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集団行動する冬鳥 アトリ

 私が思う冬鳥は、単独行動するイメージですが、そんな中、集団行動している冬鳥にアトリがいます。

 アトリは、秋に帰って来て、春に旅立つ冬鳥です。カムチャッカ半島やシベリアで繁殖し、日本に移動します。まず、日本海を渡り、日本海側に飛来した後、全国に散らばって行くようです。
 アトリは、体長約16cm。オスは頭が黒色、背・翼は黒色・橙色・白色の羽が混じった構成、喉・胸は橙色、腹は白っぽい色です。メスは、オスと同じような配色ですが、全体的に薄い色をしています。

オスのアトリ(2019/12/29)
メスのアトリ(2018/11/24)

 カタカナで、アトリと表記されると、何となく違和感を感じます。例えば、◯◯ヒタキ、◯◯ヒワ、◯◯マシコなど所属する科に特徴を冠したものや、シロハラ、アカハラ、クロジみたいに、名前から姿を想像できるものが命名されているのに対して、アトリはイメージがつきません。

 調べてみるとアトリは、古くからアトリと呼ばれているようです。
 万葉集 巻20-4339には、『国巡る あとり かま けり 行き巡り 帰り来までに 斎ひて待たね』という歌があり、「国々を行き巡るアトリやカモ、ケリのように、私も帰ってくるので、それまで、身を慎しんで待っていてくれ」という意味です。
 万葉集では、阿等利と表現されています。万葉集が編集されたのは、奈良時代末期なので、西暦700年代の後半にあたり、この頃からアトリと呼ばれ、渡りをする鳥として認識されていたということです。
 また、日本書紀・天武紀の9年の記述に、「臘子鳥蔽天自東南飛以度西北」とあり、臘子鳥(アトリ)が、天を覆って、東南から西北に飛んだとあります。680年のことです。
 今から1300年以上前には、アトリと命名され、群をなして渡りを行う野鳥と認識されていたということです。考えてみれば、人類の歴史より、鳥類の歴史より長く、1300年前の奈良時代にアトリがいることは当然のことです。
 アトリの名前の由来は、「集まる鳥」からアトリになったというのが、有力な説です。古代の人が、アトリが集団で現れて、行動する姿を見て、「集まる鳥」→「アトリ」となったと考えると、納得がいきました。

 関西で、アトリは冬の時期に、森林公園や都市公園などで、普通に見ることができます。
 飛来した当初は、集団で木の枝に止まって木の実を食べていますが、木の実がなくなると、全員で地面に降りて、採食します。人が近づくと一斉に飛び上がるので、アトリの存在に気づいていないと、びっくりします。

木の実を食べるオスのアトリ(2021/1/30)
木の実を食べるメスのアトリ(2017/12/23)
地面で採食するアトリ(2021/12/26)
地面で採食するアトリ(2023/3/21)
水場に降りてきたアトリ(2015/10/26)
水場に降りてきたアトリ(2016/1/9)

 私がよくアトリを観察する公園では、3月ぐらいになると、北への渡りに備えてか、アトリの数が増えてきます。人が普通に散歩している公園ですが、3月にもなると人慣れして、人が近くまで接近しないと飛び立たないし、飛び立っても2m程の高さの木の枝にとまり、人が通過するとすぐに降りてきます。

 こんな感じで、アトリを観察しています。

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