見出し画像

4月のこと

友だちへ ふたりでコメダ珈琲行こう
誘ってくれたらおごる コーヒーだけね

今年は一か月を振り返るためのnote記事を書いている。自分が一覧できるようにはしておきたいが、人に見せる気はない、から、550円とか600円とかの有料記事にして鍵を掛けたつもりでいたんだけれど、買ってくれたひとがいたのでかなり驚いてびびっている。彼には次会ったときにコーヒーをご馳走させていただこうとおもう。コメダ珈琲つくば店のウインナーコーヒーが550円で、クリームコーヒーが600円だったはず。

たまにはほんきでしゃべるぞー


チャンスは少ない。気の合う人は一定割合しかいないし、歳の離れた人とは会うことや親しくなることが限られている。死は迫っている。違うな、と思っている人ととりあえず仲良くしておくのも、かえってグロテスクだな、と思い始めている。

Tシャツを作りたい。軽くてかっこよくてかわいいものを散りばめて生きたい。それだけでいい。Life is Maya.この言葉何も意味してない気がするからプリントしたいな

すき→親友・くるり・でかい本棚

人が死ぬと、いつでもすべて取り返しがつかないことを思い出す。あなたとも、いつかもう二度と会えなくなるときが来る。それは今かもしれない。明日かもしれない。そのことを覚えていると平気では生きていけないから、寿命というフィクションでとりあえず覆っておく。当たり前だけど寿命なんてない。死ぬな。倒れるな。そのときに悲しむふりをしてももう遅い。

盛清六が二か月休業している。最後に行ったとき何も言われなかったのに。急用だったのかな。腹が減って、疲れてて、盛清六のラーメンが食いたい、そんな夜がすごい増えた気がする。2か月後、ほんとうに帰ってきてくれるのかな。真っ先に食べに行く、必ず。

twitter、親友の名前掲げてるだけになってることを認めようと思う

***

4月10日
夜の大学脇の道路を、自転車で走ってゆく。左手には火のついた煙草が挟まれて、右手でハンドルを切っている。車道から歩道への段差を乗り上げる。すこし遠くでコンビニが淡く光っている。誰かが来るような気配がずっとしているけれど、誰も来ない。まだ誰も来ない。煙草を吸う。薄闇に光る火種。やっと誰かが来た。自転車だった。

細部のはっきりした夢だった。朝の6時頃だった。もう一度目を閉じる。

目覚めると14時だった。
18時近くになってイーアスまで自転車で出かけた。映画を観に行くのだ。分厚い履修要覧を入れているのでかなりリュックが重い。

ユニクロでアンディ・ウォーホルのTシャツをみる。今回のコラボはレディースしかないようだった。シルエットがダボっとしている。XLを試着してみると、すこし小さめだ。パンツにインして着れば映えると思った。1500円。アンディ・ウォーホルにはなんの迷いもなくお金を使う事が出来る。進撃の巨人のTシャツが売ってたけれどダサすぎて笑ってしまった。まあ、かっこいいはずはないけれど

先輩はウォーホルが大嫌いで、僕は大好きだ、ということをとても気に入っている。というか、日に日に味わいが深くなってきて、噛みしめている。ずっと好きでいよう。

サンマルクで映画が始まるまでの一時間弱を過ごす。最近、アイスコーヒーが無性においしい。まずくて、おいしい。このまずさが欲しい時が、最近よくある。昨日買ったレモンののど飴を舐めながら、コーヒーを口に含める。飴のもたらす清涼感を、コーヒーの苦みでかき乱す。食べ物や飲み物は香りを僕の鼻腔に押し付けてくる。触感や味はすぐに僕の意志でなかったことにできるけれど、香りは好き勝手に暴れてくる。どんな香りにも満足なんてないらしい。そのためにタバコを吸ったり、飴を舐めたり、コーヒーを飲んで、ないまぜにして、できるだけうんざりしないようにする。いつもうんざりしていることを、アイスコーヒーはわりとわかってくれているような立ち回りをする。そんな気がする。

映画。「Everything Everywhere All At Once」。SFもの。いろんな「あの時」の「もし」で宇宙は分岐していて、つまらないあれこれや、「これ」よりはちょっとマシな可能性があるんだけど、どのみちおそろしく悲惨でクソ愚かな現実を生きている。そこを行き来できるシステムというかトリガーが、現実を打ち破るような「へんてこ」をやることで開ける、という設定。このクソどうでもいい現実を決定づけている、ある任意のあるあるは、もう一つのクソどうでもいい現実のあるあると奇妙に結び付いて固着している。それは人の脳内の、どこまでも悲惨な失望と貧しい理想との結びつきであって、失望を感じるたびに別のデタラメがさしあたり称揚される、という心の働き。
理想なんかより、自分を根本で困惑させるような不可解の方がまっとうに映るということがある。ゆえにその不可解は超次元の合理性に基づいているのではないか…というありふれた感受性があって、それが多元的宇宙というモチーフを引き寄せる。多元的宇宙、そしてその完璧な統一と完璧な崩壊…。そんな夢は現実を左右しない。それなのに逃げるためにそのモチーフが機能し始める。そんなifなど存在しえないのに。

別の現実を生きる/最初からこの人生をやり直す、というSFのモチーフは僕らの悲惨さを映し出す。だから笑える。面白い。だけど、それだけだ。「こっちが現実だ」という回答は必ず間違いだ。僕らは人生をやり直すことも別の可能性を生きることもできない。そして実際に死ぬ。死んだら終わり。だからSFは間違えている。

SFみたいな未来が来た。妄想みたいな現実があるだけ。そんな今日において、SFは可能だろうか。この問いへの答えは「不可能である」しかない。だが、この問いを抱き、なおかつ答えるとすれば、どんな口調で言うのがいちばんマシだろうか?
こういう、「SF自身の完璧な自殺」という構えしか今日においては倫理的であり得ない。そしてこの映画はそれに成功している。徹底した切断の意識と映像技術によって。


大阪に帰ったら、万博公園と、葉ね文庫に行こうと思う。行くことだけ、約束した。映画も観に行きたい。

***

関西の後輩ができたら葉ね行くのに


ときおり理解がありすぎる嫌いのあった中学の先生が、僕の通知表の備考欄に「ユーモアのセンスがある」と書いてくれた。すべては、すべての愛憎は、そこから加速したように思う。そのころはちゃんと気づいていなかったけど、誰よりもちゃんとしたいと思うと同時に、同じくらいぜんぶ壊したい、吐き捨てたいと思っていたから、先生の言葉は、危ないくらいうれしくて、そして嫌だった。

分かりはじめてる奴はこんなこと言わない


いちばんどうでもよくなくて、笑えない話が、いちばん笑えたりする。たとえば人が死んだり人が生まれたりして。たとえばもう二度と会えなくなるときの別れの挨拶とか。すべては矢のように過ぎ去っていく。本当に笑える。笑い飛ばす必要がありすぎて。
笑うに値するかけがえのない日々だ。

日記がいちばん抱きしめやすい


真夜中にコーヒーをがぶ飲みしたいが、真夜中に喫茶店は開いていない。


バイト終わりに、友達とラストオーダーでハンバーグを食べた。バイトの友達。俺が行儀の悪いのを指摘してくれて、なんだかおもしろかった。最近本読むんだよね、と言って、バイト先の本屋で買ったライトノベルを持っていて、本を読むと本当に人生が豊かになるよ、ってしみじみ言ってたのが、すごくよかった。僕が、本を読むと頭悪くなるよ、と言ってもまったく取り合おうとしなかったのも、よかった。帰り道、僕がダイヤモンド★ユカイの「キミはともだち」を流して歌ったのを、歌い終わるまでうるさいと言い続けてたのも、すごくよかった。

親友が、くるりをじぶんで見つけたらしくて、いっしょに「東京」を部屋で聴いて、あらためてくるりが好きだなと思った。中学生のとき、なぜか学校まで母が送ってくれた日があって、車の中で「琥珀色の街、上海蟹の朝」をかけて、口ずさんだのをやたらと覚えている。

セカンドかサードでLOVEというアルバムを出すためだけに、バンドをやりたい。ソロでもいいけど、バンド編成で。雑すぎる〈疎外された若者像〉のラブソング書きたい。恥ずかしいっていう悪徳がほんとうに死に絶えつつある。ほんとうによいことだ

マクドナルドをテイクアウトして、紙袋をぐちゃっと持って友達の家に行きたい。そう軽く思えるときが今月よくあったけれど、その軽さにしてはマクドナルドは家から遠くて、挫けてしまう。紙袋と油のまじった何とも言えない匂いのことを想ってみてから諦める。

これはバーガーキング



僕がシフト希望の備考欄に思わずアソビと書いたとき、僕の頭の中には さあさあ、早く帰ろうぜ、タクシー代くらい出すからさ が流れていたけど、マネージャーに出してイジられたときにはもう流れていなかった

かなしくてほんとうにどうしようもなくて、進撃の巨人を観て涙することしかできない時間が、月に10時間くらいあったんだけど、今月はない。一年くらいほんとうに進撃の巨人を観まくった。この記憶を抱いて生きてくだろう。もう二度と会うことはないだろうな、最後に、漫画全刊買おうかな

ぜんぶ秘密にした方がいいこともないし、秘密がない方がいいこともないな。いずれにせよ、思い違いが過ぎるとおもう。どうせ死ぬだろうし、どうせ死んでもかまわないし、さ
ろくでもなくて軽い生なのに、神に救いを求めるなんておかしいなー、というか、そんなことより不敬すぎるし。それを他の言葉で言いたいときがあるけど、言いたい人には伝わる言葉がない

もう伸びない

人の一見した変さはそいつの所属するサークルの変さである、ということの発見に今の絶望と希望がある。みんな誰も地球人でもなければ日本人でもなく人間でもなく宇宙人でもなく,そして誰かの恋人ですらなく、サークルの人らしい。僕も、あと一年くらいで宇宙人を辞められると思う。辞める、というかもっとやわらかく生きる、ということだけど

スーパーとかの〈マスクの着用をお願いします〉のアナウンスが消えたことがほんとうにうれしい。以前にはかなりストレスを感じていたことに、今気づいている
最初から自己判断であったはずなのに今になってはじめてそのフレーズが出てくることにすごく唖然としてしまうけど、この3年の苦しさに比べたらなんでもない

言い当てすぎるのも却ってよくない、ということも、最近はなんとなくわかるよ


宿舎の傍の自販機からグレープフルーツジュースが消えた。小学生のとき、セブンイレブンからグレープフルーツジュースが消えてかなしかったな。すぐに戻ってくるよって母が慰めてくれたけどぜんぜん戻ってこなかった。

本気で、正面から、語るのは訃報があったときか誕生日だけにすべきなんだろうね
とりあえずそうすることにするから、僕が二十歳になる前に死んだら笑ってね

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?