センスの話から付随した美術への扉

”センスは知識からはじまる”という水野学さんの本を手にして読み始めている。

パラパラと目次を散見しながら読みたいところから読んでいると、ある文章のくだりでパッと手が止まった。あの日の記憶が甦った。

これは美術のセンスに蓋をしてしまっていたであろうという話である。

中学1年生の最初の通信簿1学期の美術の成績が5段階評価でなんと2だった。これってスッカリ自分でも忘れていたけどこの本を読んで思い出した。

授業中の態度が悪かった記憶は一切ないし、中学は病欠以外で欠席したわけでもない。心当たりは今の記憶を手繰っていくと検討がつかないが、結果は2だった。相性が悪かったか、よほど絵が下手でコイツに2をくれてやるという出来栄えだったのかもしれない。

これ、ものすごく内在している心深くで傷ついたのだと思う。その証拠に自分の意思で絵を描いたことはその後ないわけだし、(まぁその分野の人や趣味以外の人が中々普段絵なんて描かないかもしれないけど)それ以上に美術関連の分野、付随してアートや家のインテリア、家財そうした美への意識までおそらく蓋をしていただろうとこの本の一節を読んでハッとしたからだ。


日本でも海外でもたまに美術館へ行くことはある。大体有名どころだ。これまで事前の下調べ、予習なんて全くといっていいほどなければ、いきあったりばったりの鑑賞だった。《決してそれが悪いわけではないが》そのため後になって語れるような感極まるほど語れることもなかった。あぁあそこへ行ったなぁぐらい。

そんな美への追求、アートへの探求というのはどこか疎かにしていた部分は否めないと感じた。

けれど、けれどだ。自分に内在する芸術への欲求の高まりはずっと感じ続けてはいた。そんなくすぶりや知への欲求はどこかでうずいてはいた。ただその扉は一向に開かれないままだったということか。


この本をまだ全部は読み下してはいないが要はセンスはまず良質なインプットに支えられているという論で進んでいる。

これは有難い言葉だ。知へのあくなき欲求は高い。過ぎ去りし日はしょうがない。知り一歩目、封印された美術・芸術への扉を開けられるよう

それが日常の些細なインテリアやコーディネートにも関連してつながるのならそれは有難いことだと思う。

今回ふとあの日蓋をした事実を思い出すと共にその眠れる扉を解放してあげようと思ったものだ。

日常のちょとしたインテリアへさえこれまでと違った表情を見せるかもしれない。


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