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針ノ木古道を歩くー後立山連峰へー


    針ノ木古道とは佐々成政が浜松へと徳川家康に会うため冬季に横断した伝説や信濃国の塩商人が販路を求め越中国への道を開拓した歴史を持つ道のりである。そして現在では登山において立山連峰と後立山連峰とを結ぶクラシックルートとしてその機能を残している。今回は、越中国と信濃国のつながり、そしてかつて有していた役割を肌で感じてみたくそのルートを辿ることとした。

渡船を待つ

 早朝6時。私たちは平の渡場にて黒部川の右岸へと渡る渡船を待った。かつては黒部川に吊り橋がかかり両岸を自由に往来が出来たというが、黒部ダムの竣工以降は渡船によってのみ往来を可能としている。1日の運航便数は限られていることに注意が必要である。
 渡船を待つあいだ、視界の前方に黒部ダム対岸の赤沢岳が聳えている様子が見てとれる。地図をみると黒部川から後立山連峰へと至る一般的な道のりは限られている。これには目の前に見える赤沢岳を含む後立山連峰へは急峻な崖が立ちはだかることが理由のようである。したがって、古来よりこの地帯を少しでも緩やかに抜けるため、針ノ木沢のように沢を登るルートが自ずと選択されたのだろう。(もっとも黒部ダムの完成とともに針ノ木隧道及び立山黒部アルペンルートも完成し、現在では針ノ木谷を通ることは一般的ではないが。)

奥の渡船で対岸へと向かう

谷に沿う

 6時を少しばかり過ぎた頃、黒部ダムの下流よりボートがやってきた。軽く船頭さんらによる受付をしたのちに乗船する。彼らは後ろ立山連峰の麓にある大町より通っているという。針ノ木隧道を抜け、船を出す彼らの朝は早い。また、乗船中に彼らと会話を交わしたところによると、針ノ木古道上は今年に入りツキノワグマの目撃情報が増えているという。渡船という登山道では味わえない視点からの光景に感動するとともに、改めてこの先の道中を思い、身を引き締めた。
 ボートは僅か5分ほどで対岸に到着した。ダムは水不足なのだろうか。だいぶ水位を下げた浮きに降ろされた。したがって、下船するとともに梯子を登るかのような階段の急登が始まった。この急登を過ぎると暫く平坦な道のりが続く。この辺りはルートも分かりやすく、道幅が広がる場所もみられた。遠くに針葉樹林帯を望む針ノ木沢に沿って続く谷の様子が見て取れる場所だ。そうして数十分歩くと針ノ木沢と出会う。この地点にはこの古道唯一の橋が架かっている。随分穏やかな山行である。

平坦な道のりを進む

渡渉と藪漕ぎ

 午前7時。快適であった道のりは終わりを迎え、初めての渡渉地点に到着した。ここには対岸にかけてロープがかかっているものの、沢の下流域とだけあり水の流れが速い。初めての川に踏み込むほどの渡渉。躊躇いが生まれたが、ここから先の道のりは長い。覚悟を決めたのち沢靴へと履き替え、沢へと足を踏み入れた。水温は痛みを覚えるほど低かった。足の芯に入り込むかのような痛みである。
 何とか渡渉を終えると次は藪漕ぎに苦闘した。正しいルートであることを示すピンクテープが100mから200m程の間隔で括り付けられており道迷いの心配は少なかったものの、確かな轍を掴めない状況では心配は尽きない。また、所々棘のある植物が足元に生えており十分な注意を払いながら先へと足を進めた。藪漕ぎと藪漕ぎの間にはガレ場もいくつか存在した。人の通らないガレ場は一歩足を踏み入れるたびに小石が下へと崩れ落ちていく。人気のない登山道での滑落は勘弁だ。一歩一歩確かな道のりを確認しつつ進んでいった。

渡渉箇所では沢に入って進む場所も
足元を弄ると確かに道は続いている

稜線をめがけて

 いくつもの渡渉、藪漕ぎ、そして滝を回避するための高巻き道を通り過ぎていく。そうして正午過ぎ、針ノ木沢出合いへと到着した。ここからは谷とは分かれ、沢を後立山連峰・針ノ木岳と蓮華岳の中間地点の稜線めがけて登っていくルートに入る。沢をひたすら登っていくルートであるから道のりとしては非常に分かり易い。とはいえ難所も続く。例えば、滝をまわり込むようにロープを使いつつよじ登っていく箇所は高さと水流によって恐怖を感じた。また、渡渉箇所を自分らで判断しなければならない箇所も複数見られた。
 こうして2時間ほど格闘すると遂に沢の枯れる場所へと辿り着いた。ここでは沢の水を汲みしばらく休息を取った。水はクセがなく非常に美味しい。
 さて一息をつき出発するとこれまでの道のりと比べかなり歩きやすいことに気がついた。幸い小屋の方が草刈りをして下さったようである。藪漕ぎとそれに伴う遭難の心配は要らなかった。こうとあれば、ここまでのペースの遅れを取り戻すように急登を駆け上がった。ふと見上げると針ノ木小屋も見えてきた。ゴールが見えるということは時としてこの先の道中を思い鬱屈な気分にさせることもあるが、これまでの道のりを通過してきた私たちにとって針ノ木古道を歩き抜くという目標が手に届きそうなこの状況は気分を晴れやかにさせるものだ。そうして、さらにペースを上げ休憩もそこそこに稜線へと辿り着いた。針ノ木峠を登り切ったのである。午後4時を回るか回らないかの頃合いである。

振り返って

 針ノ木古道を介した、かつてのつながりと言いつつも流れ続ける沢や稜線への急登など、困難が立ちはだかる状況を目にした後では、かつて山を抜けるということが奥深くへと入り込んでいくために五感を研ぎ澄ます行為であったことを実感させた。さらさら越え伝承では数多くの人々がこの道で生き倒れたと聞く。また、新田次郎著『剱岳<点の記>』中のこの一帯での測量は、その伝承を基に畏怖をもって描かれていた。このように、神経を研ぎ澄ましながら登山を行うことは宗教的信念やアニミズムへと繋がる。これはレジャー化した登山とは性質を異にする。無論、現代の登山を否定するつもりは全くなく私もそれを楽しむ一員である。しかし、針ノ木古道のように必要に迫られ、作られ、使われ、そしてそれに伴う多様な信仰とその実践へと繋がったルートが荒廃しつつある、見向きされなくなりつつある、そうした現状に少し寂寥を覚えるのである。

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