『プラトニックは削れない』第二十話

2024年7月

 事件に始業と就業はなく、朝も夜中も関係なくそれらは起こる。
 朝方。寝ていた風間はスマートフォンのバイブに叩き起こされた。アラームではなく電話だったので取ってみると、元倉警部補の低い声が『事件だ』と告げた。
『古代渚向きの、痴情の絡んだ謎多き事件らしい』
「なんですかそれ」
『知らん。安田に聞け』
 詳しいことは現場で話すと言われた。
 風間が起き上がってカーテンを開くと、まだ薄い朝日が目をちかちかと刺激した。
 部屋着を脱ぎシャツを羽織る。ふと腹部に手をやって、二度と消えぬ縫合された傷口に指で触れた。最近までずっと痛みを抱えていたこの傷口も、もう時々ひきつる程度にしか感じなくなった。
 痕は二度と消えないが、痛みはいつか癒える。
 服を着替えて部屋を出ると、広い廊下を歩く。キッチンに降りて湯を沸かす。紅茶の缶をきゅぽんと開けると、渚の好きな香りが広がる。ティーセットのトレイを持って階段で二階に上がり、寝室の扉に呼びかける。
 返事がないとわかっているので、そのまま扉をゆっくりと開けた。
 頭までかぶったシーツに手を伸ばし、肩に手をかけてゆっくり揺さぶる。
「渚」
 ううんという声と共に、もぞもぞとシーツの中が動いた。
「渚、起きて」
「……事件ですか、事故ですか」
「一一〇番じゃないんだから」
 少し前までは、もう子供じゃないから何事も自力でやるのだと、鼻息荒く意気込んでいたはずなのだ。
 シーツから右腕だけが出てきた。その手にティーカップを持たせてやると、這い出た渚の顔が、寝ぼけながらも微笑みを作る。
「おはようございます」
 世界一無防備で、世界一愛しい笑みだった。
「おはよう」
 部屋のカーテンを開け、渚が紅茶をちびちびと飲み終えるのを待ち、適当な服を見積もってベッドの上に置く。低血圧な渚の目が覚めるのを待つと、彼はやっと起き上がった。白く細い脚。透き通った肌。柔らかい茶髪がマッシュショートに切りそろえられている。渚はよろよろと着替え始めた。
「『痴情の絡んだ謎多き事件』ですか」
 渚の脱いだ部屋着を風間が回収する。
「安田さんは、痴情が絡んだ事件はたいてい突発的だと言いたいのでしょう。基本的に突発的な事件は計画犯罪よりずさんで、構造は単純です。そこに知恵を絞るような謎があるほうが珍しい」
「本来謎があるはずのない事件に謎があるから、渚向きだと?」
「『古代渚は、猟奇殺人を相手にしていた父とは違う』と言いたいんでしょうけどね。見当違いですよ」
「警察の中では『本当にあの古代善の息子なのか』と噂になっているみたいだよ」
 渚がのけぞった。
「父は犯罪の猟奇性をロジカルに解く人でしたけど、私は違います。生前父は私を千里眼だなんて言ってたらしいですけど、とんでもない!」
 そして、彼は自身をこう分析する。
「私はただ、とびきり愛に溢れた探偵なだけです」
 風間の沈黙と渚の返答を待つ沈黙が合わさり、しばらく部屋に無言の時間が下りた。
「風間さん?」
「渚ももう、立派な探偵なんだね」
 失笑の吐息がした。
「なんですかそれ」
 風間は渚が着替え終えるのをぼんやりと待ちながら、幸崎が捕らえられた後のことを思い出していた。
 捕まった幸崎総一郎は、解剖結果の虚偽申告で法医学医の資格を剥奪された。加えて死体の捏造と遺棄。さらには渚の推理どおり、それを実現するための殺人も明るみに出た。現在は裁判を控え拘置されている。
 死体遺棄罪の公訴時効は三年だという。十三年前に筒木肇の遺体を遺棄したことについて、風間は刑事罰こそ問われなかった。だがそれでも己の罪が消えるわけではない。
 入院中は、善の探偵としての名誉と渚の生活を守るためとはいえ、犯した罪に押し潰されそうになった。
 そのたびに、渚が抱きしめてくれた海の夕暮れを思い出す。
 ──ぼくは渚に救われたんだな。
 今度こそ後悔したくない。生きて罪を償い、生きて渚のそばにいるのだ。強固な決意が風間に湧き上がった。
 罪滅ぼしと実益が重なっている探偵助手はよい職業だ。事件を解く探偵を支え続ける。それが風間の生き甲斐だった。
 着替えを終えた渚が風間の前に立ち、「どうですか」と背筋を伸ばした。
 今日は現場に行っても不自然のない落ち着いた色合いのスーツで、背の低い渚にもしっかりと存在感のあるように作られたものだ。腰の細いくびれが強調されていて、男性用でありながら渚が着るとどこか色気がただよう。
「似合う」
「いえ、身だしなみのほうです」
 風間は苦笑しながら、襟の後ろについている埃を指でつまんだ。
「これでいい」
「よかった」
 ガレージから車を古代邸の正門に回すと、渚がスマートフォンを両手に持ちながら待っている。車を停めると、慌ただしく助手席に乗り込んできた。
「風間さんっ、見て、見て」
 渚がスマートフォンの画面を風間に見せた。
「SSRが出ました」
「えすえすれあ?」
「ガチャです!」
 ふぅっと渚が興奮気味な呼吸を押さえつけて、手を胸に当てた。風間は失笑して、バックミラーの位置を整えるとギアをドライブに入れる。
「それはきっと嬉しいことなんだろうね」
「狂喜乱舞ですよ! 今日、すっごく来てます」
 そう言って飛び上がらんほどに興奮している渚を見ると、風間の胸に、無性に愛おしさがこみ上げてきた。
「今から取り掛かる事件がきっと円満に解決する予兆──」
 片手に渚の肩を、もう片手は後頭部に手を回して、風間はしばらく華奢な体を抱きしめながら、長い息を吐いた。
「え、なに、か、風間さん……?」
「五秒だけ。このまま」
 風間は、この気持ちはなんなのだろうかとふと思い起こす時がある。
 家族とは違う。相棒というにはギスギスした試しがない。恋人にしては時間を共有しすぎている。
 夢の中では、うまく言葉にできたような気がしていたのに。
 けっきょく風間は考えに考え抜いて、渚との距離感は『風間封悟と古代渚』なのだろうと結論づけた。
 だがその感情は、善に対する身も心も焼き切れるような激情を経なければ、きっと気付かなかったものだ。
 削りきれなかったプラトニックは昇華されて、また新しい感情に還元された。
 体を離し、スマートフォンを持ったまま固まっていた渚に、風間は微笑んだ。
 初めて、うまく笑えたような気がした。
「ありがとう」
「ど、どういたしまして」
 渚は風間が離れた後も完全フリーズしたまま、ポツリとこぼす。
「五秒とは言わず、十秒でもよかったんですよ……?」
「はは」
 風間はサイドブレーキを下ろした。
「行こうか」
 車を発進させ、古代邸を後にした。

〈了〉


【参考文献】
『法人類学者の捜査記録 骨と語る』(徳間文庫)
(DEAD MEN DO TELL TALES The Strange and Fascinating of a Forensic Anthropologist)
著:ウィリアム・R・メイプルズ
監修・解説:上野正彦
訳:小菅正夫

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