ピストル強盗清水定吉 1

その名前を初めて聞いたのは、故立川談志師匠の高座だった。たぶんラジオの放送だったと思うが、調べたらCDになっている。1982年6月18日国立演芸場「落語家生活30周年記念 立川談志ひとり会より 源平盛衰記」がそれである。談志はマクラで、学校で教えるのはありきたりの人物ばかりでもっと他に教えなくちゃいけない奴がいるだろう、といった論調で「国定忠治とか五寸釘の寅吉とかピストル強盗清水定吉とかね」と言った。客は爆笑。インパクトのある名前の突飛さに笑いで反応したのだろう。

ピストル強盗清水定吉とは一体どんな人物なのか。

国定忠治は言うに及ばず、日本の脱獄王と云われた五寸釘の寅吉は、雑誌の読物などで取り上げられたり、近年でもTVドラマになったりしてそこそこ知られた存在である。しかし今でこそwikipediaに項目がある清水定吉であるが、ネットもない当時では、気軽に調べられるすべもなく、妙にその名前が頭のすみにこびりついたまま月日が流れた。

ところがある日突然、全く偶然に清水定吉の名前に出くわした。人形町から日本橋界隈を散策してたときだ、何気なく眺めた久松警察署の傍に立っていた石碑の碑文に、その名前を見つけたのだった。少々興奮しながら碑文を読んだ。書き写した碑文を全文掲載する。

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【小川橋の由来】

この地は、江戸初期に開さくされた浜町堀で、大川に接し物質の輸送路として大きな役割を果たし、後に浜町川と呼ばれた場所である。

明治十九年十二月三日払暁、馬喰町にピストル強盗事件が発生し、久松警察署小川侘吉郎巡査は現場に急ぐ途中橘町付近で不審なあんま姿の男を発見、格闘となり重傷を負いながら浜町河岸まで追跡しその男を捕えた この男は清水定吉といい当時十年余にわたりピストル日本刀を持って東京府内を荒らし廻り、その間の被害は八十余件にのぼり五人を殺害するなど稀代の凶賊であった 小川巡査はこの功により二階級特進し警部補に任命されたが当時の傷が元で明治二十一年四月二十六日二十四才でこの世を去った

東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみ、この橋を小川橋と名付け不滅の功績を讃えた 世は移り浜町川も埋め立てられゆかりの橋もその姿を消したがその跡地に由来の碑を建立し小川警部補の功績を顕彰する

昭和四十九年四月二十六日 建立

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清水定吉、洒落にならない程の凶悪犯で吃驚仰天だが、むしろもっと清水定吉について知りたいという欲求が沸き起こった。奇しくも明日は小川警部補の命日であるが、碑文にあるように小川警部補の功績を不滅とするならば、清水定吉の悪事もまた不滅であろうと考えた当時の俺はそれからも清水定吉をのんびり追っていった。

それから数年が過ぎたある日、これまた偶然に清水定吉の名前をある書籍に見つけてしまった。それは文豪と呼ばれる作家の随筆で、あろうことか清水定吉を犯罪的天才と評していた。その作家とはかの芥川龍之介である。

以下続く






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