『プラトニックは削れない』第十六話

2023年6月 4

 夕暮れの浜辺に潮風が吹き付けていた。
 風間は渚とともに浜辺に上がって、体を濡らしたまま、声を搾り出しながら、失っていた記憶のピースをひとつひとつ拾い上げた。
 筒木の罠にはまった自分の罪を。
 殺人鬼に息子の存在を伝えてしまった失態を。
 事件をなかったことにすれば、善を守ることができると信じた傲慢を。
 風間はからっぽの心を両手で抱えて、笑みのようなものを顔に浮かべた。
「ただ……先生と渚を守りたかっただけなんだ。先生の、探偵としての名誉を。なのにぼくの行動が先生を追い詰めた。あれは自殺じゃない。ぼくが先生を殺した。渚の人生も殺した」
 今の虚ろな心なら、渚を直視しても大丈夫だと風間は思った。小さな渚。十三年が経ち美しく成長した渚。
 風間は彼の澄んだ瞳を捉える。その視線に渚が応えた。
「私が錯乱するきっかけになったのは、筒木の人質になったからではなくて、父が筒木を殺す場面を見てしまったからですね」
「いつ記憶が戻るのかと怖かったよ。もしそうなったら、死んでいるはずの筒木の影に怯えて暮らし、間違ったトラウマを植え付けさせたのがぼくだと、気づくだろうから」
 風間の目では、渚が何を考えているのかわからなかった。あえて表情を殺して、事実だけを淡々と受け入れようとしているのかもしれない。
「……それ以上に、ぼくは渚がもう一度錯乱してしまうのが怖かった。二度と自我が戻らないことを思うと──」
 風間はふと口を閉ざした。何を弁解しても、渚を閉じ込めて、父親の殺人の罪を隠匿していることに変わりはないと思い直した。
 ブラックボックス化した過去の真実という爆弾を抱えて、外に連れ出すことが怖かった。その結果、渚を長く腐らせていた。
「すまない、渚。きみを十三年も閉じ込めたのは、先生の名誉を守りたいと思った、ぼくのエゴでしかない。きみを利用し続けていた。でももう、それも終わりだ」
 渚が風間の両手を掴んで握る。その手を握り返して、風間は額を押し付けた。
「すまない、誰も守れなくて……きみのことも、先生のことも守れなくて……ごめんなさい……ごめ……」
 喉が詰まった。──謝る資格すらないのに。
「ぼくを、赦さないでくれ」
 渚の両手が離れた。風間は、ついに渚が自分を断罪してくれるかもしれない期待に、暗い喜びを覚えた。赦されてはいけないと、一番大切な人が教えてくれる。この気持ちになんと名をつければいいのか、わからない。
 だが、いつまでたっても渚の声は聞こえなかった。罵声も、何も。
「渚──?」
 ふわりと体が包み込まれた。
 顔を上げたと同時に渚の腕が風間の背中に回って、きつく抱きしめられる。
 何が起こったのか理解が追いつかなかった風間は、伝わってくるぬくもりを、ただただ怖いと思った。
 怖くて、暖かかった。
「そうやって、自分自身をずっと責めてきたんだね」
 十三年前と同じ優しいささやきが、耳元で聞こえた。
「ごめんね」
「なん、で」
 得体の知れない感情を向けられて、体をよじった風間を、渚はさらに強く抱きしめる。
「父が死んだのは、父の責任です」
「違う……」
「僕の心を、あなたはずっと守っていてくれた。幼い頃に父が人を殺した記憶を思い出していたら、僕はきっと心が壊れてた。大人になった今だから、凄惨な記憶にも耐えられた」
 暴れそうな心がいうことを聞かない。拒絶に風間は呆然と首を振る。
「はは、何言ってるんだ、違うよ、言っていることが全然……」
「何より、あなたがずっとそばにいてくれた。ずっと寄り添ってくれた。風間さんは、最初から最後まで優しい人だよ」
「そんな言葉が欲しいわけじゃ──」
「知ってる」
 渚が風間の言葉にかぶせた。
「知ってるよ。でも言ってあげない」
 渚がもう一度唱えた。聞き間違いのないようにと。
「赦してあげます。それで風間さんがつらくなるとしても、ぜんぶぜんぶ、赦してあげます。解き放ってあげます。父の呪縛から自由にしてあげます。それが僕が、風間さんにできる唯一のことだから」
 きつい抱擁を解く。腕が離れる。
 風間は抱きしめられていた痛みと暖かさから、解き放たれた。
「どうして」
「自由になった風間さんが、私のそばにいてくれたなら……」
 渚が微笑むと、その目尻から涙が落ちる。
「それがいちばん、幸せだから」
 渚は風間の手をとった。
「触ってみて」
 自分の罪を洗いざらい吐き出して、渚がすべてを知った後、風間の手の中に残るものは何もないと思っていた。取り返しがつかないのだと。今までのようにすべて指の間から水のように滑り落ちるのだと。
 ──もし私が外に出られるようになったとして、そのあと風間さんは何がしたいですか?
「ぼくは……」
 すべてを打ち明け、両手で好きなものを手に取れるようになった今、風間のからっぽだった心に、初めて渚の姿が正しく映ったような気がした。
 手を伸ばし、頬に触れる。柔らかい肌をさする。指で小さな唇をなぞる。瞳に自分を写す。
 指がどこを触れても、渚の存在は風間の手から滑り落ちずに、確固とした形を持って、すべてを受け入れようとしてくれていた。
 風間の心の奥底にある、今まで誰も触れられなかった柔らかいところが、弾け飛んだ。
 強く、強く渚を抱きしめた。
 支え合ってきた十三年の記憶がなだれ込んできて、風間は涙が溢れた。
 唯一形のある存在を、最後まで守り抜きたい。それだけが風間の望みだった。
「この感情になんと名前をつければいいのか、わからないんだ」
 言葉の代わりに涙を流すしかない風間を、渚が強く抱き返してくる。
「あなたのそれは愛情ですよ」
 渚の震える声が答える。
「僕も、愛しています」


 風間と渚は沈みきった浜辺を後にして、濡れた体を震わせて身を寄せ合いながら、浜辺を後にした。
 警察の手がいつ伸びるかわからない状況では、ホテルなど取れそうにないので、近くに見つけた廃教会で一夜を明かすことにした。
「結婚式のためにこうして海の見えるチャペルを建てたんでしょうけど、最後には使われなくなって見捨てられてしまうんですね」
 足元にはガラスがいくつか散乱していた。踏まないように慎重な足取りで歩きながら、木の長椅子に腰掛ける。
 渚はボストンバッグに着替えの一式を入れていた。着替えた後は同じくバッグの中にあったシリアルバーを取り出し、二人で食べた。
「食べて寝て起きたら、風間さんが筒木殺しの犯人じゃないと警察に証明する方法を考えなきゃですね」
 渚がシリアルバーを飲み込んだ後、なんでもないというふうに無邪気に言った。
「風間さん、逃げちゃったから警察に疑われていますし、今逮捕されたらきっと自供させられちゃいますよ。十三年前のこともちゃんと説明と証明をして、正さないと」
「渚は、怖くないのか?」
「何がです?」
「犯罪者の息子になることが」
 渚のシリアルバーを持つ手が止まった。
「怖いと言ったら嘘になります。けど、本当のことを思い出せなかった時も、十分苦しかったですから。背負うしかありません」
 投げやりとも違う諦めの声が、やけに風間の耳に残った。
 六月も終わりかけといえども、海辺の夜はまだ肌寒い。これでは寝るに寝られずどうしようかと風間が思案していると、渚がボストンバッグから薄手のブランケットを取り出した。
「そんなものまで入れていたの?」
「ええ。こんなことが……あろうかとは思っていませんでしたけど」
 肩をすくめておどけた渚に、風間は口を手の甲で押さえて小さく笑った。
「どうりで、バッグがパンパンなわけだ」
 つられて笑うかと思った渚の声がせず、風間は閉じていた目を開いた。
 渚の顔に釘付けになった。目が離せない。離せるわけがない。
 渚は目に溜めていた涙を落としていた。
「どうした」
「す、すみません」
 渚が鼻をすすりながら答え、泣き笑いになる。
「風間さんが、やっと笑ったなって思って」
「え」
「ずっと、ずっと笑っていなかったのに、やっと……」
 なんと答えればよかったのだろう。
 まともな人間ならば、ここで何か気の利いた台詞を返せるのだろうか。風間は不器用な自分をこれほど呪った瞬間はなかった。
 ブランケットは一つしかなく、二人は身を寄せ合ってくるまった。
「こうやって、一緒にくっついて寝たのは久しぶりですね」
 最後に身を寄せ合って寝た日のことを、風間も鮮明に覚えていた。
 筒木肇が殺された次の春。桜が散って五月になろうかという頃。
 善が自殺して、葬式を終えた日だ。
 親を失ってしまった息子と、探偵を失った助手。葬式を終えた後は善の兄が一切を引き受けてくれたが、それで喪失感が拭える訳もなかった。
 特に風間は、何かを悲しんだり、憤ったりする心の余力すらも消え失せていた。
 どうやって悲しめばいいのかもわからず、打ちひしがれることすら許されない。父親を失った渚のほうがずっと苦しんでいる手前、そんな自分の空疎な感情を吐露する勇気すらなかった。
 そんな折、風間の寝室にそっと渚が訪れた。
「寝られないの?」
「うん……こっちではずっと、お父さんと寝てたから」
「一緒に寝る?」
 風間は渚のためにベッドのシーツをめくった。
「いやじゃなかったらだけど」
 渚は何も言わずに、ベッドに潜り込んできた。マットレスの幅が少なかったので、体をひっつき合わせて眠った。
「風間さん」
 渚が、沈んだ感情を体現するような、とろりとした声で名を呼ぶ。
「すごく悲しいね。苦しくて。寂しいね。お父さんは、もうずっと、ぼくが何歳になっても、大人になっても、ずっと、見つめることも、触ることも、褒めてもらうこともできないんだね」
「そうだね」
「でもたぶんね、風間さんのほうがもっとずっと、悲しいと思うの」
 悲しい、という単語が呼び水となって、風間の感情がまた堰を切ったようになった。だめだ、渚の前で取り乱したくない。いや、悲しいと思う資格すらない。そう思うのに手が震える。
 何も言えないままの風間を、渚のつぶらな瞳がまっすぐに見た。
「お葬式の時も、叔父さんの前でも、ずっと我慢してたよね。でも悲しいよね」
「ぼくは」
「この目でずっと見てたから。風間さんはお父さんのこと……」
 渚はそれ以上の言葉をためらった。その代わり風間の頬に指で触れた。
「泣いていいよ。悲しいって言っていいよ」
 その時初めて、風間の三年分が決壊した。涙が、風間の頬と渚の指の間を流れていく。
「先生……」
 その小さな手を取って、握りしめて、風間は泣いた。
「せんせぇ……!」
 ──十三年前に流した涙を思い浮かべながら風間は、あれからずいぶん成長した渚の感触と重みを、改めて肩に感じ取った。つややかで細い髪に手で触れる。
 思えば、いつもそばには渚がいた。
 一人で善を想って動けなくなっていた時も。善が死んだ時も。本音を吐露してくれるのも。本音を引き出してくれるのも。十三年を共に過ごしたのも。止まっていた時計の針を動かしたのも。警察から逃げる時も。過去の罪を赦したのも。優しいと言ってくれたのも。笑った風間を泣いて喜んでくれたのも。
 風間の心を救ったのは常に渚だった。
 なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。
 渚に対して線を引いて一歩を踏み出してこなかったのは、そこに善の面影があるからだと思っていた。だがほんとうは、受け取っていた優しさを見て見ぬ振りをしただけだったのだ。また善と同じように、渚へ触れた果てに胸が張りさけるような事態を起こすのが、どうしても怖かった。
 臆病だ。
 ずっと心は十三年前の死者にばかりとらわれていた。死者との思い出を愛でている分には自分が傷つかないから。
 ──どうして、今なのだろう。
 音のない涙が、悲しみとは違うあたたかい涙が、風間の目から落ちる。こらえきれずに静かな嗚咽が漏れた。
 もう、すべてが遅すぎると風間は思った。

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