わたしは、連絡をとり続けることができない
ふいに15年近く会っていない友人に会いたくなった。
今どこで何をしているんだろう。
この時代、SNSでつながれないことはきっとないだろうと、検索をしてみた。
入手できたのは、北海道のある中学校に去年の4月から赴任していること。ただ、それだけ。
FacebookもおそらくInstagramもしていない。
LINEにも出てこないし。
連絡先を知っていたのはどの携帯までだろう。
わたしっていつもこうだ。
大好きな人なのに、ずっと連絡をとり続けることができない。でも、だからこそ会いたいっ!と思ったときの行動は俊敏だ。
これも縁なのだと思う。薄ーい縁をつなぎ留め続けることはわたしには難しい。それほどまでに情熱を注げないのだ。
素敵な人、一緒にいて気持ちの良い風が吹く人、心地よい人、救われる人、そんな人たちと人生でいえば、「一瞬」交流をもった。同じ瞬間を共にした。それだけで人生は豊かな気がする。
もちろんそんな人たちとずっとつながり続けられたら、それはそれでとてもしあわせなのだけれど。
ずっと一緒にいるとか、ずっと連絡をとりあうとか、そういうことではなく、わたしの中にずっと在る人たち。日々何かが起こったとき、あの人はこんなふうに解釈するだろうなあとか、元気にしているかなとか、心に浮かぶときがあればそれで充分な気もしている。
「人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない」大崎善生さんの小説の一節。
まさにこれだと思う。
たとえこの先一生会うことがなかったとしても、その人と過ごした時間、交わした会話、一緒にいるときの温度感、空気、汗のかいたグラスを握りながら呑んだくれてクダをまいたこと、そんな一つ一つが記憶の片隅に確かにあって、今のわたしに影響を与えているとしたら。それはもう、今つながっている、いないなどとは全く関係がないのだ。そう思う。