長い棒

0731
YouTubeのプレー集を観ながらラクロスを教わった。基本的なルールと、それにまつわるあるある、に留まって、戦術の話まではたどり着かず、もっと詳しくかつ幅広く話したそうな彼をみていて、時間をかけてきたのだなということを改めて思った。部活に入ると、否応なく相当な時間をかける。いつでもすこしキャパオーバーになりながら、学習が一定以上の速度で進んでいく。しかも、過負荷の持続ゆえに長いタームでみると質的に違う気づきや成長がしばしばやってくる。部活とはそういうものだったなとは思いつつ、「友だちに誘われて何も知らずに」入ったという彼のあっけらかんとした構えを見ていると、僕には耐えられないなと思う。僕の場合、いろんな事柄とのゆるいつながりを持たせた状態で取り組まないと、その特定の対象へのinterestを失っていくから。ゴールの後ろにもスペースがあって、そこでも攻防があるのが目に新しかった。目が慣れてくると、皆が持っている棒(?)が一様でないことに気がついた。やたら長い棒を持っている奴がいる!


短歌を作るためにココスへ行った。結論から言うと二人とも短歌は作れなかったし、それに、僕はココスが嫌いみたいだ。
ココスは表向きは高くないような顔をしつつ、店も食べ物も全体的に安っぽくて僕の側は油断するが、実に高い。高いものと安いものがそれぞれあるというタイプじゃなくて、一つ一つ、同じくらいのテンションでケチで、かつ、やり方がみっともない。ポテトしかり、パスタしかり、ハンバーグしかり、セットのライスしかり。すべてすこしずつ高くて、量がけっこう少ない。そうするとわかりやすい文句は出ない(のだろう)が、外食体験としてはとても貧しくてかなしい気持ちになる。これは、僕のお金が無いという話でも、単なる感想でもなく、本当にそれはないだろと思っている。このやり方はほんとうにありえないと思う。そうしていけば、いったんは貧しく感じるのは客である僕らだけかもしれないけれど、確実にみんなで貧しくなっていく。
僕らがどのみち直視せざるをえない貧しさというものを、まっすぐに見せてくれている、という言い方もできる。でもそれは、貧しさを全員が受け入れられなかった場合のかたちで、僕はそれだけは嫌だと思う。皆で受け入れてそのうえで何ができるかを考えたい。なぜなら、どのみちふつうの貧しさがやって来るのは避けようがないし、僕にはもっと守るべきだと思う豊かさがあって、最初から撤退戦に主眼を置いているからだ。軽やかに、たのしく、そして冷静かつ情熱的に撤退しよう。
しばらくココスにはいきたくない。
 
久しぶりに普通の恋バナをした。いつも、経験に基づいてはいれど、その経験については触れず、もっともピュアな理念的次元においてどうしても執着している点を探るという類の恋バナをしている。それを今回もやろうとしていたから、出会いのきっかけや仲良くなる過程から話し始めてくれたことに面食らってしまった。それに、僕が見えざる執着をまなざすという方向に移行していくのを、はっきりとキモいと言って立ち止まってくれたのはうれしかった。そうだ、ふつうはこういうことをしない、ということを、久しぶりに自覚した。僕の周りの人は優しいしセンスがいいし、僕を求めてくれているので、僕が僕の語り方をするのを受け入れすぎている。それはとてもうれしいし無くてはならないことになっているけれど、ふつうはそういう風にやらない、という自明な地平を確認するのも大切なことだ。
 
思ったより普通に悩んでいたし、僕と同じ境遇であるともいえることがわかったのもあって、彼の話はかなり意外だった。それにしても、僕自身の事情については一言も具体的なことを言わなかった。それをお互いにちっとも気にしていなかったのも、かなり心地よかった。
恋バナにはそれぞれのスタイルがある、恋にも。
僕が「それぞれ」を使うときは、それぞれを素直に味わう/体験するのは案外難しいということを言いたがっている。事象を(あるいはもっと近づいて言うなら事情を)、あくまで一回的に・個別的に捉えるにはそれなりに鍛練が必要で、だからまた、その都度能動的な捉え直しがないと「自分にとっての素直な受容」という幻想性が強まっていく。すなわち、認識の素直さ、実直さを達成するには、それを意識することは却って妨げになる、という面がある。ここでの対案は「誰にとってもそうである」と感じられるような言い方・やり方を意識し、それに妥当する自分になろうとすること。会話の中で、僕はその圧力を自分にも他者にも、あくまで演技的に振りかけようとする。そのなかでどうしようもなく普遍化することができない、曲げることができない自他の固有性がこぼれてくる瞬間を待っていて、その到来を僕は肯定的に「それぞれ」と呼んでいる。
 
「誰にとってもそうである」言い方なんて、できるのだろうか?そう問うことはいつでもできる。だって、あまりにも人は違うし、似ている物事もあまりにも少ない。ラクロスのことをこんなに近くに考えたことはなかったし、たとえば僕の中で同じ遠さにあったクリケットについて聞いてみると彼はまったく知らなかった。
それでも、誰にとってもそうである ような言語を使うことは言語の実践性の根底の半面(あるいは半面以上)で、そこを離れては僕の言語に対する執着はない。だからこの周りをを一生回る。僕は自分のそうした、ある種矛盾する執着についても、肯定的な確信を持てるに至っている。それが僕にとっての最終解決的なコツの一つかもしれない。それでいいのだ、と、あらゆる現実の側面とみずからの知識・体力を動員して叫ぶこと。この錯綜した物言いに気づいてほしい。「最終解決的なコツ」という言い方に。問題などいつでも山積していて、最終解決となる答えはない、ということの反語であると同時に、根底的には問題など何もなく、あるのは自分の姿勢だけであって、それが変化していくだけだ、という。
 
ココスを出たら、公園で壁打ちをして、さらに、学内に移動して壁打ちをした。
彼の壁打ち、集中が切れるとボールが思いもよらない方向に飛んでいくのをみていて、YouTubeのプレー集のそれは、なんとはなしに見せてもらっていたが、異常な技術力なのだなとぼんやり考えていた。
どこにでも技術とそのための鍛練があり、そのために捧げられる時間がある。

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