反ワクチン・反マスク・ウェーイのこころ

Markowitz & Shariff (2002)による気候変動否定についての心理探求に沿った、反ワクチン・反マスク・ウェーイのこころの理由メモ

まずもって、部族忠誠(支持するイデオロギーや支持政党)がすべての判断基準になる人々。ワクチン接種するか否か、マスクを着けるか否かが、部族の徴となれば、何をおいてもまず部族忠誠が優先し、それ以外の情報・推論は後付けにしかならない。そもそも同一部族からの情報のみを無批判に受け入れるため、比較情報など入って来ない。

そこまで凝り固まってなくとも、ノーマスクで飲んで騒ぎたいという人々。飲んで騒いだところで、確実に感染するわけでもなく、感染しても確実に重症化(あるいは中等症II)になるわけではない。そのような不確実性・確率がからむ事態だと、普通に人は自己中心的行動をとったり、楽観的に考えたりする。そもそも事態についての判断も楽観バイアスがかかる

感染拡大により自分自身が発症・重症化しないとしても、あるいはそれは自己責任だと思っていても、他人を感染・中等症化・重症化・死亡させること、そして医療従事者の負荷を高める行為を思いとどまらない理由。それは自分から遠い人々や自分と同じ集団に属していない人々については、倫理判断があまり働かない傾向があることによる。自分や家族や友人が医療従事者でなければ、どうでもよくなる。若ければ老人など気にしない。

さらに、倫理判断には推論と感情の両方が効いており、直観的な倫理判断の後付けで推論を行っているとの研究もある。その結果、現象が抽象的だったり複雑だったりして、理解に認知コストがかかる場合、感情あるいは直観で判断している可能性が高い。大学前半程度の生物知識が必要な判断の場合、知識がなければ判断は直観や感情レベルで終わっている。

また逆に恐怖に怯えすぎたために、否定論に傾いたり笑い飛ばすようになったりで、恐怖を克服してしまうこともある。「コロナは普通の風邪」みたいなのもこれの可能性がある。

もちろん否定論に傾く心として、「奪われた者の怒り」もある。飲んで騒ぐ権利を奪われたと感じて、その「正当な権利」の回復の理由として「コロナは普通の風邪」などを掲げるのもその例かもしれない。

いずれも自力脱出困難な状態であり、どうともならない。



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