国が老いるかは知らないが、世論は老いるだろう

国が老いるかどうかは知らないが、老人の人口比率が高まれば、その分は世論は老いるだろう。

「経済発展はもはや不要で、足るを知るべき」だと言うのは、変化への抵抗感の表明でしかない。それは、老いて、認知能力が衰えて、思考が保守化した結果だろう。

そして「発展はもういらない」の行きつく果ては、衰弱死あるいは閉塞。戦い疲れ、「これまで」が「これから」よりずっと長くなってしまった人々には相応しい望みだろう。

政治を民主主義というシステムで運営していくのであれば、人口が高齢化した国家では、政治的決定は老いたものになる他ない。世論が求めるところが、国家レベルの衰弱死あるいは閉塞であるなら、そのような政治こそ正しき民主政治。

老いて衰えた認知能力の故の、不確実性に対して不寛容は、陰謀論を支持しやすくする。それとともに、不確実な銭の使い方への不寛容にもつながる。「大当たりからスカから大ハズレまであり、いろいろあり、全体ではそこそこ」といった考え方は取れず、「あたり」だけを求める。

それが基礎研究に向かえば、「選択と集中」と言葉を飾ったところで、現実に行われるのは「既に結果が出始めている分野への後追い」への資金集中。「未来を見通せないという現実」を拒絶する「不確実性に対する不寛容」は、「あたる研究とはずれる研究を予め判断できる」という幻想・非現実を前提にするしかない。それを現実成果に実装すれば「後追い一択」にしかならない。

それが投資に向かえば、「投資しない」か「リスク誤認」につながある。いかなる投資にもリスク=不確実性が伴う。不確実性を嫌い、なおかつ現実を見るなら「投資しない」以外の答えはない。あるいは衰えた認知能力に従って「リスクゼロだと誤認した」先に銭を突っ込むか。

不確実性に対する不寛容がもたらすものは「起きる可能性は0.01%もない(0.01%vs99.99%)→ということは起きないというわけではないのだな→ということは起きるか起きないかどちらかだ(50%vs50%)y→なら、起きる方に賭ける→絶対起きる(100%vs0%)」あるいは「弾に当たる確率は30%だとしても、当たらなければどうということはない(30%vs70%)→絶対当たらない(0%vs100%)→GO」

それが教育に向かえば、「役に立たない勉強」をなくすことにつながる。学校で学んだことの、どれが役に立ち、どれが役に立たないのか。そして、誰が役立て、誰が役立てないのか。そんなことは予め知りえない。だから義務教育を行っている。しかし、「予め知りうる」とするなら、「人の選別・教育内容の選別を行うべき」につながる。

衰えた認知能力はまた「三行で言え」や「要するにどういうことだ」にもつながる。それ以上、長い話を聞く力を、理解する力を失っているが故のことだ。

世の中、たいがいのことはいろいろ絡み合って複雑で、面倒くさくて、クリアカットな答えはそうは見つからない。「三行で言う」ことで、その多くの情報が失われ、残るのは「わかった気にさせるフレーズ」でしかない。

衰えた認知能力で処理できるのはその程度で、できるとしたら、自分に与えられた言説が「わかった気にさせるフレーズ」でしかないと意識することくらいかもしれないが。

そのような人の総意が世論である以上は、老人人口の増大し続ける世界では、世論は老いていくしかない。


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