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文字の生:右体13

数日、数日?眠ってばかりいた。身体が牢獄みたいに固くなって動けなくなっていたから、みんなにはもう言わなくなったような暗いことをたくさん自分に喋っていた。心の中で止まらなかった。そしたら、今ひとりでいてもちょっとだけ楽しいんだけど、それはこの数日が毒抜きになったのか、毒づくしでかえって元気になってきたのかわからない。ぼんやりしている。

牢獄って、何のことだろう。

いつだって、何をするのもあんまりたのしくなくて苦しいくらいなんだけど、それって変だなーって思って無理に楽しもうとしてるのがこの数年なのかな。変だけど、人が変じゃないのって変だから、そのままでいいのに。でも自分のこと人だって思ってないところがあって、なんか家族とか教室とか教会みたいなちょっと大きめの場所だと思ってる、自分のこと。いつからかな?

で、たくさん牢獄をつくって出入りしたり飛び移ったりしたらたのしい(いいかんじの種類の苦しさ?)んじゃないかと思って、牢獄を作ってる。でもあんまり、うまくいってない。僕ってすごく、自分が馬鹿だなって気づくのが遅い気がする。

とにかく、自分に興味がありすぎる。でもその自分って自分のことじゃない。本当はそのことにちゃんと気づいてるけど、誰かが言ってくれるやり方をしようと思ったらその別の自分になってしまう。それが、僕がいちばん馬鹿な理由。

親友と遊んでいるときに、車に乗ってふたりとも黙っていて、そしたら、ぬるっと彼がしゃべり始めたのさ。

こうやって黙ってるのってぜんぜんたのしいのに、初対面だったりさ、ふつうのひとと一緒だったらそういうわけにはいかんじゃない、世間話っていうのか、そういうのが必要になってくるじゃない?それができなくて、わかんなくなる
(ぼく)おれもむり。しゃべらなくてもいいのにね。黙っててもおるってだけでめっちゃしゃべってるのに。しゃべらずにしゃべってて、それできもちがいいなって、そういうのやってるのに

僕って小さいときからぼーっとしていて、ひとりでふにゃふにゃしてたって母がときどき話してくれる。ほっといても座ってて、目が合うとニカって笑うだけ、って。これはすごい小さいときの話だけど。でもずっとこうやってやってきたのが長いんじゃないかなと思う。幼稚園ではじめて仲良くなった友だちもぼーっとしてる子で、ふたりで放課後にどっちかの家で預かってもらって遊んでた。興奮みたいなんがなくて、ゆるやかだった時間。今でも年に一回川で遊ぶ。川の水の冷たさ、あのもうちょっと行ったところにでかい岩があるよいつも、とかそういうことしかほとんど話さない。

成人式、隣の席で話をきけたのがうれしかった。小学校も中学校も違うかったからそうなってから俺がどんなこと喋ったり、やってるかを知らないから、なんか、いい再会、って感じが他の友だちよりもした。おる?ってきいて、うんって言ってこのへんって送ってすぐにぱっとあらわれた。あの二階席に座りに行ってるやつおるやん、あれおれの知り合いかなーって、あそこから先に外出ていっとんで、ってそんな話じゃないみたいな話。してた。花くれた。

今遊んでて最高やなって思ったり言っちゃったりするのって、その二人のあいだの出来事じゃなくて、ふたりからは遠く、そして普段一人としてやらなきゃいけないことに近いもの、つまり制度とかシステムとか、そういうののせいで興奮がやってくるだけのような。上に書いた牢獄。非常に限られた範囲の牢獄があってこそのうれしさとかかなしさ。

最高だなって思うのもいいんだけど、僕がずっと遊んでてうれしいなってほんまに思うのって、水の話したり、そもそも喋らなかったりでそこにいたりすることだ。

饒舌な僕を知っているひとが多い。たくさん。教室で一緒だったひとも、いま仲良くしてくれてるひとも、そういう人が多いかな。
上に書いた興奮と、それがやって来たり去って行ったりして饒舌になるというのに疲れる。あんまり、僕にそういう期待をかけすぎないでほしいなって思う時もある。僕ができる最高のこと、ってそれだろうから、みんなもそれを期待してくれてるのはわかる。でもときどき苦しい。ぜんぶ拒絶したくなる。最高ってなんだよ、って本当はどこかで思ってるんだろうな。

やったほうがいいことをやっていくのとか、面白いことたくさんやっていくのとか、そういうのも、本気でやるのをやめたい。本気の本気でやることは、少なく置いておきたい。わかるかな?こういう感じ。
あと、苦しいねって話、僕に持ち掛けてくれたらできるし、したい。でもそれもいちばんしたいことじゃないし、本気でやりたいことじゃない。僕は・あなたが・好きだ。一緒にいたい。それしかない。誰かを上げたり下げたりっていう技巧からは、遠くにいたい。これも、大事だなって思う。

でもいちばんそういう期待を僕にかけてるのって、僕自身だ。

僕がいつも情けない顔してるのや、前のめりに見えるのって、そのせい。僕が見てて、僕がしゃべったり動いたりしてる。教会があったとして(僕が教会だったとして)、それとは別の教会があってそこには僕しかいない。何人かの僕。その二つの教会が綱引きしてて、綱引きそのものが僕になってくる。いくつかの僕の層。

いつからその僕がいるのかな?とにかく、ぼーっとするのより綱引きやシーソーがすきなひとだ。書いたり読んだりってことの、いちばん根本の凝り固まりみたいなのもこの綱引きが原因なんだと思う。

書くように生きたり、書くように喋ったり、書くように書いたり。
書くっていちばん綱引きだと思うんだけど、書くってことをいつからか重く見すぎているせいで、綱引きのことしか考えられなくなっちゃった。そうやって冗談とか嘘とか、読む本とか書くこととか、増えていった。

どういうこと?って思ってるひとばっかだと思うからもうちょいゆっくり行くね、
うららのnoteって、プロフィールに
うららが思ったことを文字にします、って書いてるんだよね

それが僕の綱引きって話と真逆なんだって思ってくれたらいいかな。書くってことって、変だ。しゃべったことを文字にするとか、起きたことやったことを文字にするってことはあっても、書くために書くって、そもそも変だと思うんだよね。だけど書くってことになんか悪魔くらい強い力を感じてる。それが僕。書くのと文字にするのってまったく違うことなんだ。

書くのって、他のこととは違って、間に合うかどうかって問題がある。
しゃべったり、何かをしたりってことは、その場にいる僕とほかのひとのあいだで、ラグがなくて、そのまま伝わる。出てきたものがそのまま伝わる。でも、書くのって、書いてから伝わるまでに時間があって、そのあいだに何をするかって、それがちゃんと届くものか、届いたとしてどうなるかってことを考えて書き直したり、そもそも書き始める前にほんとうに書くことはこれでいいのかなって考えたりするんだよね、

そう、伝わるまえ、書いたあと、にそういう時間があって、それで、間に合う。それで、ここまで話すと分かるかもっておもうんだけど、書き直しって、間に合わない。書き直しても書き直しても、良くなったりはするんだけど、別に伝わりが決定的に変わるかって言われると、劇的には変わらない。

で、何が言いたいかっていうと、
書くって行為にだけ間に合うかどうかっていう問題があって、そして、
ぜったいにそれって間に合わないんじゃないかって話。
書く人は永遠にその書いてから伝わるまでのあいだの時間、溝に挟まって出てこれないんじゃないかなって、思ってる。

それで、僕、本当は僕じゃないんだけど、僕が興味をすごく持ってしまう僕って、その溝に入っていて、出てこれなくていつもそこにいる。
それが基本的には、noteで書いてる僕。なのだろうって思う。

これって聖書の信仰と、それ以外の信仰との対と似ている気がしてて。

聖書やクルアーンを横に置いておくと、だいたい、宗教で参照される文書って、いろんな神がいろんなことをして、どうなりました、こうなりましたっていう物語だろうと思う。そういうのを神話って言うっけ。それが伝承で伝わって、いつしか「文字にしました」って、なる。そうなると幾分、「聖書」っぽくなる。

文字にしちゃうとそこになにかあたらしいことが始まるんだけど、それ以前って、神話だけがあるんじゃなくて、神話と、儀礼が一緒になってる。
一緒になってて、神話は読まれるものじゃなくて、歌ったり語ったりして、生きられるものだろう、と思う。それが文字にされることはあるにしても。

だから、そういうふうに、溝みたいなものとは別の行いだよねっていうのが神話で、神話を文字に起こすということで、そして、うららがたまに書いてくれるのもそういうものだと思う。書く、っていう言葉を使うなら、うららは、喋るように書いてくれる。それが、いいなって思う。

授業で出てきたんだけど、聖書を「文字の神話」って言い方をする文章があった。つまり、生きられている神話から見たときに、「聖書とわたしのみ」って感じの信仰をどう言えるかって言うと、こうなるってこと。

ずっとその書くときの溝が僕が行う時も見えていて、それが苦しいなって思ってる。書くのも、こうやって喋るように書いてみても、いいのに。だけど、書くのが好きだっていうのはあるから、やっていくと思うけど。ね。

そう思ったらこうやって書いてる。
ちゃんと現実に帰ってこれたから、ね。

これからどうやっていこかなーー。

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