『プラトニックは削れない』第十四話

 次の日の早朝。
 先方が指定した待ち合わせの時刻まではまだだいぶ余裕があったが、風間は住宅路を回って古代邸の裏手にあるガレージへ回り、車に乗り込んでいた。後部座席には、建物を探るために必要な工具類を積載して毛布で隠していた。
 筒木に命を捧げにいくが、タダでくれてやるつもりもない。死をもって善の身の安全を確保し、隠された頭蓋骨も見つけ出して筒木の息の根を止めるのだ。
 風間は車を法人類学研究所まで走らせた。
 研究所に着いた頃には日も十分に登りきっていたが、それでも山中は少し肌寒いくらいだ。風間は腰に特殊警棒があることを確認して車を降り、安全用のフェンス越しに施設を見上げた。
 建設中と聞いていたけれど、施設の外観はほとんど完成されていた。その周囲を覆う無骨な足場や鉄骨がシドニーにあるオペラハウスにも似たデザイナブルな意匠とあいまって、妙に要塞じみて見える。
 周辺は無人だった。フェンスに貼られた週間スケジュールを見てみると、日曜日は一切の作業をしない日のようだ。蛇腹型のフェンスはご丁寧にも人ひとり分だけ開けてあり、細身の風間がギリギリ入れる空間がある。
 ──ご丁寧に。
 筒木が作った隙だろう。車に積載した工具で扉をこじ開けずに済むなら、それに越したことはない。きっともう、殺人鬼はここで風間を待ち構えているのだ。
 風間はフェンスの隙間を通り抜けて、薄暗い研究所の入り口に向かった。自動ドアはまだ取り付けられておらず、屋内には簡単に入ることができた。
 〝行きはよいよい〟というわけだ──自分を鼓舞しつつ、風間は左手に懐中電灯を持ち、右手に特殊警棒を持った。
 あたりは薄暗く、音がしない。リノリウムを踏みしめる自身の足音だけが響いている。
 まずは証拠を探さなければ。
 事前に設計図を記憶して、被害者の頭蓋骨を隠しそうな場所には目星をつけていた。施設の奥まった場所にある主研究室や、倉庫、地下解剖室……。
 かつん、と大きな物音がした。
 風間はびくりと構えて、音のしたほうを振り返った。音は反響し、残響を残す。
 待つ。自分の心臓の鼓動がどくどくと耳元で聞こえてくる。迷いなく歩みを進めていたせいで、前も後ろも薄暗い暗闇の中だ。
 息をひそめながら風間は、孤独感に苛まれる。善がいてくれたらどれだけ心強かっただろうか。どうして自分はこんなところにいるのだろうか。本当にこれでよかったのだろうか。
 筒木に殺されるのは怖くない。だがもっと別の立場で、善ともっと健全な形で出会い、そばに立つ方法があったのではないか──。
 音がしたほうを警戒して待っているうちに、風間は暑くもないのに全身に冷や汗を流していた。
 何も起こらないとわかると風間は構えを解いて、諦めの混じった息を肺から吐き出す。
 ──日向で生きる方法を知っていたら、猟奇殺人鬼に命を捧げようだなんて初めから思わない。
 風間はそう自嘲し、奥へと進んだ。
 『主研究室』と書かれたプレートを懐中電灯で照らし、ドアノブを下げた。鍵はかかっていないようで、微かなドアクローザの音を響かせながら扉が開く。
 当然ながら、まだ骨の類は部屋の中にまったくない。風間が部屋の中に一歩を踏み入れたと同時に、背後から再び音がした。
 たっ、たっ、たっ、た……と規則的で軽い音。
 足音だ。
 風間は再び特殊警棒を強く握りなおし、部屋の外へ体を向ける。
 ──近づいてくる。
 ゆっくりと廊下に出て、そばに置いてあった資材の影に身を隠し、懐中電灯を消した。廊下の突き当たりは外から漏れてくる光でほんの少しだけ明るい。
 ──もし現れたのが筒木だったら? 抵抗する? いや、侵入したのはこちらだ。暴力を振るったとなればぼくが捕まる。
 風間は汗だくの頭を振った。
 筒木だったら特殊警棒を捨てて、その場に跪けばいいのだ。確実に善を救うために自分の身を捧げてきたことを忘れてはいけない。
 感情がピークになりかけた瞬間、廊下の突き当たりに人影が現れた。
「……え?」
 人影は風間が想像していたよりもはるかに、小さかった。
「渚……!?」
 見間違いようもなく渚が、こちらに走り寄ってきている。
「風間さんっ、どこ……!?」
「渚!」
 風間は立ち上がって懐中電灯をつけ、渚に走り寄った。探し人の姿を見つけた渚は、泣きそうな表情で風間の胸に飛び込む。
「風間さん! よかった、よかった……」
「なんでここに……!」
 風間は小さく叫んで、渚の両肩を強く掴む。
「もしかして、車に潜り込んだのか?」
 問いただすと渚はうなずいた。毛布の中に潜り込んだのだという。思い返してみれば、風間は資材を後部座席に詰めて毛布を被せた後、車を出すときに中身を最終確認しなかった。
 渚が早朝から起きていることに驚きを禁じ得ないのもそうだが、気づかなかった自分の目も節穴だ。
「ここに来てはいけなかった。どれだけ危険なことかわかっているだろう!」
「だって」
 渚が目に涙をためて風間を見上げる。
「昨日の風間さんの顔、すごく怖くて、苦しそうだった……見ていて胸が痛かったんだもん。貧血で倒れて、目が覚めてからずっとだよ」
「え……」
「消えちゃいそうに見えた。ぎゅっと思いをこらえてる顔で、何かあるんだなって。そしたら、こんなに朝早くからどこかへ行こうとするんだもん」
 渚は細い腕を回して風間にぎゅっと抱きついた。
「風間さん……消えちゃいやだ。いなくなっちゃいやだ」
 風間の心の奥底が、うずいた。
 渚は、風間が自分の命を捧げようとしていることに、薄々気づいていたのだろう。
 彼は常に風間の本質を見ている。そうして暴いた本質をなで、共鳴し、抱きしめる。
 善と筒木に挟まれた今、風間は渚の言葉にだけ、心からの安堵を覚えることができた。
「大丈夫。ぼくは消えないよ」
 つかの間二人は、抱き合った。
 風間は渚を抱きかかえて周囲を探る。作戦は中止してすぐにここを出なければ。
 渚の手を強く握り、二人で出口へ歩いた。
 ──おかしい。渚との会話でここまで大きな音や声を出したのに、なぜ筒木は出てこないんだ?
「渚、ここに来るまでに何か物音や誰かの足音を聞かなかった?」
「ううん。人の気配はなかったよ」
 筒木がここにいないなどということがありえるのだろうか。向こうが指定してきた時間よりも早く研究所に潜入したとはいえ──。
「あ」
 研究所の外に出て太陽の光に目が眩んだとたん、風間は一つの結論に達して、動けなくなった。
 もし筒木が、風間が善の命を守るため、自分の命を捧げて研究所に来ることまで見越していたとしたら。その隙に乗じて、筒木が今、古代邸にいるとしたら──。
「先生……!」
 持っていた懐中電灯を取り落とした。
 ──筒木の真の目的は、一人になった先生だ……!
「風間さん? うわっ」
 風間は渚を抱えて、車へ駆け出した。渚を助手席に乗せ、自身は運転席に飛び乗る。
「シートベルトして!」
 エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。


 ──先生が危ない……!
 風間はハンドルを握りながら、ホルダーに立てかけていたスマートフォンをタップした。その指が自分でも笑ってしまうほど震えていて、まともに操作ができない。思わず舌打ちすら漏れそうになる。
 自分のせいで善が危険な目に遭っているかもしれない。そう思うと心臓は先ほどと比べ物にならないくらいに暴れた。
 信号が赤になり、風間はホルダーからスマートフォンを抜き出して操作した。ロックを外すと善から着信履歴が何件も来ている。おそらく風間が家にいないことを知って、かけてきたのだろう。
 善の番号にかけ端末をホルダーに戻すと、すぐに通話が始まった。
『もしもし』
 だが電話越しに聞こえた声は、善のものではなかった。
「あなた……」
『そろそろかけてくる頃だと思っていたよ』
 その正体を頭で理解する前に、風間の指の先がひりついて、凍りついた。
 筒木肇だ。善の端末から筒木の声が聞こえる。
 この殺人鬼はすでに古代邸へ侵入し、善のスマホを奪って電話を受けているのだ。まさか、善が自ら殺人鬼にスマートフォンを貸し出すとは思えない。ならば状況的に、体の動きを封じられているとしか考えられなかった。
「先生に……何をしたんですか」震えて声にならない声を絞り出す。「先生は、無事なんですか。声を──」
 筒木の笑い声が風間を遮った。
『きみが戻ってくるとしたら、二時間くらいかな? その頃には終わらせるつもりだ』
「やめてください……!」
 あろうことか筒木は、自分が古代邸に戻った時を狙って善を殺そうとしている。この距離では絶対に間に合わないのに、手が届かないのに、かりそめの希望をぶら下げて風間の心を弄んでいる。
『ああそう、警察に通報しようなどとはくれぐれも考えないことだ。万が一この家に警察の気配を感じた時には、古代善を殺した後、無関係な人間を殺し、きみを殺す。そうだね……きみの罪悪感を刺激するには五人くらいがいいか』
「ぼくの命が欲しかったんじゃないんですか! そう言ったじゃないですかっ」
『言ったよ、封悟。古代善が死ねば私は真の意味できみを手に入れたことになるだろう。将を射んと欲すれば……きみを完全に殺しきるための、これは必要な儀式だ』
「何を……っ!」
『物言わぬ先生の頭蓋をきみの頭蓋の横に並べて、沈黙ともに永遠を寄り添うさまを──きみの心から望んでいる夢が叶うさまを、想像してごらん』
 風間は、これは筒木の愛情なのだと悟った。
 今まで解決してきた数ある事件の殺人者は、みなその矛先を被害者に向けていた。罪を犯した後は法から逃れるため、必死に、あるいは巧妙に探偵から隠れようと策を巡らせる。
 だが筒木の感情はまっすぐに風間へ向いていた。黒々とした殺人鬼の感情が、深淵のように風間を覗いているのだ。筒木肇という男の愛情が。
『私は、そのようにして満たされたきみの雄弁な骨を、この手で抱き込むんだ』
 初めて向けられたそれに、風間の脳の芯が得体の知れない恐怖に揺れる。
 何か言わなければ。ここで引き止めなければ、本当に筒木は善を殺すつもりなのだ。
「お願いです。ぼくに失うものは何もありません。でも先生には……古代先生には、子供がいるんです」
『へえ』
 筒木の声は場違いに軽快だった。
『男の子? 女の子?』
 風間はハッとした。とんでもないことを口走ったかもしれない。殺人鬼に渚の存在を知らせ、渚には父親を殺そうとしている殺人鬼の声を聞かせている事実に、風間はやっと気づいた。
『子供の話も興味深いが、そろそろ切るよ。古代邸で待っている』
「まって、やめて! ま──」
 通話が一方的に切れた。
 もう一度かけてみるが、繋がらない。
 現在位置から古代邸までは一時間半以上かかる。助け出すにしても絶対に間に合わない距離だ。
「あぁ」
 風間は泣き叫び、ハンドルに頭を打ち付けたい衝動に駆られた。
 もうダメだと風間が言いかけた時、ふと、ギアハンドルを持つ手に小さな手が重なった。
 助手席の渚と目が合う。
「お父さん、狙われてるの?」
 瞬間、錯乱しかけた風間の脳に正気が戻ってきた。
 そうだ。もしも渚が付いてきていなければ、今頃彼も筒木の手にかかっていたかもしれないのだ。
 渚はここにいる。この手で守れる。であれば、善のことも守れるはずだ。
「……大丈夫だ、大丈夫だよ」
 渚に言い聞かせるふりをして、自分に暗示をかける。
「先生だって、有事をいなすくらいには体術の心得があったはずだ。きっと……やられたふりをして機会を伺っているんだよ……」
 心の中は、渚にもらった冷静さと筒木のもたらす黒い絶望とで、ぐちゃぐちゃだった。はちきれそうだ。
 車を走らせた。

 古代邸に車をつけた。シートベルトを外そうとする渚を置いて風間は運転席から出る。
「そこにいて! ぜったいに車から出るな!」
「で、でも……!」
 門をくぐる。扉を乱暴に開けるが、邸宅内はしんと静まり返っていて、生きている者と死んでいる者が何人いるかもわからない。
「先生ッ」
 叫ぶ。応接間への長い廊下を走り、両扉を開け放った。
 ──目の前の光景に、風間は自分のかすれた呼吸以外、聞こえなくなった。耳から音が消える。本能が全身の中でのたうちまわって、見るなと風間に告げているようだった。
 だが風間は、目を離せなかった。
 二人の人間が今まさに、雌雄を決したようにもみ合った姿勢のまま止まっていた。己の体感時間が狂ったのだと、風間は後から知った。
 一人は喉元から血を流していた。声のない声を出して、口を何度も開けて、手は掻っ切られた喉元に当てようとしている。
 喉の先には工業用の、ハンディタイプの電動鋸──レシプロソーが刺さっていた。
 それが、筒木だった。
 事実に目を向けた途端、レシプロソーの持ち手を握っている、骨ばって、力を入れすぎて血管の浮き出た手に、風間は釘付けになった。
 筒木の喉元に刃を突き立てているのは、紛れもなく善だった。唇が切れ、指の爪がいくつか剥がれている。
 すべてを一瞬のうちに理解した風間の体感時間が戻った。筒木が背中からドッと、床に倒れた。およそ人間が倒れるそれではなく、人形のような倒れかただ。
「きゃあ……っ」
 背後で悲鳴が聞こえた。
 風間が呆然と振り返ると、そこに渚がいた。
 渚も同じ場面を見ていた。その事実を知った瞬間、渚がくずおれた。小さく小さな、震える体を風間はなんとか抱きとめる。
「渚……」
 呼びかけようとするのに声が思い通りに出ない。
「渚」
 腕の中で渚が早すぎる呼吸をしているのがわかった。震えている。
 もう、風間にはどうすればいいのかもわからない。
「あ、うあ」
「渚……!」
「お父さん、お父さんが、お父さんが、血が──お父さんが……あ、あ……」
 からん、と音がした。落としたレシプロソーの刃が靴に当たって動いた音だった。応接間から善がこちらにふらふらと近づいてくるのが見えた。両手は血まみれだった。
「渚、どうして」
「先生……!」
 近づいてきた善に対してさらに震えた渚を抱え、風間は腰を抜かしながらも一歩を後じさった。
 善は放心状態のまま、口先だけひくりとひきつけのように笑う。
「なぜ……こうなった?」
 先生、と風間はもう一度声を上げるが、ほとんど声にならない。今の善は風間にとっても未知の存在だった。
「捕まえるはずだったんだが。殺すつもりはなかった。凶器を奪うだけのはずだった」
「いったい……なにが……」
「……抵抗されることはわかっていた。いくどとなくこのような危機に備えてきた。なのにどうして喉に当たったんだろう? 手か、脚か、そこのところを無力化するだけで……そうだ、渚だ。『あなたを殺したら次はお子さんを殺しますね』と言われた。そこから記憶がふっと途切れた」
 冷静な善に一線を越えさせたのは渚を殺すと筒木に脅されたからだろう。
 ──ぼくのせいだ。
「せ、先生」
「わたしはこれまで、殺人鬼を檻につなげてきた。犯罪を理解はしても共感はしない。犯罪を理解しても共感はしない。犯罪を理解しても……それがわたしのやりかただ」
 善が血まみれの手を見下ろす。
「わたしは……もしかして、人を殺した?」
「もうやめてください」
 風間は頭がおかしくなりそうだった。
「渚がいます……」
 善は目玉だけで、風間が抱いている渚の姿を見下ろす。渚は目を虚ろに開いて、呼吸だけを繰り返しながら「お父さん」と唱え続けている。
「そうだった。見られたんだったな」
 善は言って、もう一度応接間に戻ると、落ちていたレシプロソーを拾い上げた。
「先生──!」
 何をしようとしたのかを悟った途端、風間は走り、善に飛びついた。自分の喉に刃を立てようとした善を、止める。
「やめてくださいッ!」
 レシプロソーを力づくで奪い取り、床に投げ捨てた。
「やめてください……、やめて……」
 風間は善を強く抱きしめる。これ以上自分を殺さないように、押さえつけるように。
 絶望のまま、風間は状況を完璧に理解する。善は証拠を持たない殺人鬼の筒木を現行犯で捕らえるため、筒木の侵入を甘んじて受け入れた。だがはずみで筒木を殺してしまったのだ。その光景を見た渚は錯乱し、善は自分の所業を受け入れられずにいる。
 風間は、一瞬にして深淵に落ちた善を見たのち、廊下に横たわる渚を見た。
 ──先生を、渚を、守らなければ。
 今の風間にできるのはそれだけだ。善を殺人者にするわけにはいかない。
 善の未来を守るためには、渚を廃人から救うためには、殺人そのものをなかったことにするしかない。
 自分が罠にかかり、二人を壊したのなら、もうその周辺もろともを巻き込んで、すべてを壊し尽くすしか方法はないのだ。
「先生……」
 風間は善の耳元で囁く。
「あなたは誰も殺していません」

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