ピストル強盗清水定吉 3

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写真はイメージです。

前回は清水定吉をガキの頃から手癖の悪い与太者と書いたが、森本哲郎「日本快盗伝」横田順彌「明治バンカラ快人伝」その他の資料から清水定吉の実際の有り様をお伝えしたいと思う。

清水定吉は、元旧幕旗本松平何某の家臣で、自身も旗本のれっきとした武士であったという。名の定吉も本来は「サダヨシ」と読む。剣はもとより槍術柔術などにも精通しており。当然上野戦争に参加して官軍と戦っている。こんな戦闘能力のある男が武装して強盗を働いていたんだからたまったもんじゃないが、この出自から清水定吉は佐幕派と判る。

幕府が瓦解したのち、薩長の田舎芋侍が牛耳る明治の世には抵抗感がある佐幕派は、旧幕臣の元武士はもとより町人に至るまで江戸に住む者は、ほぼ全員佐幕派だったと言っても過言ではない。ピストル強盗清水定吉を知るきっかけとなった立川談志は江戸っ子の定義を「佐幕派であること」と断じている。

そういう佐幕派の東京人が新しい文化を構築していった明治時代、落語から講談演劇文学に至る現代でいうところのサブカルチャーはこぞって新しい権力者を揶揄、滅んだ江戸を懐かしんだ。明治の文学は佐幕派なのだ。

一方清水定吉のような旧幕に近しい士分は冷遇さ、武士の尊厳を剥奪され、まともな職にもつけない者が大半を占めていた。そうした環境が当明治政府へ怨嗟を募らせた。清水定吉の反社会的凶行に明治政府への抵抗を見て芥川龍之介はピカレスクロマンを感じたのかもしれない。芥川もまた明治の文学を継承した佐幕派であるからだ。

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芥川が回想した通り、清水定吉は本所区松坂町2丁目4番地(あの吉良上野介の屋敷があった場所)に居住し表向きは「香川流按摩揉み療治師」の看板を掲げて世間を欺いていた。そしてその隣家に妾を囲い、妾もまた同様に「裁縫洗い張りし〼」の看板を掲げ素性を隠していた。ふたつの家は内部で自由に生き来できるようになっており、その仕掛け廊下の突き当たりの壁をめくると秘密の通路が現れるという者だった。芥川が「壁をがんどう返しにしていた」というのはこれである。

さて、捕縛された最後の事件を当時の新聞、時事新報の記事より引用する。旧仮名遣いは直しておいた。

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「昨三日午前五時頃、日本橋馬喰町二丁目一番町石川スズ方へ、年齢三十五、六位の士族体の曲者が、拳銃を持って路地口より押し入り、脅迫して、金円のありかを尋ねているうち、同家の雇人岡島長次郎が、金箱をしっかり抱えながら、思わず声をあげると、賊は同人目掛けてズドンと一発放ったところ、急所を外れて右の股を打ち貫いた。

すでに夜は明けはなれていたが、銃声が戸外にひびいたので、必ず巡査がかけつけてくるにちがいないと考えたものか、一物もとらず、一散に戸外へ逃げ出した。

これに先だって、表にいた客待ちの車夫が、同家の人声と銃声に驚いてこれは強盗が入ったのではないか思い、直ちに近くの巡査派出所へかけこんで訴え出たので、詰め合い中の巡査小川徳次郎氏が韋駄天走り駆けつけた」

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なかなか臨場感のある記事である。年齢三十五、六とあるが、清水定吉はこの時五十歳であった。小川侘次郎の名前が徳次郎になっているのは、情報伝達の誤りであったろうと思われる。


長くなったので続きは明日。

前回フォローしてくださった方がおられて、非常に感謝の念にたえません。この場でもお礼申し上げます。


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