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「きょうだいの偉人」:右体25

桜、頼むから煽らないで 白くてこわいよ

マルボロをふかせる君に肺といふ逆さの桜いま咲きほこる
/藪内亮輔「心は川」

マルボロと繋がることによってはじめて起動するかのような、病気の桜。低く垂れさがったその木のそばにいて、僕はどんな息をすればいい。

見えますか桜が二重三重にやがて極度の抽象画来る
/福田六個「蚊と肺の章」『つくば集第三号』

今読むと、すこしうるさいな と思う。見えるよ

フィクショナルな次元のことしか僕は興味がないのだな、と近頃感じる。みな、それぞれの夢をみている。でもそのことが重大に思えるのはほとんど僕だけみたいで、それは、人が人をふつうに信じていないってことのはずで、耐えられなくなる。夢を転覆して反対の色の夢にしてしまうこと、そればかり考えている。

ゲゼルシャフト ゲマインシャフト きょうだいの偉人のようになつかしくても
/神威「ねえ」『阪大短歌9号』

なぜ偉人のことなのに、ゲゼルシャフトのことなのになつかしくなるのか、それは遠く離れた人とおなじ夢を生きている、と信じているからで、信じてしまうのには近くを遠くに見出せば足りる。ゲマインシャフトがあって、そこにしか私の兄弟はいないけれど。「きょうだい」と「偉人」とがつながれているこの歌がしばらく頭の中にあった。

双子は一つの図鑑を読んで想像される二人の子ども
/榊隆太「指南」『佐々木』

「見えますか」なんて言ってはいけなくて、生き写しになって行く過程をこそ歌の中に駆動させなければならないのだと思う。欠落した三句目(欠落と読みました)を境に、異なる子どもたちがまじりあってしまっていて、しかし、図鑑を読んで何らか想像するということが、いかにも自然な営みとして真ん中に座っている。誰が、ということの不可解を残したまま。

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製
/平岡直子「アンコールがあればあなたは二度生きられる」『みじかい髪も長い髪も炎』
自販機のボタンを押すとき、お母さん、ステルス戦闘機を感じたい
/同上「お母さん、ステルス戦闘機」『文藝』2022年春季号

夢はどこから見えますか、なんて、そんな愚かな質問はないと思う。別の夢をなんらかこの夢の中のもののように扱えてしまう技法があるだけで、僕らはそれぞれの夢の中にいる。

🚬

しばらく左手が臭くなる。顔がカラカラになる。

雑文を三枚書いていつぽんのマイルドセブンを吸ふはうましも
/小池光『サーベルと燕』
うつむいて時雨のなかに火をつくるひとてのひらで火をまもりつつ
/魚村晋太郎『花柄』

この二首は恐ろしくない。丸くて心地よい手触りがある。

「雑文」のみが小刻みに振動していて、線のかたまり、モザイクのような印象を持つ、対して、「三枚」「いつぽんの」「マイルドセブン」「うましも」どれも丸い音で、近くを漂っている気がする。〈ま・い〉の音

「ひと」と彼の「てのひら」がきっちりと同居する四句目よりも手前にある、「うつむ」くはずの顔、「火をつくる」はずの手腕は「時雨のなか」に輪郭がない。「ひと」が明確にもっているのは「火をまもる」ほうの「てのひら」だけであるような気がする。

🫳

たくさん短歌を読む。後輩がひとり、たくさん読んでいて、読むことによって考えていることについていきたいので。

つくば集ことし、ボリュームを出していきたい。もう色はあるので

🐬

作り手がたくさんいるにもかかわらず、そしてそうであるからこそ、作品は相互にあまり読まれず、その結果、感想や批評が不足してしまう、さらに相互に読まれなくなるという中心(/周縁)の加速度的な消失の問題について。そもそも、プロ・アマチュアといった便宜的な境界線が消失している今日においてそれは常態と言えるし、短歌という文芸作品においては多かれ少なかれずっとそのような事態が起こっていたのだろう、と言える。

 そうではあるけれども・そうであるからこそ、せめて笹井賞の大賞くらいは読んでくださいよ、読んで感想を言ってくださいよ、それくらい言ってもいい場であることには異論はないでしょう、という白野さんの掉さす姿勢から、この記事で以上のようなことを考えて、そして、一か月ほどが経った。

 そんなことを言いつつ、短歌について感想を一言も一文字も書いていないのがこの記事の急所だとしたら、そこから何を考えることができるか。

 一つには、誰も感想や評のやり方を知らないのではないかということかもしれない。強い文脈が共有できない以上、ある短歌をうまい手ごたえとともに読むことができないのはもちろん、感想や評として一言も発せないというのは、生真面目な読者には容易に起こりうることで。(めっちゃいい)と思いつつ「めっちゃいい」と言うか何も言わないかという二択なら何も言わない方がいい、言ってどうにもならない、なにを言ったことにもならないという見立てが僕の中に実際ある。

 あるいは「感想」がとりわけ曲者である可能性。感想と批評とのあいだには距離がある、ように見える。限定的かつ一定数以上の人とのあいだで共有できる文脈を整備しつつ作品を価値づける営み、というのが批評の定義だとして、感想は批評から隔てられているというよりそれを取り巻いているかもしれない。というかそもそも、作品について考えることと、作品から考えることとの区別はつかず、感想とは、その二つを混同した、いわばその他カテゴリーとして用いられている。すると、作品から考えること=思考と、批評とが一致しているような場合、それはほとんど政治的な立場を獲得していると言っていいのではないか。自分の作品との連関において他者の作品を/から思考し、それを批評という文脈にアレンジする。

 以上は感想と評という二項の関係についての説だったけれど、その手前に「選」がある。一文字の感想を無為だとしてしまうまえに、選ぶことはそのまま価値づけである、ということに注目すべきか。選んで、そして他の選んだものと並ぶことによってそこには最小限であるがしかしかなり強力な文脈が発生していると言っていい。そうすると「連作」っていうのがあってだな、というわけで、連作を幾通りにも組み替える、他の連作と混ぜる、といったことが、ひとつ、評として立つ場合もあるわけか。



最近は、食いしばりがいちだんと酷くて、歯ぎしりもたぶんひどくて、起きたそばからあごと首が硬い痛い、どうしていつもオンモードでしかいられないのか、それも、何かやるでなしに、何もやっておらず何かをやらねばならないという漠然とした緊張感だけがあるという、消耗。かわいそうな身体

カウンセリング受けて一通り僕の間に合ってなさ、いつももうすぐ取り返しがつかなくなるって感じていることを話してしまって、それでいくらか楽になったので、そのまま整体まで歩いていった。姿勢がやっぱり終わっている。あと数回通う。休みたいな、ほんとうにリラックスしてみたい。

頑張りたい ほんまに

スピーカーも届いたし、つくったトマトソースのパスタも、ウォッカトニックもおいしかったし、ちゃんと遊んでいるし、大丈夫だと思う。

夜中に『夕星』vol.6を出しに行った。5首でこれだけ集めるのすごい。詩もふたつ。われわれもがんばろっと。セブンイレブンが近くなったのでこれからあそこにたくさん小銭を使うと思う 込谷短歌見当たらず。

病院で夜通し世界史を暗記する そういう偶然性を抱きたい
心から生きていたいと思う時間の短さ ほら、こっちでサメが泳いでる
/鎌田舞乃「僕らは春の野原で気のすむまでくすぐりあった」

もう古い卵ふたつを切るように混ぜる菜箸が手に余る
まるで言葉を素手で扱う心境の万年筆で書きとる日記
/榊隆太「手がとどく」

心性を用意して読むと中盤でかならず見失う。
「もう」からのいくつかのカーブ

泣かずに話せたら泣かずに話した居酒屋になるけども。いやはや。
透明なたこが手招きしてたから抱かれにいったわ 複数回
/高井伽称子「端々」

透明なたこ?


🐙
↑これはボイルされた赤い白いたこ


あ、引っ越し祝い、まだまだお待ちしています
『岡井隆歌集』はもう自分で買ってしまいました💢
『海蛇と珊瑚』や、でかいソフトクリームなど、特に喜びます

以下引っ越し祝い集

ガジュマル
だいじ
壊れたあとのティーカップ
カザフスタンみやげ

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