見出し画像

11月のこと


1.鳥


 部屋があって、僕はそのなかにいる。ふとそのことに気づいて、僕は扉に手をかけて外に出る。しばらく僕は歩くだろう。空を見上げる。鳥が飛んでいる。飛ぶさまを見ているうちに、僕がすべてを忘れて部屋に閉じ込められていたということに、耐えがたい苦しみそのものとして、呼吸を繰り返すだけの鈍重な塊となっていたことに気づく。気づいて驚いた瞬間、僕は鳥になって空を飛んでいる。もう何も考えていない。

 ながいながい、身体と心の緊張と弛緩の繰り返しの感触を、部屋と鳥というイメージに託してしばらくのあいだぼんやりと考えていたのだが、どこかから拾ってきたもののような気がしてならなかった。そして思い当たった。

 村上龍『限りなく透明に近いブルー』だ。小学校から中学校にかけて繰り返し繰り返し読んでいたことを思った。高校に入って誰かに貸すために本棚から出したときにそのくたびれ具合に驚いた。

 パーティーの後でリリーの家を訪れたリュウは、リリーの話を聞いているうちに意識が混濁してくる。リリーの顔、身体、ネグリジェ、部屋の電球は、隆起と穴、肉、光る球として映りだし、球の中に「すごい速さで運動」する「塔」が見える。残像は砕けて斑点となり、斑点のある顔の男にまつわる記憶とのあいだを行き来しながらリリーの声をきくことになる。

 ある男の顔を思い出す、あの男の顔にも斑点があった。昔、田舎で叔母さんの家を借りていたアメリカ人の軍医の顔。リュウ、鳥肌たてて本当にどうしたの?何か言ってよ恐いわ。
 軍医は叔母さんの使いで家賃を取りに行く僕に、猿みたいに痩せて毛の濃い日本人の女の股をいつも見せてくれた。大丈夫だよ、リリー、大丈夫さ、何でもないんだ、ただちょっと落ちつかなくてさ、パーティーが終わるといつもこうなるんだ。
 (中略)
 痩せてた女の尻の間に軍医はいろんな物を突っ込んで僕に見せた。女はシーツに口紅を擦り付けて呻き僕をにらんでウイスキーを片手に笑い転げる軍医に向かって、ギミーシガーと大声をあげた。リリーは僕をソファに座らせる。リリー、本当に何もやってないんだ、あの時とは違うよ、ジェット機の時とは全然違うよ。*

 ここで出てくるのが鳥である。「黒い巨大な鳥」。乱交や違法薬物摂取や暴力の入り混じるパーティーに出入りし、自分よりも自己破壊的な言動を繰り返す仲間を介抱する生活を福生で送ってきたリュウは、長らく抱えてきた深い不全感の正体を突き止める。

リリー、俺帰ろうかな、帰りたいんだ。どこかわからないけど帰りたいよ。きっと迷子になったんだ。もっと涼しいところに帰りたいよ、俺は昔そこにいたんだ、そこに帰りたいよ。リリーも知ってるだろ?いい匂いのする大きな木の下みたいな場所さ。ここは一体どこだい?ここはどこだい?
 喉の奥が焼けるように乾いている。リリーは首を振って残ったブランデーを自分も飲み、もうだめだわ、と呟く。僕はグリーンアイズのことを思い出した。君は黒い鳥を見たかい?君は黒い鳥を見れるよ、グリーンアイズはそう言った。この部屋の外で、あの窓の向こうで、黒い巨大な鳥が飛んでいるのかも知れない。黒い夜そのもののような巨大な鳥、いつも見る灰色でパン屑を啄む鳥と同じように空を舞っている黒い鳥、ただあまり巨大なため、嘴にあいた穴が洞窟のように窓の向こう側で見えるだけで、その全体を見ることはできないのだろう。
 (中略)
 リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町には人なんか住んでいないよ、あれは鳥さ、わからないのか?本当にわからないのか?砂漠でミサイルに爆発しろって叫んだ男は、鳥を殺そうとしたんだ。鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ。
 僕は床を転げ回る。リリーは走って外へ出た。車の音がする。
 電球がぐるぐる回っている。鳥が飛んでいる。窓の外を飛んでいる。リリーはどこにもいない、巨大な黒い鳥がこちらへ飛んで来る。僕は絨毯の上にあったグラスの破片を拾い上げた。握りしめ、震えている腕に突き刺した。**

 〈鳥は俺から見ることを奪っていて、やがて生きることをも奪う〉。だから殺そうとするのだが、結果、俺がしたことは自分の腕にグラスの破片を突き刺すことだった。このあとも俺は生きて「限りなく透明に近いブルー」を発見する。すなわち、ある極限において「見る」が取り戻されるのだが、見ること、そして行為することの危機はずっと変わらずにある。

 別に、鳥は俺を殺しはしないのではないだろうか。見ること-行為することを奪われつづけて、俺がその永遠たる危機に耐えられずに狂っていくだけで、死はゆっくりだめになっていくことに恐怖する俺が作りだした最終解決であるように思える。終わってしまえるのであれば騒ぐことはない。もう帰ることができない「涼しいところ・いい匂いのする大きな木の下みたいな場所」と同じところに死はある。この手がそれを掠めることはない。

 奪われることはつねにこうした悲惨さのうちにあるだろう。強奪と抑圧の外部は存在しない。それらが閾値を超えたときには地獄ごと自分ごと消える。

 要するに、これは定立的な現実の喪失ということであって、都市生活者=夢遊病者のろれつの回らない告白なのだが、僕は、これを単に“文学的主題としての喪失感”として片づけることがどうしてもできなかった。どうにかしてこれを別の場所で、別の言葉で変奏しつづけることを自分に課してきたようなところがある。

 ここでやっと、4月からずっと書いてきたことを、常識的な言葉でまとめてみたいと思う。

 現実とは何だろうか。現実とは、どこから、どの範囲を、どんなフレームで見るかという三点によって規定される。そして、この三角形が持続的に同一であることは、上で確認した、「見ること-行為すること」の必要条件である。逆に言えば、現実の喪失は、もろもろの社会的条件の変動によって、視点・視野・視座の三項を安定させることがほとんど不可能になったことによる。これが目まぐるしく変化するとき、記述的な事実として彼は生きていて「行動」していようとも、彼にはそう観念されないし、他者にまともな影響を与えるような社会的行為の主体としてカウントできない存在に成り果ててしまう。

 これは、アノミーanomieという概念について、その症状が社会学的・心理学的に地続きである点を強調して一般的説明を加えたにすぎないのだが、8か月書いてきたこのノートは、「ほかならぬアノミーに陥っている自分の目に映し出されるところの社会のアノミー」という図式を反復してきたのだろうと思う。すなわち、実存的な力学によって、社会を語ろう=明らかにしようとして、それに失敗しつづけるという断食芸。

 〈神〉についてしつこく書いてきたのは、〈ここが世俗国家ではないこともありえた〉という可能性からのことだと思う。僕がここにいる、ということは〈どうとでもありうる〉のだろうか。それでいいのだろうか、という解けない問い。僕らの生きている社会/国家は、それは〈どうとでもありうる〉し、そうあるべきだと考える。どんな現実を生きるかということは、内的にも外的にも選択可能であって、僕を選んでいるのは僕なのだ。僕は選ばれてここにいる、この僕によって。それが市民というアイデアだし、人格というアイデアの今日的活用だ。幸福になろうが不幸になろうが、生き延びようが自殺しようが、それが個人によって選ばれているという形式が何よりも尊重されるのだ。たとえばこんな断食芸的なノートを書くことも僕の自由だ。

 しかしそれでも、僕は僕が何かによって選ばれてここにいるべきだと思っていたし、現にそうであるように思えてならなかった。そこに神がいると思った。

 自分が何をするべきか・何をしたいのか・何をしているのか、わからないというのは、一体何ということなのだろう、という反発が根底にある。そんなのはどう考えてもおかしい。そしてこの不全感と途方に暮れるような気持ちとその因果を、アノミーなんていう言葉で簡単に概念化できてしまうということも、おかしなことだ。

 いろんなことにいまいちピンと来ないとして、死や神というものは確かなものであって、それに縋りつくほかないというのはかなしいことだ。〈神は死んだ〉。今となっては、神だけが死ぬことができる(できた)というのに。

*村上龍『限りなく透明に近いブルー』(『群像』1976年6月、P78)
**同上P79、80

2.虐殺


  テレビアニメ進撃の巨人が完結した。11月4日のことだ。

 僕が進撃の巨人を特権的にみなす理由はいくつかあるが、その一つは、歴史に選ばれた者と選ばれなかった者とが峻別されている点にある。104期生の生き残りたちは、凡百のアニメにおける〈土・水・風・火〉的なキャラ配置の駒ではない。もっとも分かりやすく繰り返されているのは、「主要キャラ」に心内語を喋らせてつぎの展開の種を蒔いているときに、名も与えられていない兵士が数秒ごとに後ろで無垢の巨人に喰われている、という図だ。

 生き残っていく者たちは、みずからの体験がわかちがたく歴史に結びつけられていて、否応なく死闘に参加させられている。巨人の強奪によって永遠に失われた「われわれ」の生活形式をルーツに持つサシャとコニーや、世界秩序を成り立たせるエルディア人差別をそれぞれ屈折的に引き受けるライナー、ベルトルト、アニ。加えて、権力と真実との関係に呪われたエルヴィン、入れ替わっていく仲間に心を痛めつつエルヴィンに軍人的に身を委ね自らの覚悟を貫徹するリヴァイ、そして知と行為に希望を溢れさせることを諦めないハンジ、「骨の燃えかす」に呼びかけられることによって倫理に覚醒したジャンらは、近代的個人として確たる位置を与えられているだろう。「〈すべてを終わらせる〉のは〈俺とお前〉だ」という強い結びつきを持つエレン、ミカサ、アルミンらは言うまでもない。彼らが前景を占め生き残り、それ以外の者たちは名や記憶を与えられることすらなく後ろで踏み潰されていく。

 「巨人vs人類」のフェーズにおけるこの前景-後景の図式は、後半には、怪物と化したエレンの初期衝動とその後の諦念を知っている/知らないがゆえの、この壁内人類=自覚なき抑圧者たちに特別の価値は無い/この壁内人類=真の人類を守り抜くという動機の違いとなって、そして虐殺の位置づけの違いとなって浮上してくる。選ばれてこなかった人々は、レイシズムに簡単に煽られてエレンの虐殺を正義の行いとして短絡する。

 ここに至って、「歴史を引き受けて問うことができるかどうか」は、「エレンと友だちであるかどうか(ピーク)」という段階に入る。「〈すべて=歴史を終わらせる〉のが俺とお前」ではないとき、われわれは虐殺を即座に非難するだろうが、そのとき、虐殺/歴史を真剣に考えることもまたできないのだ。虐殺を本気で考えたことがない者にはそれを倫理に問うことができない。それは単純に言って一般の倫理を超えている。

 当たり前のことだが、われわれはエレンと友だちではないし、エレンの友だちの友だちでもない。その意味でピークの問題意識すら理解することはできない。確かに僕らは虐殺の超倫理性をいま考えた。エレンとアルミンの根底的な歴史への問いかけを目撃することによって。しかし、われわれはそれを、諌山創を通して、MAPPAを通して、U-NEXTを通して知るのみであって、これは、新聞を通して、ラジオを通してヒトラーの演説に心酔したドイツ国民と何も違わない。それどころか、ヒトラーを歴史教科書を通してしか知らず、そして非難するための貧しいボキャブラリーをしか持たないわれわれは、虐殺を目前に考えたことがないだろうし、現実の出来事として感じることすらできないはずだ。どうやら、そのとき歴史は終わったみたいだな、と思うだけで。

 人類の過半数が滅びたあとの世界の、パラディー島に新しく生まれて育った子どもは、虐殺をめぐって逡巡することは無いだろう。そしてエレン・イェーガーを、今日遊んだ友だちと同じような存在として感じることもないだろう。歴史が終わってしまって、歴史に完全に見放されてしまった子どもは、たんに自分が、何をするべきか、何をしたいのか、何をしているのかを知ることができない。したがって過去の虐殺を蔑むことも怒ることもできないのだ、実質的には。しかしその子どものことは描かれていない。虐殺に、そして歴史の終わりに涙を流すことができるリヴァイがその後も生きていくことが描かれるだけである。


3.散失


 市川春子『宝石の国』を少し読んだのだが、これが地ならしの終わった後に生まれた子どもたちの話だろう。ふたたび、『限りなく透明に近いブル―』のラインに戻って、この話をしたいと思う。

 人間なきあと、地球の地上にいるのは、身体が鉱石からなる不死の「鉱石生命体」。部分が失われても集めればまた再生する身体で、インクルージョンと言われる特殊な微小生物と光によって活動し、代謝を行わない。
 生命でもなく、動物でもなく、人間でもない。性別もない。長い者で3000年生きている彼らは一様に女性的、中性的な見た目で、少年少女のように振る舞う。自分達を装飾品にしようとたくらむ「月人」が周期的に襲来し、それに備えての日々がある。歴史もなく政治もない無時間のなかで、「学校」があり「先生」がいて、役割と仕事がある。そして皆一様に役割との距離感に苦しんで鬱々としている。

 奥行きのない現実から脱落しまいとしがみついているのは上に見た『限りなく透明に近いブルー』と同じなのだが、彼らは自分を傷つけることができない。危険を顧みないことはあっても自傷を知らない。このことが幾人かの自罰感情を悪化させている要因のようでもある。

 肉体を持つ人間にとって自傷は老いと病を近づけ死を近づけるが、宝石たちにとっては、身体は傷つけてもその場に破片が落ちるだけであって、それがたとえば海に流されたとしたら永遠に戻らない。自分ごと世界ごと消えてしまうというような全体的な喪失ではなく、死なき彼らにとって喪失は強奪か散失のいずれかしかない。作品内では少し砕けたくらいではすぐ元通りにしているけれど、粉々になることもあるわけでそれはそのいくらかを完全に失うことと同じだろう。気づいたときには散っていてそれをかき集める。また散る。かき集める。少しずつその全体が減っていくだけであって、あるいは。

 そこに疲労はない。息切れはない。血が流れた一つの肉ではないからだ。

 史学はなく博物学があるのみであるというのは、かれらの身体の数百年後と同じように、知識と言うものじたいがほとんど全体的喪失と言っていいほどに散失した結果なのだろうと思う。喪失のスピードを相手にせずに、今ある日々のスピードで拾い集めていくことは、その仕事が総体として有効であるとか無力であるというよりも、じぶんたちの手つきをじぶんたち自身で見つめつづけることをやめないことに力点があるような気がする。その意味で、作品内における博物館にはわれわれが知るような静かで確固たる意志が感じられない。

 僕が「10月のこと」で「等身大という体制をやめる」ことを考えていたのはまさにそのことであって、要は、やっと、技術や暴力といった過剰な力と全体を覆えないという知の絶望的な無力とを擦り合わせることをもって倫理とか正気とか呼ぶのが、体制への依存でありその現実に中毒しているだけだとわかってきたというか。自殺や死は時間の問題ではない。それらは状態であって空間における出来事だ。たいしてこれを時間的に考えるにあたってはむしろ、依存や中毒、そしてその体制に目を向ける必要がある。それは状態でも問題でもなく、継続するなにものかだ。

 散失しつづける身体=記憶を諦めることも完璧な回復=再生を望むこともせずに現実的に可能なペースで収集すること。それは○○史にも○○入門にも帰されることなく、ぜんたいとして論のかたちを取っていなくてもいい。ただノートとして続きさえすればいいのだ。

 目を向ける時間の相、変化の相が確実に変わっていくのを感じる。



4.イメージ


 anomieアノミーという言葉で、そして見る-行うという言葉で書いたことをべつように繰り返すとすると、知行合一という言葉があるだろう。

 明の王陽明という儒教学者がじぶんであたらしく「陽明学」を作ったときの主要なキーワードになるもので、「知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることで、知っている以上は必ず行いにあらわれる」という知識と行為との関係を説いたものだ。

 これと似たような論法と主張のものに、ギリシャのソクラテスの知徳合一というのもある。「よいことを知っているならばかならずそれを行うはずだ」という徳(よき生き方=行為)と行為との関係。

 この徳ー知識ー行為という連結が成り立つとき、そりゃそのとおりだとなって、徳の説き方知識の伝え方が問題になって来るのだろうが、この組み分けが今はできないしこれからそれができるようになるはずもない、と言う話だ。

 知識と行為との二分が成り立つのは、ざっくり言ってしまえば知識に合意があるときで、それは歴史が存在して存続していることだ。皆がコーランを、四書五経を、新旧聖書を深く読み込んでいて、そのほかの人と情報の流動性が低いとき、「言わんとすることが言われ、聞かれる」という事態もまあ想定できる。

 その支えが無いとき、知識と行為はどうとでも分解され拡散される。知識、体験、感覚、イメージ、快楽、依存、メディアアート、行為、というように。どれがどちらから出たものであるかということも問えなくなる。加えて重要なのは、このとき全体性を担うのは知識でも行為でもなくイメージだということなのだ。

 これはむしろ、言わんとすることが言えるようになった事態とも取れなくはないのだが、そうではなく、問題化できることがらが増えただけであって、「言う=行為する」が不透明になったという意味で上の通りなのだ。


だからなに?



・・・「だからなに?」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?