『プラトニックは削れない』第十五話

2010年2月 3

「──では状況を確認しますよ。後日また証言していただきますけど、念のため」
 古代邸に押し寄せてきた警官のうちの一人が、風間に厳しく問いかけた。
「筒木肇は古代さんの殺害のため、古代邸に侵入。しかし隙を見てあなたと古代さんの二人掛かりで筒木を阻止しようと揉み合った。お二人が怪我をしたのはその時ですね? その後逃走しようとした筒木は、物音に気付いて二階から降りてきたお子さんの渚くんを人質に取った。玄関口まで渚くんをともなって逃げた筒木は、そのまま逃走。その際、渚くんは門の前で解放された」
「はい……」
「それで、渚くんは人質に取られて、凶器を向けられたショックから気を失っていると」
「二階の自室にいます。今、救急車が来るところです。逃げた筒木は負傷していると思います」
 風間は無心に答えた。包帯をした左腕を右手で押さえる。
「わかりました」
 警官が言ってメモを閉じて風間の前から消えた時、風間は、おそらくこのまま筒木は行方不明扱いになるのだろうなと悟った。
 風間がやったことは多くない。応接間に倒れた筒木の遺体を工具で解体し、車で運んで数カ所の海に遺棄した。応接間を洗浄し、その上で風間は自分の腕を傷つけて血の痕を残した。筒木の流した血は拭うことができても、鑑識の目は逃れられない。であれば、血はあえて残して、量をごまかすことにした。自分と格闘の末に双方負傷したように見せかけたのだ。
 筒木が殺人犯であることが明るみに出た以上、おそらく今後は現場の検証よりも筒木の捜索に人力が割かれるものと思う。警察は程なく引き上げるはずだ。
 善は放心状態ながら受け答えそのものはできるようで、同じように警察の聴取を受けていた。言い分は風間の指示に従っていた。二時間近くにも及ぶ暴力を筒木から受けて憔悴しており、風間に従う以外の気力が失せているのだろう。それが逆に傍目からは冷静な善に見えるはずだ。
 風間は渚の様子を確認しに、二階へ上がった。部屋に入ると渚は錯乱から落ち着いてはいて、規則的な寝息を立てている。風間はその小さな手を握りしめた。
 温もりを感じたのか、渚がゆっくりと目を開けた。
「ここどこ……?」
「渚の部屋だよ。気分はどう?」
 風間は質問をしたあと、息を詰めた。渚のつぶらで不安そうな瞳がこちらを向く。
「ぼく……ぼく、どうしちゃったの?」
 ──ああ……。
 やはり渚は、あの衝撃的な光景を心の中に封印したのだ。風間は凄惨な出来事のなかで唯一の救いを見出した。
「こわい……こわいよ」
 かすかに語尾を震わせながらささやいた渚を、風間は腕で包み込んで、ゆるく抱きしめた。
「ずっと悪い夢を見ていたんだ」
 過ちに過ちを重ねた実感が、その時やっと風間の奥底に落ちてきた。
「渚……」
 腕の中に収まってしまう、ほんの小さな渚。
 ──罪はすべてぼくが負う。先生は誰も殺していないし、渚は何も見ていない。ただ、先生を殺し損ねた筒木が渚を人質にして、怖い思いをさせてしまっただけなのだ。


 表面上は静かな日々が戻ってきた。
 筒木は風間の読み通り行方不明として扱われた。建設途中だった法人類学研究所の地下解剖室から被害者五名の頭蓋骨が発見され、その猟奇性も世の明るみに出ることとなった。衝撃の事実に対してメディアが善の取材に押し寄せたものの、風間はそのすべてを当たり障りなく断った。
 渚は病院で検査を受けることになったが、駆けつけた救急隊員や風間と一緒に部屋を出ようとしたところ、強い拒絶反応を示した。
『もう怖い思いをしたくない』
 そう泣いて訴えたのだ。大人たちは、渚が人質に取られたという恐怖から、まだ行方不明の筒木が捕まるまでは家を出たがらないのだと推測した。実際、心の奥底に残っている恐怖心とカバーストーリーが合致して、渚自身も〝行方不明の筒木〟を恐れているのかもしれなかった。
 医者に往診に来てもらったところ、渚は事件の数日前から、気を失って目が覚めるまでの記憶をごっそり失っていることが判明した。
 渚は、当時のことがフラッシュバックとして記憶の襞から這い出ない限りは、穏やかな子供だった。善は事件を手がけられなくなったが、風間がそばで二人を支えることで、古代邸は成り立っていた。
 事件から一ヶ月ほど経つと『頭部のない死体』事件は、同等かそれ以上の関心を引くニュースに押しやられて、取材の数も減っていった。

 朝。風間は日課であるポストの確認のため家の家の外に出た。門の内側で、誰かが柵にぐったりともたれかかっているのが見える。
 善だった。
「先生……!」
 風間は善に駆け寄って、体を支えようとした。彼は昨日寝室前で別れた時と同じ服装をしていて、顔は風間が知っているはずの精悍な顔つきではあったが、頬だけがげっそりとこけていた。
「どうなされたんです!」
 善は風間の姿を見上げて、必要最低限の笑みだけを浮かべた。
「自首しに行かなければ。そう思ってね」
 風間は自分がどこにいるのか、見当識がおかしくなりそうになった。震えた息を吐き出す。
「やめてください」
「筒木をこの手で……」
 善が両手を見下ろし、再び風間を見る。
「血がまだついているような感覚がする」
「違う……!」
「違わないだろう」
「渚はどうするんです」
 叫ばないように押し殺した心が、かすれたつぶやきのように口から漏れる。
「本当のことを知ったら渚の心は壊れます」
 渚という単語が、ようやっと善の心に落ちてきたようだった。自分のやろうとした過ちと正しさを省みて、両手で顔を覆った。
「ぐっ……うあ……」
 腹の底からの呻きを漏らす。そんな善を、風間は抱きしめた。──否、こんな形でしか善を抱きしめられなかった。
「先生は誰も殺していません」
 愛しているのに、優しく抱きしめられるのではなくて、苦しんでいる相手をなだめようとして、まったくなだめられないこの抱擁になんの意味があるのか。
 ──今、先生のことが好きだと言ってしまったら、彼の心はどうなってしまうのだろう。
「戻りましょう、先生」
 肩を支えて、善とともに古代邸に戻った。
 その日から善は隙がある度、その足で警察に自首をしようと古代邸からふらふら出て行こうとした。その度に、風間はほつれていく糸を引くようにして、善を抱きしめて押しとどめた。
 そのような不安定な生活を、二人は二ヶ月ほど繰り返した。


 風間はこのところ、いつ善が自力で歩けるほどの気力を取り戻し、自首しに行くと言い出すのか戦々恐々としていた。物音ひとつにびくりと震え、ひとときも精神が休まらない日々だ。どちらの心が先に壊れるのか、そんな不毛とも言えるレース場を駆けている気分になってくる。
 その日は春が馴染んできて暖かかった。サンルームへ行こうとしたのか、善は応接間のテーブル席にいた。いつもより顔色がよいように見受けられる。
 風間の気配に気づいた善が、ふと眼差しを向けて、微笑んだ。
「封悟か」
「……先生」
 風間は笑みをどうにかして貼り付けようとした。叶うなら、このまま何も言わないでほしい。
「今日は気分がいいんだ」
「そうみたいですね」
「だから……」
 自首をする、と善は言って、椅子から腰を上げた。
 風間は凍りついた。立ち上がった彼の行く手を阻み、腕を掴もうとする。
「行ってはだめ──っ」
 肩を押しとどめようとした風間の両手首が、善にガッと掴まれる。
「わたしが殺したんだ!」
 今まで一度もあげたことのない叫びが、善の喉から、全身から吐き出された。あまりの声量に、風間は頭の中が真っ白になった。
「封悟……封悟、なんてことをしてくれた」
「せ、んせ……?」
「誰があんなことをしろと頼んだ! 誰が! おまえはわたしから罪を償う機会を奪った。誰も望んではいないことに手を汚して、筒木をバラバラにした。その罪が露見するのを恐れているんだろう。己の身がかわいいだけなのだろうが……!」
「ち、違います……違う……」
 ──あなたを愛しているから。
 言えなかった。そんなことは口が裂けても言えない。この愛情すらもエゴだと言われ、拒絶され、誰も望んでいないのだと正面から否定されることが心の底から恐ろしかった。
 自分の身がかわいいだけ。
 こらえきれない涙が落ちた。それを見た善がさらに激情を振るう。
「うあっ!」
 風間は、獣の叫びをあげた善に押し倒された。
 首に善の両手がかかる。何が起こったのかまるで理解が追いつかなかった。
「せん…せ……っ」
「今さらなぜおまえが泣くんだ……!」
「かっ──あ──」
「なぜ!」
 息ができずに、善の顔を涙と苦しさでぼやけた視界で見上げた。
 善に、愛おしい人に、殺されてしまおうと思った。
 その通りだ。誰も証拠を隠滅してくれなんて頼んでいない。ただそうでもしないと、すべてが崩壊して、善も渚も、大切な人たちが自分の指の間からこぼれ落ちてしまうのが怖かった。
 すべての行為が風間のエゴなのだとしたら、善の手にかかることこそが、ふさわしい罰なのかもしれない。これで物事が正しいところに収まるのかもしれない。
 ──ごめんなさい、先生。ごめんなさい。
 視界が暗くなって、息が止まりかけたその時、唐突に首元が緩んだ。
 風間は激しく咳き込んだ。
「……すまない」
 混濁した意識の中で、消え入りそうな声だけが、聞こえた気がした。
「すまない、封悟。すまない。……全部わかっているんだ」
 善は股にしていた風間からどいて、おぼつかない足取りで応接間から出て行こ
うとする。
「先生……なんで……」
 ──わかっているなら、なぜ最後まで殺しきってくれない?
「ぼくが赦せないのでしょう、先生」
 風間は止まらない涙を拭うこともできず。善の背中に縋ろうとして、できなかった。
「先生……!」
 死んだのが筒木ではなく自分だったなら、また結果は変わっていただろうか。
 風間はその場でうずくまって泣いた。
 それが風間と善の、最後の会話だった。

2010年 4月

 翌日。善は市販のタバコの灰を缶コーヒーに溶かし、飲み込んで自殺した。
 遺体を最初に発見したのは風間だった。応接間には、嗅ぎ慣れないタバコの匂いが充満していた。
 善はテーブルの近くにうつ伏せになって倒れていた。テーブルの上には風間が持ってきた新聞があって、殺人罪の公訴時効が廃止された旨が書かれていた。
 善の犯した罪は二度と時効を迎えない。そう突きつけられたのだ。この決定が善を自殺に走らせるきっかけだったに違いない。新聞の横に缶コーヒーとタバコがあったことから、自販機で買えるものに限定して自殺を図ったのだろうなと風間は考えた。
 おそらくコンビニなどの外出ということになったなら、風間が必ずついて行くだろうからだ。普段は紅茶飲みをして喫煙者ではない善がその二つを買ったら、不審がられるだろうと踏んだのだろう。
 そんなことを冷静に考えて、ふと風間は、自分に絶望した。
 善が死んだのに、そんな分析ばかりして、悲しいという感覚がまったく起こらない。
 心がからっぽになっていた。

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