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6月のこと

六月が終わる。盛清六はいまだに戻ってきていない。
友だちとコメダ珈琲に行った。ようやく

たっぷりサイズにうんって言った

0617
昨日は、朝まで、を超えて昼まで遊んだ日だった。すごい日だった。いちど家に帰ってから夕方にコメダ珈琲で待ち合わせをした。これが今日のこと、ね。いつも一人で来るときはコーヒーしか頼まないけれど、みんなにとってのコメダ珈琲は例えばカツサンドとか、何かしら大きくて満足感がある食べ物を頼む場所だったのを注文前の会話で思い出して驚いていた。そうだったな、それで僕が頼んだのはグラタン。グラタンのことも忘れていた。グラタンはうれしい。グラタンにはグラタンの嬉しさがあるのに、グラタンのこともグラタンの嬉しさのことも忘れていた。グラタンの嬉しさはいくつかある。おいしいし、味が濃いのはとても大きいけれど、何よりも熱々であることが嬉しい。熱い料理はいっぱいある。だが、それはもちろん熱々ではないし、持っている熱もすぐに冷めてしまう。グラタンはおおよそ、3/4食べ進めるまで熱々だ。口の中を気遣いながらその熱々さを逃さないように口に含む。熱々であることの、熱々を口で感じることの嬉しさを噛みしめているうちにお腹が膨れてくる。これもとても素晴らしいことだ。腹の空きという感覚はとてもつまらない。食事におけるもっと面白い感覚はまず食感と舌ざわりで、その次に熱と味だろう。腹の空きというのは感じなくていい。食事以外の時間にそれを想定して次の食事の適切な量を推量するだけに留めておくがいい。

帰ったらグラタンを食べたい、と母にLINEした。

西周を読んでレポートを書く、という課題をやる予定だったから、西周と、最近読んでいる内村鑑三を比べながら、明治に突入して国をつくっていく世代と大正や大戦に突入していく世代の雰囲気を考えながら喋った。いろいろと膨らんで、幸徳秋水まで話が及んだが、反応がいまいちだったから社会主義の説明をすることになって、そこからアダムスミスにまで遡り…と、僕が考えていることの下敷きにしているような事柄を引っ張ってきて説明することになった。20世紀前半の国家社会化を世界恐慌とケインズを使って喋ったな。喋っている中で発見があった。①下敷きにしている思想史的な知識を、僕が漠然としか把握していないこと。②人文系じゃないかぎりこういう知識はあんまり前提していないこと。③そして考えるなかで、非人文系の人に分かるような言葉で思考を象っていかないと、僕自身が何を何のために考えているのかが次第に分からなくなってしまうだろうということ。④ラフにそうした基本的な話をすることで、②の人の発想に大きな変化を与えうること。
僕の認識のためにも、みんなのためにも、粛々と耕していくべきなんだな、とあらためて思った。「5月のこと」の後半に書いていた内容をぜんぜんわからないって言われたのもそうだ。僕がマックス・ウェーバーという名前を放って考えていることは、もちろんマックス・ウェーバーを読んで得た事柄を指しているわけではない。僕の参照している本や人が行っている、歴史や思想史の再構成のなかにマックス・ウェーバーがどのように組み込まれているかを反芻している。それを全体的・包括的に説明できなくても、基本的な説明に立ち返って喋ってみることは多分意味があるだろう。知識はそれだけでは全く意味がないけれど、無いと意味のある認識を立ち上げることはできない。そして認識を構成して立ち上げることが出来るのは自分だけで、僕がそれをして、その過程の分泌物をたとえば友だちに見せる。それで構成のしかたが伝わるわけではない。ただ知識が伝わる。それでその人の中で何かが始まるかもしれないし、始まらないかもしれない。それを僕はコントロールすることも予想することもできない。でもいつか何かが起きる。起きうる。それが分かってきた気がする。とりあえず納得してもらえてうれしかった。こういう時の満足が好きだ。その人のなるほどなあ、を見ているのが嬉しいだけじゃなくて僕も驚いているからだ。その説明をして初めて僕もその次元の説明を発見するからだ。日も暮れた。課題をやろう。

課題をしながら、西周を読みながら、昨日、あるいは今日の昼までのことを思い出して噛みしめていた。

すごいことが立て続けに起こって、切れるみたいに朝方眠って、起きた二人でそこから昼まで喋っていた。この人たちといると言葉が出てくること、ねじを飛ばして叫んだりできることは知っていたけれど、いつもみたいに「ねじが外れる拍子」が現れるのを待ってそれに飛び込むという感じじゃなくて、ねじを自分の手で外してしげしげと眺める、そして思ったことを言うのをみんなが聴いてくれるみたいな、新しい地平を見た気がした。最後にした会話は、分かってくれるはずはなくて、それでいいと思っていた事柄が伝わって二人ともパニックだった。じゃあ、今までの僕らの生き方って何だったの?なんでふくだりょうは僕と仲良くしてるの?僕が諦めていることと信じていることが他の人とぜんぶ逆なのを僕は知っている。そしてそれを知っている人が一人増えた。1000年分くらいの話だった。

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財布を探すていの夜の散歩

最近つくづく、僕らが短歌を選べたことの幸いを感じている。
(以下、僕らじゃなくて僕を主語にする)。

定型なんて生活や社会のどこにもなくて、それでも何かしらあるはず・あるべきだと感じるから短歌に出会って素通りできなかったんだろうけど、だからといって僕が定型の歌を詠めるわけじゃない。短歌についてのみ言えば、僕には定型の半身しか見えていなくて、残りの半分を幻視する力もない。半分まで行かない。見えているつもりの半分も全部幻視だという気もする。でもそれはどうでもよくて、とにかく定型に僕は誘惑されている。全部が並列的で資本の自己運動の糧になっていくようなサブカルチャーとは決定的に違うことを感じている。

先月だったか、小池が夜中にぽろっと出した喩がずっと残っている。僕は短歌が見せる幻覚が好きだけど、それを理由に短歌という幻覚剤を好きになれるかどうかわからない。そこを勘違いできる気もするし、するほうがいいんじゃないかという気がする、という話。

酔っぱらうのが好きなのか、酒や薬が好きなのか。物質だとそこには明確に区別があるし、もちろんその全体を含んで「お酒が好きだ」と言える。だが、短歌あるいは言語一般について言えば事情が違っていて、区別があるようで無い。短歌と酒に絞って言えば、酒の話をしても酔っぱらわないが、短歌評=短歌の話をするときは短歌を引く必要があり、短歌を引いた瞬間に語り手も聞き手も酔っぱらっている。というか、その短歌によって酔い方を変えている、と言った方が正しい。定型が確かに存在していて、それに則った短歌があるとき、その短歌は短歌の話をする以前の酔い方をより増強させるような酔いを与える。このとき、その短歌以前の現実も、以後のそれも、そもそも「酔い」であるとは意識されない。酔いが意識されるのは定型や定型的なものが解体されつつあるとき、されたとき=今で、短歌は現実の酔いを四方八方に変化させうるが、現実の向かう先、増強されて向かう対象がありえないので、悪酔いが生じやすいし、成功してもほろ酔いの「なんとなく気持ちがいい」に留まりやすい。この、何をやっても同じようなものだな、という感じ、これが僕の感じている短歌の難しさなんだと思う。ヴォルテールは「神が存在するという意見には困難がある。しかしその逆の意見には不条理がある」と言ったらしいが、困難と不条理に挟み撃ちにされてどこにも行けないという状態が芸術形式一般に生じたのが戦後なんだろうな。芸術が芸術でありうるには人間が必要であり、そのためには神が主ではなくて対象に変わる必要があった。証明されたり否定されたりする対象。ヴォルテールが生きていたのがちょうどそういう時代だった。

それで、短歌を始めてから今までの僕が何をしようとしていたのかを振り返ると、この幻覚そのものを捉えたいとばかり思っていたと思う。幻覚を対象化することはできない。しようとして、幻覚とは何かと問うことで見られる幻覚もあるが、それは著しい悪酔いをひき起こす。幻覚を問うとき自ずと幻覚剤についても思考が及ぶ。そうして「幻覚剤の夢」を見ようとしてしまうからだ。幻覚剤の話ができるのは、小説のように現実と幻の区別を曲がりなりにも固定している言語で、そこでは区別が固定的だから酔いを複雑に変化させることも安全にできる。それに対して短歌はそんな区別を「てい」として設置する時間は無くてただ始まって終わる、幻想を叩きつける/叩きつけられる言語だ。一首で叩きつけが完結するのを20とか50とか100とか繰り返すのが連作というやつで、一首の幻想がはじけた後現実にすこしずつ戻ってくるのではなくて幻想そのものをすこしずつ横にずらしていって酔いを深くしていく効果がある。このことが見えていなくて、去年のつくば集の連作では幻覚剤を多角的に描写できたつもりでいた。それをやりたいなら散文でやればいい。たとえば、坂口安吾

それで、この話はどこに落ち着くかと言うと、短歌を好きになるべきではないかということだ。それは、肯定できないような現実を生きることはできなくて、そして現実とは幻覚で、幻覚とは短歌であり、そして僕は生きたいと思っている、というだけの話。だから僕は短歌を肯定する必要がある。このことはわりあい他の人にとっても同じだと思う。

今週も来週も再来週も歌会をやりましょう。

***

みんな、無防備にたたかいすぎている。
たたかっている程度も、無防備である程度も過剰だ。単なる好き嫌いや個人史的な問題でどうしても中心に据えたい事柄や言葉があって、そのために周縁化する必要があるものに対して、ファイティングポーズを取りすぎている。他の言いかたをすると、どうしても横に置けない問題があって、その横に置けなさがどうしても滲んでしまっている。あるいは、横に置くという方法を知らないからその都度捨てている。投げ捨てている。その投げ捨てられたものごとは必ず何かにぶつかっているが、そのことを知らないふりをしたり、そのことばかり考えてしまったりする。

僕は典型的な後者の人だ。投げ捨てて、投げ捨てたものがぶつかるもう一つのもののことばかり考えてしまう人。この人は、「たたかい」というものを捉えられたなら「たたかい」を辞めることができると思っている。あるいは、自分が何とたたかっているかが分かれば「たたかい」を辞めることができると思っている。しかしいずれも分からないし、分かっても辞められない。もっとも大きな思い込みは、たたかっているのが自分だ、という前提である。たたかっているのは自分だろうか?そう問うてみてほしい。自分じゃないかもしれないし、自分かもしれない。一度、どちらにも傾いてみるといい。そして、もっとも心地が良いと思われる位置に、見解を仮止めしてみる。そうして眠る。起きたらまた問うてみる。
「たたかい」は微妙だ。この人は、この微妙さを見逃している。そのことを指して無防備だと言っている。

僕は前者の人ではないから、前者の人のことはよくわからない。投げ捨てて、投げ捨てたものが何かにぶつかることを知らないふりをする人。この人は、「たたかい」を知らなくて、それでいてさまざま「たたかいの辞めかた」を選ぶ。実に軽やかだ。少なくとも現象的には後者の人よりもはるかに自由に振舞っている。僕はこの人ではないし、聞いてみたことはないけれど、たぶん不自由はそれほど感じていない。けれども無防備にたたかいすぎている。辞めているのに?どういうことか。たたかいは辞められない。辞めたと思ったら・思えたら、捨てた武具を裏返してもう一度着ていると思ったほうがいい。要するに何も変わっていない。辞めたと思えているから一旦は楽だが、どこか一点に負担がかかっている。ちょっと違う言いかたをすると、どんな体験加工にも必ず死角がある。その死角の輪郭が保たれることがその体験加工の同一性を担保している。「たたかい」は行動に対象を与えること全般を指していて、人として生きることとほとんど重なる。だから、ある行動に何かしら意味があるな、と感じられるとき、それはたたかっているとみなしてよい。

前者の人・後者の人に関わらず、「たたかい」によって消耗する人・しない人がいる。あとは、単純に横に置く能力が高い・低いという差もある。この能力はあんまり変化しなくて固定的だと思う。
ちなみに僕は後者の人で・消耗しやすくて・横に置く能力が低い。消耗しやすさは、しやすい人の中では人並みくらいかな?と思っているけれど、他の二つに関してはかなり、だと思う。横に置く能力に関しては今僕が知っている人の中でいちばん低い(これはそう。聞いてみないとわからない、とかはなくて、話してみるとわかる)。
ややこしい言いかたをしてしまったかもしれないけれど、横に置く能力があったほうがいい、というわけではない。その能力自体は良くも悪くもない。消耗しやすさに関しては、しにくいほうが生きやすいかもしれないが。とんでもなく横に置けない場合、じぶんのたたかいやすさを見つければ一面的な心地よさの中で自由にやれるだろう、という性質はある。逆にとんでもなく横に置ける場合、複数の「たたかい」が独立してこじれないので、それぞれでコツを体得できればやりやすい、という可能性はある。しかしいずれにせよ、この能力はそこまで差がなくて、全員がそのどちらの処方箋も意味がないくらいには真ん中にいる。一つの現実を生きている人も、まったくばらばらの現実を生きている人もいない。そして、より重要なことは、「横に置く」は起こっているだけで、方法として選べているわけではないということ。

技術が介入する余地はない、ように見える。
しかしそんなことはない。僕は、ここまで書いてきたあれこれが「防備」だと思っている。敵はみえない。そして自分がたたかっているわけでもなさそうである。しかし誰かが傷つく。誰かが消耗する。「たたかい」をしているからだ。「たたかい」があるならば、「防備」が必要である。この「たたかい」は微妙だから、「防備」も微妙だ。そして微妙なものは存在しないのではなくて見えにくいだけだ。そこにある。

言いたいのは、技術はある、ということと、もうひとつ。
体重をかけてふざけるのはけっこう難しいということ。すごくリラックスしてやれているつもりでもすごく緊張していることもあるし、その逆もある。それで逃してしまうよろこびとか自由は確かにあって、その次元にもっと注意深くなりたいな、ということをよく考える。

(この話さっぱりわからなかった、という場合は言ってください、できるだけ早めに。)

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明らかに目撃していることでも、語れない。言語的に実在していることがはっきりしている対象や領域については、言い方を踏襲したり工夫したりいくらでもできるのに。数え切れないほど目撃されてきた実在を、誰かが言うことができたとき、それは実在しているものごとになる。それってすごい。お笑いや思想はすごい。あと、短歌も。

そういう問題じゃないんですよね~♪っていう言い方ができるようになってきた。今月くらいから、心の中の、中のほうでも、♪を飛ばしながら言えている。それは、「違います僕はこっちでやってます」と「あんまり好き勝手言ってんなよ」を同時に同じビートに乗せて言えるようになった、感じ

ヤクザ映画はいい
人間存在を表現するにあたり、行為の適法性はノイズになる。だから普通の映画は法は犯さないものとしてそのノイズを排除するけど、どうしても違法なものをシーンとして持ち出してくる必要があるときはあり、そのときいろいろと意味がうるさくなる。
ヤクザなら行為に対する即時的な価値判断が合法/違法にではなく威圧としての暴力/ほんものの殺人に焦点化されるのが、倫理を考えるうえでコストが低い。
最初から知らない人から見放されているから、変な願望を混入して社会を見る余地がないという点も、よい

「昨日の僕、史上最高にかわいくてしごできであった」と日付もなしにメモに書いてあってびっくりしたけど、すぐ思い出して、そうだったな、と思い返した。しかし、僕が「しごでき」を使うときはいつも広義的すぎる。

たとえば、3/29はこんなにも遠くなっている

わーい1
わーい2

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僕が思っているよりずっと、大丈夫じゃない人は大丈夫じゃないし、大丈夫な人は大丈夫だ


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0615
みんなで部屋を出て、午前3時から一時間くらい大学のまわりを散歩した。

あと何回これができるだろう。ここにいるみんなが跡形もなく解散してしまうのは、もうイメージできないほど遠い未来の話じゃない。それが本当に嫌で、歩道にひびを入れたかったし、思いきり叫びたかった。だけどそんなに道はもろくないし、身体に力も入らなかった。だからくるくる回りながら歩くしかなかった、Tohjiを聴きながら。おれらwe know it空は広い

そのうちにかなしさとうれしさが同時に来て、なんというか、最高だった。
決して誰も応答することのないひらけた道にスマホから流したビートが、シャリシャリした音で、そのまま散っていくのが妙だった。

すべてがこのまま、すごいスピードで進んでいってもう止まることはない。僕は何度も躓いているけれど、はじき出されることなく今もここにいて、流れの中にいる。致命的に壊れてしまいそうな場面がいくつもあった。
今日は一日、もう無理だ、という言葉しか出てこない。実際そうなんだろう。同じ曲の同じ詞を何度も歌ったし、その曲を流したくなって流している。消耗はいつもこうやって来る。濁流に流されないように、僕は同じところにしがみついている。
一度人間以外のすべてが止まってほしいと思う。すこしだけ時間が欲しい。人の心と生活とだけが動いている場所で、取りこぼしたものごとを深く思い出したいと思う。
全部が止まって見えたらいいのにって、そういう瞬間が来るかもしれないと思って朝までくだらないことだけをしている。何回でもそうやって過ごす。そうして最後の一回が冗談みたいに簡単にやってくる。そのときそれに気づいても遅い。遅いけど僕は多分、ふざけんなよって言うだろう。最後だということすら教えてもらえないかもしれないけど

書くとこんなに面白くないのも、ほんと、なんなんだよ

この一回も終わった。
シャワーを浴びだしてすぐに、足元にダンゴムシを一匹みつけた。僕の身体を伝って水が徐々に床を覆っていく。その間を縫うようにダンゴムシは素早く動いて、戸からシャワー室の奥まで進もうとしていた。髪も身体も洗い終えるころ、目を下ろすと真ん中あたりでダンゴムシはもう動かなくなっていて、身体は完全に水に浸っていた。身体は反転して、動き出して、排水溝に流れていった。僕が連れてきたのかも。というかそうだろうな

ここは倒れることができない場所だ
大学を出てみんな解散して、それでも
僕は週に一度歌会と読書会ができたら生きてゆけるのかもしれないなと思える時もある。耕していくことをやめないならば僕は生きるだろう。
僕は誰よりも生き延びる。寿命や健康寿命の差ではなしに、僕はただそう確信している。僕が日々やることや言うこと、あるいはこの日記を書いていることに、みんながありがとうと思ってくれているのが、最近わかる。以前想定していたよりも、はるかに強く。信じ直すことではなしに、自分が信じている、ということに改めて驚くような時間が増えた。ここに来るまで、気が遠くなるくらいながいながい、懐疑の時間が必要だった。
もうじき二十歳になる。あなたがいなくなったときの僕のために、遺言をたくさんちょうだいね、これからも本気で言えそうだっていう瞬間に、迷わず。

***

僕も昔話をしない人になれるのかな、今書いているこれも、言ってみれば昔話だけど

始まりと終わりがある、んですかね?前者が無いことの表現で、後者があることの表現
最近の生活課題:15-17時のあいだにコーヒーを飲めば20時まで集中できることが明らかになってきた。ちょうどそれくらいの時間から頭が起き始めるのでそれを増強するというシステム、それで問題は朝をどう救うか、どう捨てるか
色々済ませて図書館を出たところで小池とばったり会った。お互い笑った。笑ったというより顔が緩んだっていう感じだった。ほんとそんな感じだった
部屋借ります。プロジェクター買います。

夢の中でいつも僕のズボンを勝手に履いている奴がいるんだけど誰なんだろう

たとえば、福田瞭は2003年7月4日に生まれた。

***

20230631とかって書くときあるじゃない、あれいやだ
230631でいいよ今世紀に死ぬから



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短歌について10個ほどかんがえたことを

1.発見とそれに対する一言、が求められている気がする。だけど、①発見 で止まる②発見と半歩で止まる③発見一歩手前で止まるという歌もある。一言って、言いたいわけでもないし言いたくないわけでもない。だから一言からちょっと遠ざかったりちょっと近づいたりしてみる、というのがいい

2.発見にもいろいろあるが、すごい発見よりくだらない発見のほうが断然ありがたい、という面がある。すごいと枠組みそのものが変わってしまって細部が味わえないまま細部が変わってしまう。そういう変化よりも、くだらない発見が与えるくだらない変化のほうがどこかしら大きいような気がする

3.どこがいいかを言うのは難しい・のみ込めているかわからん、けど、すごくなめらかに出てきたんだろうなという雰囲気を感じる歌があって、そういう歌は、歌そのものは難しくなくてかなりはっきりと簡単なのに、難しいと言わせてしまう・難しいことを考えさせてしまう、というようなことが生じる。それを見て僕は難しく考えるのをやめて、一度わらってみる

4.最近は切るタイミングより切れ方に気を遣っている。両方気を遣えよっていう指摘はありえないと思う。そのへん、いろいろ試してみて、これは違う、これはわりとあり、とかできるくらいには感覚らしきものが出てきた

5.短歌について元も子もないような言いかたがけっこう浮かぶ。今してみる。短歌は基本、神話的事実と言語的事実とのブレンドで、その革新性って、ほかの現実を、特に余計な現実を混入させない、あるいは必要な余計さと呼べるような要素を半ば確信犯的に混入させる技術があるかどうかにかかっている気がする。あと単純な巧拙について言えば、神話イメージの操作は光ってるかどうかけっこう歴然とする。 たとえば、中心、起源といった神話的イメージをいかに操作するかってことと、その上にどの〈あるある〉をどう選んできてどう配置するかっていう二つの微妙さをさりげなく結合して一つの連環をつくってしまうというようなこと

6.歌会に出した歌の、把握が絵本みたい、と言われてなるほどとなっていた。それってどういうことだろう

コンビニにチビポリノッポポリ腰の警棒は同じサイズだ 多分

0621・大きい歌会

アナログ性が強いすなわち情報量の多い存在者たとえば生物、特に人間を規格化して把握するのが絵本や神話のまなざしだろう。そしてその規格化の方法は、第一差異を強調すること。
問題はそのあと。第一差異に表象の原因をすべて任せるというやり方もあるけれど、第一差異を、それだけを公然の差異とすることで、そのもとで無限の差異を取り出すことなく戯れさせることもできるな、ということを考えていたけれど、それが実際どういうことかはわからない

7.歌に出てくるできごとが、体験としてどうしてもでかいような場合に、体験に化かされているだけで歌は別に何もしてないのではないか?という疑いがよぎって素直に読めないことがよくある。とはいえ、そのできごとを取り出すことができるのはその言葉があるからで、できごとは実際にあってもよく、なくてもよく、そんなことお構いなしだというのが言葉の凄みなわけで。

8.あるいは、言葉が与える、目前に感じる圧だけを感じてこの歌いいなとか思うときもある。圧だけがむにゅっとそこにありそれを感じるだけで、あらわれてくるできごととかは乗り物に過ぎないというような処理をできるときはできる。

9.音楽は恋ではないよ?/OKは他方から来るのだ。/ええい!

10.ビル・ナイはビルがない街に生まれたそしてその街から出ていった



おやすみ




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