さらに泣き喚く勘太郎までも斬り殺すという凶行。妾は子分が斬ったが、負傷しながらも逃げて助かっている。この妾がのちに証言して記録に残った。一方では妾宅ではなく自宅を襲われ、たまたま妻と長女は留守で助かったという説もある。

いずれの説も勘助と幼い勘太郎は浅太郎に殺されているところは一致してるわけで、赤城の子守唄などでっちあげもいいとこである。勘太郎は当時4歳で、名前も太郎吉が本当とか記録が曖昧だがまあそれはいいだろう。

浅太郎は勘助の首を忠治に差し出して密告者の汚名を晴らしたが、忠治一家は追及の手が厳しくなる一方でにっちもさっちも行かなくなり、赤城の山も今宵限り東の空を雁が飛んでいかあ、と離散する。

浅太郎はその後赤城山から信濃路に潜伏しつつ、長野県佐久にある金台寺に辿り着く。ここの列外和尚という住職に弟子入りの形で住まわせて貰ってるうちに、どうやら悔悛の情が湧いたらしく、勘助親子の菩提を弔っていたりしたが、ある時参詣人の中にヤクザ時代の知った顔があって見つかってしまい、捕まれば獄門晒し首間違いなしのお尋ね者、そうなりゃ寺にも和尚にも迷惑がかかると、世話になった和尚にだけは挨拶をして、金台寺も今宵限りと闇に紛れて逃走した。

あてもなく歩いた裏街道の宿で、取るものもとりあえずと抱えるように持ち出した荷を解くと、そこには半紙で包んだ幾ばくかの金と、藤沢遊行寺宛の列外和尚の紹介状が入っていた。和尚は全てお見通しだったのだ。その慈悲に浅太郎は泣きの涙で手を合わせた。

藤沢遊行寺は当時治外法権で、「榜示」と掘られた石柱が立つ寺領内に入れば罪人とて追及の手を逃れられた。もっとも誰しも寺に入れるわけではないので、列外和尚の紹介状はお墨付きと言えた。

浅太郎は和尚から頂いた金子で身支度を整い、一路藤沢遊行寺を目指した。頭の菅笠で顔を隠し、小袖を尻からげにしてその上から引き回し合羽をつけ、博多帯に股引、道中差し、紺脚絆、紺足袋、草鞋、振分荷物を肩から下げるといった道中町人の出立ちで一見ヤクザ者には見えない。

目立たないように裏街道を歩き大分遠回りをして東海道に出る。藤沢まであと少し、というところでふいのにわか雨、合羽の前を合わせ菅笠を深くして、それでも歩いていたが、雨足はますます強くなる一方で、馬の背を分ける土砂降りになった。

こらいけねえ、どこかに雨宿りするところはないかとと見やれば、先に雨にけぶってうすらぼんやりと辻堂があった。

続く

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