『プラトニックは削れない』第十一話

 数日後。風間は古代邸のガレージにある車を運転し、法人類学研究室のある東部大学へと走らせた。助手席にいる古代善とは必要以上の会話が起こらず、かといって重苦しさとも違う沈黙が流れている。
 風間は、今すぐ車を来た道へUターンさせたい衝動に駆られていた。
 信号に引っかかったタイミングで視線だけ助手席へ向けた。
 助手席では、善もこちらを見つめていた。黒い瞳が間違いようもなく風間を捉えている。
 風間は図らずも師と目を合わせる形になり、心臓が止まりかけた。視線を慌てて正面へ戻すと、信号がちょうど青になった。
「な、なんでしょう」
「それはこっちの台詞だよ。なぜ先ほどから運転に迷いがある?」
「ま、迷いですか」
「ほら、どもっているし」
 善の短い笑いの吐息だけが聞こえてきた。呆れているのか、憂いているのか、あるいは面白がっているのか。
「いつもより車線替えのタイミングが遅いじゃないか。わたしに何か言いたいことでも?」
「先生の前にあっては、隠し事などできそうもありません」
「する必要もない」
 風間は左折のためハンドルを切ることで一拍間を置いた。
「先生は、筒木肇が殺人犯だと思っていらっしゃるんですか?」
「思っているし、思っていない。証拠がないからね。直接この目で確認するまでは、シュレディンガーの猫だ」
「……先生にはどうしても、筒木に会って欲しくないのです」
「なぜ?」
「猟奇殺人鬼はあなたを狙っているのですよ。頭部を。もしも筒木がそうだとしたら──」
「その時はきみが守ってくれ。鍛えた護身術でね」
 そうじゃない。どうしたらわかってくれるんだ。風間はアクセルペダルを踏み込み過ぎないように自分を押さえ込んだ。あなたは求愛されているんですよ、殺人鬼に。
「犯人は、あなたが男性であることに、かつその頭部に、偏愛しているんです。先生は……怖いとは思われないのですか。そのように歪みきった恋愛感情を向けられることが」
「まるで、求愛された感想を言ってほしいという口ぶりだな」
「違います! ぼくはただ心配で……っ」
「冗談だよ。──実を言うと、まったく怖くないんだ」
 善は急に砕けた口調になり、風間は少なからず驚いた。横目にちらりと助手席を見ると、善が肩をすくめている。
「封悟には言ったことがあるかも知れないが……わたしはこれまで多くの猟奇殺人鬼を見てきたが、その感情を機能的に細部まで分析しても、感情はまったく揺さぶられたことがない」
 じくじく、ぐずぐずと、風間の心の奥深いところが音を立て始める。
「これはわたしの才能なんだ。真に探偵に求められるのは推理力などではなく、犯罪者の感情に感化されないことなのかもな」
「先生は結婚なさっているでしょう。お嫁様に心揺さぶられたのでは……?」
 善は失笑した。
「結婚は犯罪事件じゃない。それに、結婚に愛は必ずしも要らないしな」
「え……」
「古代家が結婚の因習に囚われているから、先手を打って結婚相談所に駆け込んだだけだ。結果、渚という宝物を授かったのだから、他人にこんなことは口が裂けても言わないがね」
 ──つまり先生は、さほど好きでもない人間と結婚したんですか。
 心が肉を削がれて骨を削られまでしているのに、風間は喉元まで出かかったその言葉を、けっきょく口にできなかった。
「わたしがもし揺さぶられることがあるとすれば、渚に対してだけかもしれないな」
「息子だからですか」
「実を言うと最初は怖かったよ。わたしはドライという言葉では済まされないほどの人間だ。息子に対しても、他人と同じようにしか接することができない冷たい父親になってしまうと思うとね。イギリスにやったのはわたしのエゴも少なからずあった」
 風間は善の横顔を盗み見た。穏やかに目を細めて、表情は柔らかく、言葉の一つ一つを噛みしめているふうだ。
「でも久しぶりに渚を見た時、大きくなったな、でも小さいな、壊れてしまいそうだ……と思った。きっと寂しくて、心細かっただろう。幼くて、小さな渚……もしかしてこれが父性というやつかな」
「そうだと思います」
「そうか。血を分けているからだな、きっと」
 善の柔らかい笑顔を見て、風間は密かに胸をなでおろした。
 助手を始めてからおよそ千日間、一度でも善に自分の醜い感情を打ち明けずにいて、よかったのだと。
 古代善は、犯罪者の感情を細部まで分析できても、犯罪者の深淵を覗いても、感化されることだけはない。
 善にとって恋愛感情は分析対象であって、たとえ風間自身の心の内を善に深く細切れにされてもなお、本質を見抜かれることに風間がどれほど震えようとも、善が応えることだけは、永遠にないのだ。
 だが善は愛のない結婚をしたことで、息子の存在に心を揺さぶられることができた。
 親子の絆を、自分の勝手な感情で引き裂いてはいけない。割り込むことはできない。
 この感情を、削り殺さなければ。
 風間は古代善の探偵助手として、それ以上の関係を望もうとした己の欲望を、墓まで持っていくことに決めた。
「いずれにしても」
 善は声のトーンをいつもの低さに戻し、宣言する。
「殺人鬼がどんな感情を持っていようと、我々が出向くからには、すべからく監獄行きになる。今はその絶対的使命を全うすべきだな」
「……はい」
 東部(とうべ)大学が見えてきた。


「先に強調しておきますと、探偵さん。筒木先生は間違っても、不祥事を起こすようなタイプではないんですよ」
 東部大学の学長は、先ほどから手放さずにいるハンカチで額に浮き出た汗を吹きながらそう述べた。風間は応接ソファに座っている善のわきで直立になりつつ、手帳で学長の言葉を一言一句違わず記録している。
 東部大学は世界大学ランキングでも上位をキープしており、教育、学生共に高い水準を誇る大学だ。その学長というのだから、普段はおそらく厳格な指導者なのだろう。だがいきなり現れた探偵を前にすると、否、古代善を前にすると、誰しもおろおろせずにはいられないようだ。
「いえ、いえ。筒木先生が犯罪にどうこうという話ではないのです」
 善も相手を不安にさせる自身の癖は心得ているようで、両手で学長をなだめるような仕草をした。(実際にはまさに、事件の筆頭参考人とにらんでいるわけだが)。
「彼が五件の連続殺人で、骨の専門知識の観点から解剖を行った点から、事件について話を伺っておきたいだけです。もしかするとそのまま捜査協力……ということにもなるかもしれないので、まずは学長先生にご挨拶をするのが筋でしょう」
「本当に、それだけなんですね? 協力するときのために筒木先生の人となりを伺っているだけだと?」
「ええ、それはもう」
 学長は丁寧な善の口調に幾分か緊張感を解いたようだ。額に当てていたハンカチをやっと手の中に納める。
「で、不祥事を起こすタイプではないというのは?」善が先を促した。
「文字通りと言ってしまったらそれでおしまいですが。彼はね、上手(じょうず)ですから。いろいろ」
「上手」
 善がおうむ返しに唱えて、単語の意味を追求する。
「彼はお若いですけど、年配の先生がたと摩擦を起こすこともしないし、お顔は大変よいほうですけれども、それで生徒たちとトラブルを起こしたと言う話も聞きませんし。自身の学術分野にのめり込んだら家に帰らないことはザラのようですが、その分、ご家族との折り合いもちゃんとつけているみたいです」
「ご家族はたしか、妻と息子さんが一人……」
「そうだったかな。それにまあ、この時期ですから、何かをやらかすということはいっそう考えにくい──」
 学長がとつぜん言葉を途切れさせたので、風間のメモを取る手も同時に止まった。顔を上げると、善が興味深そうに前かがみになった。
「この時期だから、というのは?」
 学長は明らかに『口が滑らせた』と言いたげな苦い顔をした後、「まあ、誰かに知られたとしても本人はいやがりはせんでしょうが」と開き直った。
「筒木先生は近いうち、国内では初となる法人類学研究所の建設を予定していまして」
「ほう? それはいかような研究所です?」
「アメリカとかにはあるでしょう、法人類学専門の研究所が。犯罪事件や歴史上の人物の骨を鑑定し、身元を特定する機関ですよ」
 骨に特化した科学研究所とでも言うべきなのだろうか、とメモを取りつつ風間は感想を書き添えた。
「それを筒木先生は国内でやろうとしているんです。青梅(おうめ)だか檜原(ひのはら)だか、西東京の山中に建てているとかで」
 ほう、と善が唇を指で撫でた。
「それはまた、専門分野の国内存続をかけた取り組みといっても過言ではないでしょうね」
「でしょうな。筒木先生も、骨の研究に必要な設備配置のために、施設の設計から携わっているみたいですし。ご実家の私財も投じているとかで」
 研究所の建設はおそらく大学の研究とはまた別の事業だし、それなりに金は入り用なのだろうと風間は思った。
「その件は、大学内ではまだ秘密の話でしたかね?」
 善が問いかけた。
「まだプレスリリースは出ていなかったってだけです。ただ、本人が心血を注いでいるといっても過言ではないので、あなたに言ってしまってよいものかと」
「研究所の建設を知る人間は多くない?」
「少ないと思います。とはいえ、研究所運営後に大学の籍をどうするだとかは事前に先生と話させていただいてますから、私は承知しているんですけれども」
 学長から得られた有益な情報はそれくらいだった。


 風間と善が学長室を出た後は、ついに筒木肇との対面となった。
 筒木の研究室に所属しているという使いの学生に連れられて、応接室の一つに風間と善は案内された。応接室のドアを学生がノックする。
「筒木先生、お連れしました」
 ドアが開け放たれて、応接室内にいた男の姿を見た瞬間、風間は雷に打たれた。
 白衣に身を包んだ長身の男は、ウェーブのかかった茶髪に、鼻が高く、垂れ目をしていた。きっと大学で教鞭を振るえば女子大学生が群がってくるような、そんな顔だ。
 筒木は先頭を歩いていた古代善に視線を向けて、次いでこちらを見る。
 風間の全身の震えが、さらに増した。
 ──犯人はこいつだ。
 風間は一瞬で確信した。抱いた確信に、根拠も論拠も何もない。直感という生易しい感情でもない。たぶんこれは、同じ相手に歪んだ愛を持った人間同士の、シンパシーだ。
 こいつだ。
 五人の男を殺し、頭部を持ち去った猟奇殺人鬼が、目の前にいる。
 風間の頭は混乱と恐怖にかき混ぜられた。帰ろうと声をかけることなど許されるはずもなく、気づけばもう善と筒木はソファに座っている。
「助手くんは立ったままでいいのかな?」
 筒木の風間への第一声だった。低く、まろやかで、きっと愛した相手には麻薬のようにねっとりとした声になるのだろう。
「あ……こ、このままで」
 筒木は白衣の裾をよけながら、両手の指を組んで膝の上に乗せた。
「では改めて。法人類学研究室の室長、筒木肇です。巷で『頭部のない死体』事件と呼ばれている五件の殺人の司法解剖、および法人類学の視点から骨の鑑定を行いました。あ、医師免許は持っています」
「失礼ですが年はおいくつでしたか」と、善。
「三十九です。学者では若いほうかな」
「たしかご結婚なされている?」
「ええ。妻と息子がひとり」筒木はリラックスした様子で襟元をくつろげた。「なんだか尋問が始まるみたいだ」
「いえ、今日はあなたにご挨拶をと思ったのです。おそらくこの殺人事件、筒木先生と協力しないことには絶対に解決できない」
「それは光栄ですね」
 善と筒木はお互いに殺伐とした笑みを浮かべた。風間の目には二人が何を考えているかなど、わかりようがない。
「単刀直入に本音を申し上げてしまいますとね、五件の事件が同じような手口にも関わらず、共通項が現状『あなたが遺体の鑑定をした』ことしかないのです」
「単刀直入、大好きですよ。誤解を解くと言うほどたいそうでもないですけど、法人類学の研究資料としても大いに助かるから、今後似たような死体が上がったら私に解剖させてくれと、警察に懇願した覚えはありますね」
 一見するとその理屈は、五名の被害者の解剖をすべて同じ人間が行う合理的な理由に思えた。警察としてもそのほうが助かるのは間違いない。
 善は唸り声をあげた。
「正直、このわたしも今回の事件は手がかりがなくてお手上げですよ」
「まさか、古代さんの口からそんな言葉が?」
「手がかりのない、お手上げだと声をあげたい事件は、新聞に載らないだけでたくさんあります。さておき、結果報告書は一通り見させていただきましたが……」古代善の目が鋭く光った。「どうです、筒木先生の所見は?」
「頭部を持ち去るって、みな簡単に言いますけど、五回も頭部を解体したのに誰にも見つからなかったというのは、すごいことですよ」
「というと?」
 筒木は立ち上がり、研究室をうろつくような足取りで数歩ソファの前を歩いたが、ここが応接室であることに気づいて、逆三角形の目を残念そうに細めた。
「ここには資料がないんだった。いえね、古代さんなら、頭部の解体はどの道具でやろうと思いますか? もちろん医療用や解剖用の器具はなしにして、ですよ」
「レシプロソー、つまり持ち運びのできる電動ノコギリ一択でしょうか」善は即答した。「手っ取り早く短時間でやるならチェーンソーですが、しかしあれを使うと音がすごいし、肉片は確実に周囲に飛び散るものと思います。しかし普通のノコギリだと今度は体力を消費する。慣れない人間が行えば怪我をする恐れがあります。そうなれば、あとはレシプロソー──歯が上下に動く電動ノコギリです。あれならば手っ取り早く、持ち運びやすく、万が一凶器を捨て置いても傍目には工業製品にしか見えませんから」
「さすがだなあ」
 筒木の声のトーンが跳ね上がった
「いえ、あなたの資料にそう書いてありますからね。私も同じ道具を使うだろうと思っただけです」
「そうでした、そうでした。犯人はね、やっぱり市販の日曜大工用の、歯が上下に動く電ノコギリを使ってたんですよ。量販型だから購入履歴から犯人を追うことはもちろんできない。相当周到な人間だと思いますね。思うに、頭部を奪う以外に遺体を損壊させていたのも、捜査を撹乱するためだと思いますね」
「理知的で、狡猾で、用意周到……」
 違う。風間は心の中で叫んだ。
 遺体を損壊させたのは、万が一にも筒木以外の人間に解剖されることを避けるためだ。遺体が傷ついて壊れれば壊れるほど、その中にある白骨を晒すほど、法人類学者に鑑定のお株が回ってきやすくなる。
 そうすれば不都合な証拠を違法に握りつぶしてしまえると同時に、遅かれ早かれ事件の共通点を見出した善を、おびき出すことができる。
 そして現に、善はこうして筒木におびき寄せられたのだ。
 食肉植物に絡め取られたハエのように。
「ここが研究所だったら、どの道具がどんな形の断面になるのか写真をお見せできるんですがね」
「そういえば学長から伺ったのですが、法人類学研究所を建設中だとか?」
 学長が言いにくそうにしていた事実を追求した善に対し、筒木の態度はあっけらかんとしていた。
「そう、そうなんですよ。国内の法人類学の威信をかけいると言っても過言ではないです。施設の完成を待たず、古代先生には今すぐにでも研究所を見ていただきたいですね」
 ふざけるな、と風間は憤る。そんなことがあってたまるか。
 これは罠だ。研究所自体が、善を誘き寄せるための罠なのだ。
 山中にある、人気のない建設中の施設を想像する。無人という意味では廃屋とほぼ同じだ。そんな人ひとりの目すらない薄暗い研究所で、善の頭部がレシプロソーで肉を裂かれ骨を砕かれ、首ごと飛ぶ場面を想像する──。
 二人が約束を取り付けてしまう前に、今すぐこの男から離れなければ。しかし、どうやって?
「先生……!」
 小声で呼び止めようとすると、善が手のひらを見せて風間をけん制した。そのまま筒木に向き直る。
「我々が伺ってよろしいんですか? まだ竣工していない施設に?」
「古代さんなら、内部見学の都合をつけますよ。ぜひ意見を伺いたいです」
「では近日中に」
 善はどうやら、風間と同じく研究所が罠だとわかっていて見学の都合を取り付けたようだ。
 ──なんということを。
 筒木と善は立ち上がって、別れの前の握手を交わした。
 しかし風間は驚きと同時に、対面が終わったことに対する安堵から、心臓の脈がどくどくと耳元に聞こえてきていた。本能では、この場にとどまり続けることのほうが怖かった。
 筒木に背中を見送られながら、善が先に応接室から外に出る。
 続けて風間が戸口をくぐろうとした──その時だった。
 左手首をつかまれてぐいと引かれたかと思うと、戸口から室内へ思い切り引っ張り込まれた。足がもつれて抵抗もままならない。ドアクローザが半自動的に、応接室の扉をばたりと閉めた。
 状況を理解するより先に、右手首も掴まれ、風間は動きを封じられた。

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