都市のデザインじゃなく、 総意のデザインが必要だ。

私の住む京都はホテルが足り過ぎているし、宿泊施設の稼働率は総じてよくないし、経営難のゲストハウスやホテルがどんどん売りに出ているし、宿泊サイトを見たら日本の中でも安く泊まれる街にもなっているし

街を歩いていてそう思う。

4-5年前に宿泊施設拡充・誘致方針が出され、京都にホテルをつくると儲かるらしい、という外の人の思惑と合意形成済みのプランにブレーキが利かず

ホテル予定地はいまだにそこらへんに沢山あるし、ホテル予定地だったのだろうと推測される駐車場が、街中に空虚なエアポケットとして
そこかしこに点在している。

沢山建ったホテルが、今度は廃墟になるかもと思うとぞっとする。ホテルの方が必要とされているし儲かるからと、住んでいるひとが土地を売ったり、もしくは追い出されたりして、廃墟ホテルだらけのゴーストタウンになるなんて未来もありえる。ホテルの建物も、採算をとるための安っぽいものが多い。。

ここにホテルがあればいい、コーヒーやさんがあればいい、バーがあればいい、なんて
そんなん、シムシティ(街をつくるゲーム)じゃないんだから。ショッピングモールとも違う。
ここにホテルがあればいい、コーヒーやさんがあればいい、と思うなら、言ってる当人がやった方がいい。あと自分が愛するお店のお客さんになるとか。

設計に当事者意識が抜けていると、事業者にシワ寄せがいくし、街も不幸になる。
いまはお店をつくればお客さんが来る時代でもないし、繁華街がどんどん廃れていくのも目の当たりにしているし
お店は楽しいこともあるけど、続けるのって苦しいはず。お店でたまにスナックイベントをするのでさえも、大変だなぁって思う。最初の一時間がノーゲストだったときなどぞっとする。スナックイベントって往々にして、イベントやってよという人ほどお客さんで来ないし。これが、お店を持っていてノーゲストの日が続いたりすると私はハートが耐えられない。

都市をデザインする思考は、お上目線過ぎて、街で生活するとか、営む視点が抜けている。

街を共有財産とするならば、それは建物だけの問題ではなくて、
お祭りとか、無形の資産もあるし
そこに住むひとがどう考えて、どう生活するか、が、その土地特有の文化になり、財産になっていく。

お上目線の「街を設計する」じゃなくて、
そこに住むひとや事業を営むひとの目線でやっていかないと。
住むひとの意思をどう引き出して、どう組み合わせるかが
街づくりで大事なんだと思う。街をつくるのは結局、その土地にいるひとなんだもん。

だから、上からの決め打ちの、建物ベースの都市デザインをするよりも、
地域に住む人の意思を引き出し、何を作りたくて何が必要でどう生活したいかを泥臭く組み立てていく総意のデザインの方が
現代に必要だと思う。

良いお店をつくっても繁盛すると保証できないし、良いお店って誰にとっていいお店?ってなるし。

って話を九州の酒場でしていたら、コール&レスポンスみたいに
呼応したメッセージが、飲み会の次の日に来た。

江戸時代の江戸での「家守」は、全国から大名、家臣、商人が集まる中で建物を中心とした管理運営を目的とした職種で
それはある意味、「人が増える街」を前提した街の管理の仕方で、地方での「維持」していく考え方とは違うのかなと感じました。

遊休建物を使った街づくりを目的とした現代版「家守」は、建築士(不動産)目線の街をこうしたいみたいな、一方的なエゴであり
実際の街は、そこに住む人や、自然、植物、生き物、文化、歴史を含めて、総合的に共存維持できる街にしていくべきではないかなと感じてます。

そういう意味で、一部の建築士、不動産、行政だけで街を作るのではなく、そこに住む全ての住人、環境、歴史、文化の総意で街を作るのが理想だなと思います。

ほんとその通りだと思った。で、2020年はどんな年にしたいか。

お時間いただきありがとうございます。