twitterの被弾問題・リム・ブロ問題を考える

※この記事は、私が常々考えていたことをまとめたものです。書くきっかけになった出来事はありますが、その方と喧嘩したわけではなく、平和的に解決済みです。ですので、そちらの件とはまったく別の記事としてご覧いただければ幸いです。

twitterに限らず、最近の世間の傾向として、「見たくないものを見せられた」「ネタバレ見たくないのに見せられてしまった」という感情があり、それが問題に発展する、というのがありますよね。
後者は画像流出などのケースではれっきとした著作権違反ですから、その点については、出版社各社もSNSメディア側も、これからもまだまだこの件と戦っていかねばならない、というのは明白です(しかし、この問題は決して新しい問題ではなく、今に至っても有効な解決方法がみつからん、ということが解決の難しさを物語っています)

しかし、それ以外の、(個人のネタバレツイも含め)自分が「今」見たくないものを見てしまった(敢えて「今」と書きます)、という問題に対して、どうすればいいのか。

これについては、私は、SNSのブロック機能やミュート機能を積極的に使うのが唯一の解決だと思っています。

以下、なぜそう思うのか、トピックに分けて述べたいと思います。

1)Twitterを表現ツールとして使うか、お友達ツールとして使うか

私はインターネットを使い始めたのが1992年なんですが、その時代は、まだホームページもそれほど普及しておらず、SNS的なものはパソコン通信やniftyの会議室、メーリングリストくらいしかありませんでした。

この時代に、何が一番目新しかったかというと、お金も地位もないただの学生が、自分が顔も見たことがない不特定多数の相手に情報を発信できる、という点だったのですね。
皆、情報を発信したい、あるいは大手メディアから以外の情報を得たい、という情熱に導かれて、ネット上の会議室に集い、そこで意見交換していました。勿論、niftyの会議室なんかは、漫画などのファンの集う部屋などもあって、お友達を作るのがメインの目的になっているところもありましたけど、その時代はまだSNS的なものをやるのは情報を得るためであって、ネット上のお友達を作るのはあくまでその結果、と思っている層も多かったと思います。

だから当然、自分と意見が合わない人がいれば、とことんまでネット上で議論を続けるか、でなければその会議室やMLを抜ける(今でいうリムやブロック)ということは普通にありましたし、そこに罪悪感を感じる人はほぼいなかったと思います。(まぁかなりクローズな会議室で特定の一人を追い出す形になれば若干意味合いが変わってきますけど)

この状況が変わり始めたのが、会議室形式で全員が同じチャンネルに登録するのではなく、現在のtwitterやfacebookのように、一対一で繋がる形式が生まれた後であると思います。そうなると、普通のお友達付き合いがそうであるように、簡単に切るわけにはいかない状況が生まれます。

この形式は、Facebookのような実名主義のSNSにはうまく働いたと思います。Facebookが目指したのは、物理的な距離の制限を超えられる「お友達付き合い」であって、だからこそ実名で登録してください、という話だったわけです。

しかし、同時期に急速に広まったTwitterの方は、そういう媒体ではないんじゃないか、と、私は2010年あたりからずっと思ってきました。
Twitter は、「呟く」という名前を与えられたように、本来書き手がその時の気分を勝手に呟き、それを第三者が面白がって覗き見する、というような、そういうメディアなんではないか、と。
つまり、Facebookがオンライン上のお友達ツールであるなら,Twitterは全員をミニ出版社にするようなものである、というのが私の今に至るまで変わらないtwitterというSNSに対する理解です。

勿論、機能的に、お友達付き合いも、ミニ出版社になれる機能も、殆どのSNSメディアは網羅してますので、どのようにも使えるのが現状です。
しかし、お互いに、相手がそのツールをどちらの機能を重視して使っているか、という部分の認識を誤解すると、ものすごく面倒になります
私は、twitterでブロックされて傷ついたの、ネタバレツイで被弾したの、という問題は、ほぼ全てここに起因している、と思っています。

だから、この問題の解決のためには、まず、自分がつながっている相手がそのどちらを重視しているか、ということを知らなければならないし、そのためには、相手も自分も、その部分をあらかじめ明らかにしておくのが、一番面倒がないわけですよ。
よくプロフ欄に書いてあるFRBご自由に、というのが、ある意味意思表示であるとも言えると思うのですが。

それなので、私も今更ながらですが、自分はミニ出版社のつもりでアカウントを運営している、という意思を、先頭固定ツイに貼り付けました😅。
これの意味するところは、つまり、私は一方的に呟きたいことを呟く人間であって、自分のポリシーを曲げてまで誰かの意見を取り入れて自粛することはありません、という意思表示です。そのかわり、リムもミュートもブロックもどんどんお好きにやってください、というスタンスです

それは、自分が気に入っていた雑誌が、ある時から自分の好みに合わないものを掲載し始めたらその雑誌の購読をやめる、というのとまったく同じです。
だからといって、やめたカスタマーが出版社に敵意があるわけではないし、また永遠にそうとも限りませんよね。
その人の好みのものをまた配信するようになったら、戻ってくるかもしれない。そういう緩いつながりである、と考えています。


2)情報化社会とは、情報を受ける側が、積極的にフィルター機能を行使すべき社会

なぜこんなふうに考えるか、というと、実は、私自身が、かなり積極的にミュート機能を使う人間だからなんです😅。

囀る47話の激震の後、私は一時、本誌に関する話題が辛くて一切受け付けられなくなりました。それこそ、TLのみなさんがあの二人の話題をツイしてるのをみるだけでもう辛い(笑)。それは、あまりに、自分の受けた印象が、TLに流れているみなさんのご感想と違いすぎたからです。
なんでみんな、あれを見てそう思うんだろうか? というのが、自分でも意外なほど本当に辛くて、一時期マジでついったやめよう、と思いました(笑)。

でもそのときに、なんで、そこで、全部やめるか、我慢して居座るの二択しかないんだ? と思ってですね(笑)。

私が辛くて見られん、と当時思っていた方々は、みなさんとても良い方で、お友達なわけですよ。で、私自身も、知らない間に、そういう方々のツイを見ない、というのは失礼なんじゃないか、と思ってしまっていたわけですね。大丈夫な人とだけTL上で会話してれば、見てないのは大体雰囲気でわかってしまう。それが相手に知れたら失礼なんじゃないか、気を悪くするんじゃないか、とか。

でも、あの時は本当にもう辛くて、それで「すみませんが暫くTLは見ません!」と宣言して、その一方で、その時繋がっていたお友達を10人以上心の中でこっそり「ごめん!」と謝ってミュートさせていただいて、大丈夫な方のツイだけ眺めつつ、たまに自分の思ったことを吐き出すだけ、それにリプしてくださった方とだけ会話する、というのを繰り返したら、アレ? twitterって、もともとこういうツールだったんじゃ? と思い出しました(笑)。
そこから発展して、実はミュート、リム、ブロックこそが、SNSの最大の強みなのでは?! て思ったんですね。

つまり、「今現在」とある人のツイをさまざまな事情で見られない、ということと、その人に対する評価というのは、まったく別モノなんだ、と、改めて気づいた、というか。

これは、実は、リアルの付き合いでは難しいことなんです。
どうしたって、顔を突き合わせれば、その人の意見だけ聞かない、話もきかない、ってわけにはいかない。何をやっても気まずい気分になってしまうから、物理的に会話ができないよう、距離を置くしかない。
でも、きちんと説明して理解を得られれば、オンラインのSNSはそれが可能なんです。
そして、自分のその状況が変わったら、またボタンひとつで戻ってくることができる。

現実には、やはりリムやミュート、ブロックされるのは悲しい、という人がいるので、そう簡単ではないんですけど、でもちゃんと普段から自分はそういう人間であって、自分自身の心の平安を守るために、一時的にそういう対策をとらせていただくことがあります、って周知しておけば、全く不可能な話ではないと思っています。

つまり、SNS社会で大きく変わったことは、誰もが発信者になれる時代が到来した、というのと同時に、情報を受け取る側が、自分でどのような情報を受け取るかをフィルターできるようになった、ということなんですね

実は、こないだ岡田斗司夫さんの有料チャンネル見てて、これからの社会は「ミュートの時代」になる、ということを仰っていて、そうか、まさにソレだ‼️  と膝を打ったんですが(笑)。

つまり、ここまで情報が溢れて、否応なしに目や耳に入ってきてしまう時代、個人の個性なり、主体性というのは、「どの情報をフィルターアウトして、見ないようにするか」というところにしか残らないのではないか、と。
ものすごい話ですよね(笑)。

こんな一言でまとめられる話ではなかったんですが、結局、人間は、外界から情報を取り込んで思考を成長させていくわけなので、生まれた瞬間からまったく同じ情報を注ぎ込まれていれば、多少の差はあれど、大体似通った思考の持ち主に育ってしまう。そのへんは、まさに人間というのは「洗脳」が可能である動物である、ということで既に実証されている。

であれば、その、本来自分自身でミュートすべき努力の部分をやらずに、情報発信者に改善を求める、というのは、自分自身の主体性を放棄する、ということにもつながってしまうわけです。

でも、そう自覚してやっている人は、おそらく殆どいない、と思います。
なぜならば、我々の脳が、まだSNS時代のスタンダードを学びきれていないから。
SNSでは世界中で繋がってしまっているのに、行動原理や思考パターンが、まだ村で知り合い精々100人程度の中で暮らしていた頃のスタンダードから抜けきれていないんです。(この辺もその岡田さんの有料チャンネルで解説されていたことなので、完全に受け売りなんですけど)

だから、そのフィルター機能を、自分で能動的に選んでかけるのではなく、「お友達」に丸投げする、ということが世界中で起きている。
「お友達」からリツイされてきた情報は無批判に信じるけど、一方で、新聞に掲載された公式発表は陰謀論だと決めつけて信じない、とか。
「お友達」が面白いといったものは見るけど、それ以外には全く興味がない、とか。
それは、つまるところ、学校や小さな村といった小さな共同体の中で、共同体全体でフィルターを共有しよう、という思考とまったく変わらないんです。

3)「私が見たくないものを見せるな」「私が見ずに済むように対策してほしい」という要求の本質的な問題点


でもって、この脳がSNS時代に合わせてアップデートしていないがために、色々な不都合がおきちゃってるわけですね。

一番顕著なのが、自分がTLを見られなくなるとか、ミュートして見るのやめようかとか悩む、という段階を突き抜けて、「ワタシはこんなもの見たくないので流さないでください!」という、表現側に対する非難だったり、「こういうものは私は傷ついたし、他にも傷つく人がいると思うので、ワンクッション挟んだ方がいいんじゃないですか」という提案を直接表現者に伝えたりする、という件なんですが。

これ、前者と後者は大違い、と思う方が殆どでしょうし、一面としてはそうなんですが、別の一面から見ると、まったく同じなんですよ(笑)。

つまり、どちらも、「自分が所属する共同体の」フィルターを採用しろ、と迫っている(笑)。

自分が所属している共同体の中では、こういう傾向があります、他にも同意見の人がいます、だから、あなたもそれに合わせたらどうですか? と主張している、という意味では、どういう体裁をとろうと、変わらないんですね。

こういう主張は、どちらも自分ではどうにもできない、と思っているから、相手への糾弾や要求の形をとるわけですが、本当にそうなのか?
さらに言えば、じゃあ、それは本当に本質的に、相手に対応可能な話なのか?

たとえば、一つ目の具体的な例は、見たくないものはフィルターしてるつもりだけど、自分がフォローしてるアカウントからRTで流れてきて被弾した、というケースですね。
自分のせいじゃないし、自分には対策がとれないから、そんなものを流す方が悪いので、自粛してくれ、と。

しかし、これ、無理なんですよ(笑)。
理由は簡単で、相手にも別のフォロワーがいるから。
むしろそれを見たい人がフォロワーとして集まってる、という可能性も十分にあるから、その人たちの不利益になることは基本できない。
ましてや、直接のフォロワーからではなく、友達があなたをフォローしていて、そのRTで被弾しました、なんていうケースは、そもそも自分のフォロワーじゃないんだから、そんな自分から見てまったく繋がりのない第三者のために配慮する理由なんて、これっぽっちもないんですよ(笑)。
で、こういうケースでは、ほぼほぼ、社会通念を理由に、自粛すべきだ、って主張になるわけですが、それが相手に受け入れられるかどうかは相手の胸ひとつ、ですよね。そもそも所属している共同体が違うので。

もう一つは、本質的に、ネットで情報を集める、ということは、新しいものを開拓することと同義だからです。
当然、新しいモノを探す中で、見たくないモノに遭遇することはある。
これは不可避の現象です。
それを承知でネットサーフィンに出てるわけなので、「自分のせいじゃない」というのは嘘なんですよ。
そう言い切れるのは、自分と価値観を同じくする共同体の中だけで生きていて、外向きには閉じている会議室みたいなものにしか絶対アクセスしない、と決めている人だけです。

二つ目の具体例は、その相手のツイはむしろ好物で、見たいんだけど、この傾向のものだけは見たくない、という場合ですね。
ブロックしてしまうと、もともと見たかったものも見られなくなる。
だから、情報発信する側が、タグづけするとか、なんかワンクッション挟むとか、そういう対策をしてくれ、という要望です。

この手の要望は、相手によっては受け入れてもらえることもあると思います。これは、偶然、自分と相手のフィルター条件がかなり重なっている場合ですね。
なので、その可能性に賭けて、とりあえず丁寧にお願いしてみる、はアリなのかもしれません。相手との信頼関係があれば、の話ですが。
でも、少なくとも私は、よほどの理由がない限り、対応できません😅。

なぜなら、そのカテゴライズは、私のカテゴライズとは違うからです。
これは全員に見せていいもの、これはこういう層に見てもらいたいもの、というカテゴライズは、勿論私の中にもあります。
そして、その選択も含めて、私自身が表現したいもの、です。

書き手によって、そこはもう本当に千差万別だと思いますが、私は、極力、カテゴリー分けをしない人間です。それこそ、twitterや他の媒体が規定するR18とか以外は。ほとんどタグを使わないのも、そういう理由です。
(女体化だけは#にょしろタグつけましたが。あれは人によっては原作に対する侮辱であると映る可能性がある、と私は思ったので、タグでミュートできるようにしといた方がいいか、と思ってつけました)

それは、自分がそういうカテゴリーを設定してしまったがために、見る人にそういう先入観を持ってほしくないからです。
自分が誰かの作品を見る側に立った場合にも、そういうカテゴリーを設定されたが故に見逃してしまうことを勿体無い、と思います。
たとえば、私は、センシティブになってる映像は、その場で開いたらマズいものがあるかもしれない、と思って、外では極力見ないんですね。
だけど、あとで、そのツイまで戻ってきてわざわざ見るかといったら、見ないことの方が多いんです。
まぁ、沼に落ちたてのツイ廃の頃はそれでも全部たどって見てましたけど、最近は結構時間が経ったらもういいや、ってなっちゃう(笑)。
それは、表現する立場からすれば、惜しい機会、なんですよね。

実は、表現者というのは、既存の共同体に適合するよりも、むしろ自分が共同体を作る存在なんですよ。
私はこれがいいと思う、私はこう思う、ということを積極的に発信して、それがいいと思う仲間を、自分の力で集める。
それが、表現して、それを見てもらう、ということの本質なわけです。

だから、購買層の既存の共同体に溶け込むことを第一の使命としている企業の広報アカウントと、個人が自分の趣味を垂れ流すアカウントは、本質的に、役割が違います。
そういう意味で、企業アカウントに、「こういうものは見たくありません」というリプを投げるのは、ある意味理にかなっている。企業もそれが知りたいから。
(もっとも、そういう声の大きいカスタマーの意見ばっかり聞いてるとどんどん迷走していくので、表向きは善処します、といいつつ、裏ではしっかり自分の社の方針を練ってると思いますけど)

でも、個人アカウントは違うんです。そこで、フォロワーの意見を取り入れてどんどん自分のアカウントの運営方針や、表現するものを変えていってしまったら、自分がもともと表現したかった世界がなくなってしまう。
だから、その要望には、本質的に応えられないんですよ。
さらに言えば、多くの場合、そもそも応えるのが不可能な設問なんです。

例として「痛々しい表現のものを見せるな」という要望があったとする。
じゃあ、「痛々しい」ってどういうものをいうのか?
それも人によって様々なわけですよね。
血が出てたらダメ、と言う人もいるでしょうし、痛そうな顔してたらダメ、と言う人もいるかもしれない。
そっちよりも、殴られた痕跡の方が辛い、と言う人もいるかも。
自分では問題ないと思った範囲でも、それも辛い、という人もいる。
そしてそれが、多くの場合、その時の見る人の精神状態によって、コロコロ変わっちゃうんですよ。
私自身が、47話のあとに、囀るの本誌の話題ってだけでもうダメ! てなっちゃったとかね。これはかなり極端な例ですけど。

自分と相手が一人ずつしかいない間柄なら、相手の要望を細かく聞いて対応できるかもしれない。
でも、100人フォロワーがいて、100人が違う対応を頼んできたら、どうしたらいいのか。
全部かなえようとしたら、何も呟けなくなりますよね。
じゃあ、そのうちの誰かの要望だけを、取り上げるか?
でもそれは、「え、その人の意見だけ取り上げるんですか?」と思う他の誰かの感情に目を瞑ることでもある。
他の人には「それが見たかったのに!」て思われるかもしれないですから。

先に忠告してくれ、タグつけてくれ、て言われても、これはOKなのか、NGなのか、っていちいち考えなくてはならなくて、これが結構な負担なんですよ(笑)。
なぜなら、人間の脳味噌というのは、「選択」とその結果の「決断」というプロセスに、膨大なコストを支払う仕組みになっているからです。
「選択」するためには、その結果、将来に起こり得る利益・不利益を、未来まで思考実験しなくてはならない。将棋の棋士が何手も先まで読む、アレと同じです。
ものすごく脳のCPUを使う作業なんです。
しかも、その結果には、自分が責任をとらなくてはならない。

それでも、自分の中のフィルターポリシーに沿ってタグをつけるのはまだいいんです。
自分のフィルターを見直して、これはこういうタグを付けといた方が安全かな、とかいう思考実験は、まだやりやすい。
そしてそのその責任を自分が負うことにも納得できます。

問題は、会ったこともない、バックグラウンドも知らない第三者のフィルターポリシーを、一体どうやって推測すればいいのか? という話です。
みたことのない誰かがどう思うかを推測して、一つのフィルタを選ぶ、というのは、実はものすごくストレスがかかる作業なんですよ。
そもそも、そんなフィルタが、そういう誰かを満足させることができるのか、という確証もない。
しかも、そんな誰かのために設定したフィルタによって生まれる結果は、自分が責任を負わなくちゃならないわけですよ。

自分がこんなことを呟いたら、誰かが傷つくんじゃないか、という漠然とした不安の中身って、まさにコレなんです。
完璧に対策ができるなら、不安になったりしない。
本質的に対策不可能だから、不安になるんです。
そして、そんな僅かな不安でも、ちょっと呟こうかな、と思ったけど、やっぱやめた、と、「表現したい情熱」にブレーキをかけることができる。


……て思うと、フォロワーさんの数がある程度以上を超えたら、フォロワーさん一人一人を絶対に不快にさせないように対応するって、どう考えても不可能なんだ、って諦めるしかないんですよ(笑)。
そして、たとえ誰かを不快にさせてしまったとしても、その人の傷ついた心に心情的に共感するなら、その傷ついたという事実に対して謝罪するのは別にいいですけど、自分のしたこと(発表した作品やツイートそのもの)に対して謝罪する必要は全くない。
ワタシはこういう考えの持ち主です、考えが合わないなら、お互い距離をとりましょう、次からはブロックで対応お願いします、で終わりなんです。
それが、自分自身がミニ出版社である、ということの帰結です。


ところが。

多くの趣味の作家さんや、ただの雑談アカを運営する方々も、その「不可能なこと」をやらなければならない、と思い詰めて、SNS自体が嫌になっちゃったり、潰れちゃったりするんですよね。

つまり、もともとただの素人だった我々が、いきなり表現者になれてしまう現代では、表現者の方も、その心構えができていないんですね(笑)。
脳味噌が、まだそこまでアップデートできてないんです。

表現するということは、誰かを喜ばせると同時に、誰かの心をひっかくことでもあって、その危険を知りながら、それでも自分が美しいと思う世界を描いて、世間に提示すること、なわけです。
本来それは、芸術家や文筆家であれば、若い時分にその道で食っていく、と決めるまでに相当悩んで覚悟するような、大問題です。
いや、ウチはただの雑談アカですから! という方でも、言葉を使って何かを表現し、それを不特定多数の人間に見せる以上、かならずその業を背負うんですよ(笑)。
ただの遊びなのか、本気でそれでメシ食っていくのか、そこに覚悟の大きさの差はありますけど、本質的にはその部分に変わりはないんですよね。

でも、今は、そんな覚悟をすっ飛ばして、誰もが簡単に表現者になれてしまう。
だから、DMで凸されて凹むとか、誰かにあてこすりツイをされた、とか、あなたのツイのせいで傷ついた、とか言われた、というような出来事で、ものすごく傷ついちゃって、慌てて自分のツイや作品を取り下げる、とかいうことになっちゃうわけですね。
でも、それは、表現者としての自分自身を殺すことなんですよ。

勿論、誰かが傷ついた、ということに衝撃を受けて、ツイを消す、ということはあり得ます。
それは人の心情として、そういう心が働くのは当然だと思う。
だけどその一方で、そのツイを見たかったかもしれない他の誰かに、その言葉が届かなかった、という結果は、必ず代償として伴うんです。

自分が表現者である以上、その代償を忘れてはいけない、と私は思うんですね。
勿論、自分でも残す価値がない、と思ったら消せばいいですけど、そうではないのなら、簡単に圧力に屈するべきではない、と思います。
凸する人間がいるのは仕方がない、自分でコントロールできないことですけど、自分の作品や言葉を愛して守れるのは、自分だけですから。

だからこそ、「ワタシが見たくないので対応してください」という要望には、ご意見として伺って、自分が本当に心からその通りだと思うなら受け入れたらいいですけど、「その人や自分の知らない他の誰かを傷つけるから、という理由」だけならば、受け入れるべきではない、と私は思っています。
「見たくないなら、ブロックで対応してください、申し訳ないけれど、個別の方々に対するチューニングはできません」というのが、表現者としての自分を守る唯一の方法だと思います。

そこのところは、企業のとにかく顧客に媚びる手法を真似る必要はないし、要求する側も、企業アカはそうしてるんだから、個人のアカウントもそうすべきだ、という結論に飛びついてはいけないと思う。
それは、アカウントの役割が、企業と個人では、まったく違うから、ですね。

勿論、共同体の中で愛されたい、という欲求が先にあって、そのために表現してるんです、という方、表現が別の目的のための手段になっている方は、もう最初の動機が違うので、それはそれで、企業アカのようにフォロワーさんの要求を全部きいて自粛する、というのもアリだと思うんですが。


4)情報が溢れる時代のSNS上の人付き合いについて


まぁ、上に書いたようなことを私はそれこそ自分で同人誌を作り始めた1990年からずっと思っていたので、自分自身がついったで何を言われようが、それはしょうがないと最初から諦めてますし、リムもブロも気にしない(というか考えても仕方がないと思ってる)し、要望を送られても基本答えられない(ご意見としてはありがたく拝聴してるので、将来気が変わる可能性はゼロではない)んですが、どうも世の中はそうではないらしい(笑)。

どうしてなんだろう、というのが、実は常々不思議だったんですが、岡田さんの動画みて、ああそういうことだったのか! となんか納得しました(笑)。

つまり、真に情報化社会に人間の脳味噌が適応したといえる日は、ネット社会上におけるリムやブロック、ミュートが、相手個人に対する評価と全く別モノである、というのが、全ての人々にとって常識となった日、なんじゃないかと。
溢れる情報の中から、自分が見たいものだけを見るために、自分の意志で選択してフィルターをかます、ということが、毎日ご飯食べます、みたいに普通にできるようになって、しかも誰もそのことを咎めない、傷つかない、という日が来た時に、初めて人は本当に情報化社会に適応した、といえるんじゃないかと思うんですよ。

人間の生物としての進化は、情報社会の進化に比べて相当遅いですから、おそらく数十年程度では、人間の脳はそこに対応しきれないと思います。

でも、今現在すでにその状況で、それゆえに、SNSで傷つく人が、日々大量生産されてるわけですよね。
だったら、せめて、リム・ブロック・ミュート=人格の否定、ではないですよ、というところだけでも、SNSの常識にならんもんかなぁ……と、つらつら思うわけです(笑)。

フツーに、今は落ち込んでるから、暗いツイは見たくない、て思ったら片っ端からミュートかける、あるいはRTすらも流れてこないように一時的にブロックする、でも気分が上がってきたらもう見ても大丈夫だから解除する、みたいなことが、相手が気悪くするかも? とか心配しなくてもできるようになったら、SNSってもっと便利で楽しい道具になると思うんですよねぇ😅。

そしたら、相手を攻撃するようなツイも減っていくんじゃないかと。
勿論、自分の憂さ晴らしに誰彼かまわずに攻撃的なツイをする人は、何をやっても撲滅できないでしょうが、一般の人の攻撃ツイが減れば、そういう人の行動が相対的に目立つようになって、そうなればAIが簡単にフィルターアウトできるようになると思うんですよ。

勿論、現実問題としては、ブロックされてるのを見てしまったら、アレ、私は何かこの人に悪いことをしたかな? て瞬時に思ってしまう。
それは、勿論、私にもあるんです。
所詮、まだ旧人類の脳ですから(笑)。
でも、そういう思考が、SNSを非常に束縛の強いものにしていると思う。
だから、そういうふうに一瞬思っても、いやいや、そうじゃないでしょ、って、そのたびに自分の脳を教育してます(笑)。

たとえ本当に自分が何かをしてしまったのだとしても、相手が何も言わずに去る、という選択をした以上、それ以上考えても仕方がないんですよ。
相手にとって、自分が、そんなふうに切れてしまうことが辛い存在であったなら、きっとその選択の前にDMなりなんなりで、相談があったんでしょうから。

それがなかったのなら、自分が相手にとってそこまでの人間ではなかったか、あるいはブロックの理由が自分とは関係のない何かなのか、そのどっちかしかない。
どちらにしても、自分が努力してどうにかなる問題ではないので、悩むだけムダなんですよ(笑)。

それよりも、私なんぞは、今私の絵やツイ見たら凹むから本当は見たくないのに、ミュートやブロックは失礼だとそれもできず、TLで私のツイが目に入っちゃうたびに心を痛めている、という方が存在することの方が、ずっと大問題です。
大切なお友達に、そんな思いはさせたくないんですよ😅。
自分自身が、本当にそれが辛かった、という体験が、今はあるので。

だから、せめて自分だけでも、気分でリム・ミュート・ブロックしていただいて全然かまいません!!! て宣伝しとこう、と思いました(笑)。
勿論、そのうちに気分が上がったら、あらためてフォローしていただいても全然問題ありません(笑)。
そこで「コノ裏切り者が💢」とか絶対思わないんで!!😂

ちょうどよい機会なので、常々考えていたSNSとの付き合い方について、色々書いてみました(笑)

みなさんにとって、SNSってどんな感じなのかなぁ?(笑)

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