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板場の浅太郎sings赤城の子守唄

1842年、数々の罪状でお尋ね者となっていた国定忠治は、半ばヤケクソ気味に大胆にも赤城山麓田部井村で大々的な賭場を開く。名目は賭場のアガリの一部を農地改革に充てるという、村おこしの一環で、実に国定忠治らしい偽善くさい侠気としか言いようがないが、これがアダとなる。

事前に嗅ぎ付けた関東取締出役、俗に関八州見廻りが威信をかけて総勢300人余りの捕方を集め賭場を急襲し、大捕物となった。多くの子分や手下が殺されあるいは捕縛されて、忠治一家は一気に弱体化する。このあと中地は残る子分と共に赤城山に逃げ込み、「赤城の山も今宵限り…」の愁嘆場となるわけだが。

忠治はまず身内に密告者がいたのではないかと疑う。

関八州見廻りとは、いわば広域警察組織といったもので、直下には領国の境を超えて活動できる寄場組合という防犯組織があり、巡回の折には各所の寄場組合の惣領が案内や事情説明をする。ここからが混み入っているんだが、寄場組合の手下というのは地元のヤクザが任命されることが多かった。黒澤明の「用心棒」をご覧になった方なら、関八州見廻り役をヤクザが接待し袖の下を渡すシーンを覚えておられよう。

寄場組合に任命されたヤクザは、お上の後ろ盾を貰い地元で幅を利かせるが、一方、報奨金をエサに密告を奨励される。つまりヤクザ仲間を売れ、ということである。故に寄場組合のヤクザは、業界からは油断のならねえ奴と信用されず、二足草鞋と蔑称されて嫌われた。

忠治は赤城の山で密告者は誰かと考えて気付いたことがあった。そういや賭場の当日、子分の板場の浅太郎がいなかったなと。板場の浅太郎の叔父である中島勘助は、やはり忠治の子分であったが、今は二足草鞋で寄場組合にいる。すると「捕方に勘助がいたのをこの目で見ましたぜ」と証言する子分が出てきた。

ということはだ、板場の浅太郎が、寄場組合の叔父勘助に賭場の開帳を密告し、勘助がお上にお恐れながらと訴え出て、此度の捕物となったと。勘助は報奨金目当てで浅太郎はそのおこぼれに与ろうてえ算段だろう、そうだそうに違いねえ。猜疑心の強い忠治は浅太郎を疑い、野郎を引っ張ってこいと子分に命じた。

浅太郎は中地の前で、当日は遠来より訪ねてきた兄弟分と女を買いに行っていたと弁明し密告を否定したが、裏切り者を絶対許さない忠治は、だったら、てめえが叔父の勘助の首を持ってこい、それで身の潔白を証明しろと無茶な要求をした。

仕方なく浅太郎は勘助宅を訪れ事情を訊く。勘助はため息まじりに、捕方に加わっていたのは隙を見て忠治親分を逃すためだったと弁明し、そんなおれの気持ちが通じなかったばかりか、おまえまで疑われるようなら仕方ねえ、この素っ首くれてやるからそれで身の潔白を晴らせと男気をみせた。

だがひとつだけ頼みがある、息子の勘太郎はまだ乳飲み子だ、おまえがあとの面倒を見ちゃくれまいか。勘助は覚悟を決めて威儀を正す。浅太郎泣く泣く勘助を殺して首を刎ね、勘太郎をおぶって赤城山に帰る。泣くなよしよしねんねしな。義理人情の愁嘆場。

以上が「赤城の子守唄」の背景だが、これは講談の世界の作り話であって、実際はこうはいかない。さて、板場の浅太郎はいかなることに相成りますか、続きは明日ということで。

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