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当たり前の反対を考える

高校生の頃、「すみません」が口癖だった。

ある時から親の代わりに子どもの自分が謝らないといけなくなった。自分が何かをしたわけではないけど、血が繋がっているという理由で12歳のこどもが大人たちに責められるのは酷な事だなあと思う。

そんなことがあって自分も知らないうちにありがとうもごめんねもなんでも「すみません」で済ましてた。

ある日、ものを貰ったのにありがとうと言わずにすみませんと言っていることを同級生に指摘された。その同級生はありがとうの気持ちは「ありがとう」じゃないと伝わらないんだから「すみません」を済ませるのは失礼だと言う。私は感謝の意を込めて「すみません」と言っているのだから別に良いじゃないかと思ったが、すみませんというとでこぴんされるようになったので自然と言うことが少なくなった。

そのうち、ありがとうが口癖のようになり小さなことにも気付けるようになった。当たり前のことに意識が向くようになって、前よりも少しだけ人の気持ちが理解できるようになった気がする。

当たり前が当たり前じゃなくなって初めて、そのことのありがたさに気づかされる。ある経営者の方は、有難いの対義語は当たり前だと言ってた。愛情をたくさん注がれ、あたたかい布団で寝れて、努力が報われる環境は決して当たり前じゃない。これから自分の手でいろんな世界に行きいろんなものを手に入れても思い上がらず先人たちと周囲の人に感謝をしていく。

自分にひたすらに愛情と労力をかけてくれた祖父が天国にいった。人に優しく真っ直ぐで曲がったことが嫌いな人だった。亡くなっても残された人たちの中に祖父が生きてて、寂しさや喪失感がない。出てくる感情は、ただただありがとうの気持ちで、もっと伝えておきたかったな。

ひとつひとつを丁寧に生きていて人として立派な祖父が大好きでした。次会ったときに、「いい顔やな」といわれるように日々に向き合って楽しんでいこうと思います。

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