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文通可能性:右体19

 第二回が出ている。振り返りにも満たない何かを少し。

 まだ散文における小池を掴みきれていなくて、思ったより素直に飛んでくるなと意外に感じることが多い。それは逆に考えると、僕が捻ったように書くことの投射で、どうしてか僕はキャッチボールだとしても、僕らの向かいあう直線に沿った形で壁があって、それに当てることを、当て方によって何かが伝わるということを探している。婉曲であることでしか生じない直線がある。

 つまるところ、かっこつけて書いてしまうというだけなんだけど、その原因を探ってみるのはけっこう面白そうだなと思う。直接、読んで影響を受けてしまったのは批評という謎の文化だろうと思う。つねに何かに当てこすりながら、その華麗によって、対象に依存した文体であることを隠すという危機的な方法。飛び地をつねにつくりつづけて、その作り方によって何かを決定的に示唆しようとするような不安定な方法。なぜ僕は小林秀雄を頼りながらドストエフスキーを読もうなんて思ったのか。わからない、もっと面白いこともあったろうに、と思う。すでに諦めてしまった数学がどんどん進んでいく教室で、寝るか、本を読むかしていて、みんな(あわよくば)京大の経済学部に行こうとしているってことにもみじんも気づかなかった。

 大阪に帰ってきて、中学で対等に仲が良かった友だちと改めて会って喋っていると、こいつは、言葉を使っているな、と思った。色んなことに違和感を覚えながらやってきたのは同じだ。でも僕は言葉に惹かれるあまり、言葉がつくりだす迷路を大事にしすぎて、それに翻弄されることに気持ちよくなっている。そのうえ、悩むことと考えることの区別もつかないから、真面目な顔してどんどん馬鹿になってきたなと思う。

 考えるっていうとき、ことばで考えるか、身体で考えるかって二つがある。そしてことばで考えるとき、実質的に考えるか、形式的に考えるかという二つがある。前者は、身体との連関において、言葉を決めてしまう。どれほど貧しくとも頼りなくとも、言葉に込められたそれが機能するかぎり、その言葉が廃棄されることはない。これが言葉を使っているということだ。対して後者だと、言葉を決めるのは別の言葉だ。そこにある言葉同士がその都度意味を当てることによって、そして僕の場合は言葉を誰かに宛てることによって、言葉がはじめて立つ。

 この「考える」ってやつ三つがちゃんと連関しているって信じることって、一つの歴史宗教のなかにいるってこととけっこう重なるところが多いと思う。宗教的色彩を帯びていることと主張している内容が正しいことと、心地よいことが結びついているってことは、今はない、それらが無関連になるということが世俗化ってことで、僕はこれの意味が分かってない。

 その三項のバランスを取るってことを僕はすごく大事にしてきたんだけど、それってやればやるほど自分自身のバランスが崩れてくんだなって、最近やっと気づいてきた。だって、その三つは、関連していないし、なぜって、すべては破壊の相のもとに置かれていて、僕たちは自分がほころびない程度のスピードで動きつづけなければ、壊される対象に回されてしまうから。その二つの立場しかないから、壊す側にいつづけないと。

 スピード。理解しはじめてる。死ぬのは簡単でスピードを失わないことの方がむずかしいってこと、理解しはじめてる。それも、けっこう遅いけど。

 それでも文通はスピードじゃない。
 スピードじゃないところで、読解可能性、拡散可能性、不可解可能性、いろんな可能性を撒けるってことを考えている。言葉よりちゃんと地平を見ている友だちとも文通してみたいな、どうなるだろうな、そのときは。

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