見出し画像

9月のこと

テレビがいたるところで点いている。煌びやかな文字がこちらまで届こうとして光る。重なった笑い声と驚く声が後ろに用意されて、一定の間隔で立ち上がる。男女の雰囲気に合わせて、喜怒哀楽の四種のBGMが交替する。事件の話題が去ってスポーツの話題になり、スーツの人びとが一斉に笑顔になる。

テレビというのはまったくひどいと思う。一人暮らしを始める前はいつも苛立っていたように思うが、この夏のあいだは唖然としてしまうことのほうが多かった。たくさんの人が巻き込まれて真顔で何かをして、何かを言って、それで時間が来れば次の何かが始まるために区切られる。画面越しにたくさんの人が巻き込まれていることがわかる。そして画面のこちら側の僕もいたるところでそれを見せつけられる。放っておいてくれない。なぜか。

これが現実だからだ。多数の人によって生きられている現実だからだ。

放って置かないという事態を思い出すのにしばらく時間がかかった。思いだすまでの間ずっと、不安以外のすべてを捨てるように耳元で言い聞かせられていたような気がした。



ニュースについて。

「続いてはスポーツです」という台詞が本当にあるらしい。というかあった。みんなパッと表情を変えて、発声の仕方を変えて、「続いてはスポーツです」と言う。キャスターはキラキラしだす。この前後で何が終わり、何が始まったのか。

まず事件がある。誰かが痴漢をする。横領をする。するとその人は捕まる。何かを供述する。すなわち法を犯した理由を述べる。では次の事件。誰が何をした-捕まった-行動の理由を言う。では次の事件。日々、悪い人が悪いことをする。悪い人はなぜ悪いことをするのか?悪い人は悪いことを考えるからだ。

政治家が何かをする。ほかの政治家と会って話をする。何かを決めたらしくてそれについて話をする。二人が会ったということは何を意味するのか?画面が切り替わって専門家が専門家的な書斎に座っている。語り始めの一言、「これは極めて危険な状態です」。すぐに切れてCMに入り、海と空に開けた道路を自動車が走る。すごい切り方だなと思いつつ、見せつけられる自動車や胃薬や育毛剤を目に映しながら二言目を待つ。CMが開けると専門家と書斎は消えていて、再び二人の政治家のそれぞれの公の場でのショット。右を向いている様子と、左を向いている様子と、正面を向いている様子。専門家はもう帰ってこない。キャスターが久方ぶりに帰ってくる。

天気が悪い。台風が来ているようだ。風が吹いている現地に人が立って喋っている様子はどんなであるかを伝える。気を付けなければならないということを伝える。新幹線が止まっている。止まって困っているっぽい人がいる。その人に話を聞く。どうやら実際に困っているようだ。キャスターが帰ってくる。

それぞれの新しい知識にはかならず決まったパッケージが伴っていて、僕らはそれとセットで受け取る。一度パッケージが始まると停止も変更もできない。「当店のご利用方法はご存じでしょうか?」知らないですと言った後「当店では」以下の説明は絶対に止まらない。質問は最後にするしかない。

ニュースでは質問はできない。質問ができないかわりに、キャスターが必ず帰ってきてくれる。帰ってきてくれて、必ず次の案内もしてくれる。いつもキャスターが帰ってくる。キャスターは知識とそのパッケージの守護神だ。彼の案内の文章が焼き切れない限りいつまでも同じ速度で同じ形式で知識が交替しつづける。

「続いてはスポーツです」は知識の伝達フェーズが終わって、キャスターが案内役を下りることを意味する。僕らの隣に来て、「大谷がやりました!」と言う。みなさん!今度は僕らが参加するようだ。そしてそのことをキャスターは非常に喜ばしく思っているようだ。なぜなら終始笑っているし、解説に抑揚がつくからだ。みなさん?

キャスターは、今日、本当に起こっていて、僕らが関与し、喜怒哀楽する必要がある現実は、今みんなで参加しているスポーツ以外にはないと考えているようでもある。あるいは現実の種類が複数あると考えているのかもしれない。世の中には伝達される(べき)現実と参加する(べき)現実があるということ?伝達される現実の後に参加する現実が続いていく?そしてまた明日が来る?

よくわからないけれど、いずれにせよ「続いてはスポーツです」には現実を変容する威力がある。

僕は短歌でこの台詞をみたとき、引用としてべつに何の感慨も抱かなかったのだが、それはその台詞が機能する現実、その現実が生きられている瞬間をちゃんと目撃したことがないからであるらしかった。
「ではみなさん!今週末はぜひ阪神を応援しましょう!」。みなさん?

よくわからない形式でよくわからないことを真顔で言い続けるという状況がいつまでもつづいて、「ところで」「ちなみに」が絶対に差し込まれないというのが訳が分からないというのがニュースを見せつけられていて浮かぶことで、それを伝えたいがために長々と書いたのだが、こうしたことが他の方面からもそれぞれ行われている。

ニュース、ドラマ、クイズ。

ドラマは皆がスポーツ以外で参加するフィールドで抱く感情を上塗りして現実を補強する。
「既得権益でがんじがらめになっているテレビ業界を、ベンチャー企業を立ち上げた若者たちがネットテレビ局をぶち上げて打ち勝つ」というドラマがあって、そのメンバーがアセクシャルだったりバイセクシャルだったりして、仕事とプライベートが交差する。誰が何をやってんねん、というツッコミは考慮していないようで、とにかく皆が遭遇する出来事やトピックを包含していればドラマというものは成立するらしい。

クイズは知識というもののあり方を反復して現実を補強する。進学校の高校生が難読漢字をひたすら読んで回していって、それをタレントがすごい!と褒める。解説が必要だったり、マニアックな知識を開拓するというような問題は出てこない。

内容は絶対に形式を変化させない。そこには相互関係どころか、連絡がぜったいにありえないようにできている。ありえないが、いつでも話題の内容が運ばれてきて、一体となった制度として運用されつづける。
すごいと思う。ひどいと思う。
絶対にわくわく・どきどきさせてくれないから、すごいし、ひどい。

***

「もっとよく考えなさい」とか「なんでそんな変なことを言うの?」というような言葉が飛んでくるたびに、僕はちゃんと考えて言い直したり持ち帰ったりしてきたけれど、これは上のような一体的な制度として現実が生きられているという問題に尽きるのかもしれない。「だって働かないと生きていけないじゃない」においては、働くことと賃労働することとは同じであり、賃労働するためには就職活動をしなければならない。就職活動へと連絡するために大学進学と大学生活があり、単位取得がある。「結婚」においては、慣習的な相互扶助と愛情とセックスとが一体になって欲望されている。

すべてが同質の論理によってつながって一体になっていて、基本的にそれぞれの部分や次元について言及することはできない。

こうした様式は「制度的思考」とでも、「封建的思考」とでも呼べばいいけれど、流通しやすく、かつ主体を安定させやすいためどんな階層・ジャンル、どんな時代でも出現してくる。

教室や家のなかで、「もっとよく考えなさい」と言われるたびに、その言葉に従ってちゃんと考えようとして、そしてちゃんと考えるとはどういうことかが明示されないからそれも含めて了解しなければならないのだ、と考えることによって僕は今の自分の語りを獲得してきたように思うけれど、「もっとよく考えなさい」には形式と内容の結びつきをそのまま了解しろという以上の意味はないし、僕自身が通ってきたのは、制度的な現実疎外を振りほどくために反制度的な現実疎外を育むという過程に過ぎなかった。

要するに、僕は誰よりも叱られたくなく、同時に誰よりも叱られたいという欲望に合わせて現実を奇妙に歪ませてきたにすぎない。「もっとよく考えなさい」と言われれば言われるほど「考える」という営為を幻視しそれによって現実を転倒させて、そうすればますます怪訝な顔をされて再度「もっとよく考えなさい」と叱られるという循環。それでもサーキットを何十倍何百倍も回っていることには変わりないので、テレビを改めて観てみるとまったくひどいとしか思えなくなっているし、一応どうひどいのかを言ってみることはできる。

でもそれだけの話だ。

単に僕がテレビを見せつけられるたびにストレスを溜めていくだけ。そこには確かに断絶が存在しているが、知の断絶と呼べるかどうかというのはかなり怪しくて、それどころか、単に(言うこと・言葉を伝えることで意思を伝えるということへの)信/不信の度合いに著しい断絶が生じているだけだと思う。

それでも、ここに僕はいる。何も始まらないし何も終わらない場所に僕はいて、それを忘れないためだけに言葉をずっと弄してきたのだろう。

上の話はそれはそうとして、実際僕が「考え」てきたことについて書きたいと思う。それはたとえば、「あるある」についてだ。「あるある」とは何か?なぜ「あるある」なんてものが面白いのか?それは単純なことで、制度に・役割に絡め取られて生きている僕ら自身が端的に哀れに思われて仕方がないからだろう。

これは霜降り明星のANN内のコーナー「霜降り交遊録」の切り抜き。ありふれた冗談を言ってはしゃぐ「同級生・武田鉄矢」。

そう、僕らはお互いをまったく知らないというのにこの友だちを知っていて、その人物が武田鉄矢であるというだけで笑ってしまう。それどころか、こいつは僕自身であるかもしれないしあなた自身であるかもしれない。誰もが思いついてしまう冗談を言っている誰かなのだ。

その誰かは、「しょうもないこと」を言わされる。

その場が・その空気が武田鉄矢に「しょうもないこと」を言わせる。そして「しょうもないこと」を彼が言ってしまうからこそ、そして「しょうもなくない冗談」なんてどこにもないという場所に僕らが生きているからこそ、どうしようもなく笑ってしまうのだ。

本当にしょうもなくて哀れな僕たち。消しカスよりも無個性な僕たち。ほかの誰でもいいような存在としての僕たち。

加えて重要なのは、「あるある」に笑ってしまうのは、発見しなければ「あるある」というのは存在しないからだ。発見される以前、僕らはただ自分自身を生きていると思っている。だからそれをいとも簡単に取り出されてみて、驚いて笑ってしまうのだ。

もっとどうしようもない例を挙げよう。「お母さんヒス構文」。これってラランドが生み出したもので合ってる?

「お母さんあるある」をヒステリックという取り出し方をするだけでこんなにも悲惨で、かつ面白くできる。「この世の悪いことは全部お母さんが悪いってこと?」
一番どうしようもなくて、かつ面白さの源泉になっているのは、このあるあるを発見してネタにすることや、僕らがこれで笑うことそれ自体が、より「お母さん」の尊厳を傷つけてしまうということだ。「はいはい、お母さんが悪いんですね」。

こういうことこそ、笑ったらいい。でもまったく同時に「笑うな」というのも正しい。

「学生あるある」は、互いに友だち、すなわち誰でもない存在であるからこそ軽いし、多様で、ポップだ。笑える。対して、こうしてお母さんと名指してしまうことは、否応なく僕らの怠慢を引き出してしまう。

お母さんを追い詰めているのは誰か?それは僕らだ。お母さんを含めた僕ら全員だ。家事を過剰に任せて、愛情を要求し、そしてその献身を見えないものとして扱うことによって自らの自由な時間・金銭を確保している。そしてそれどころか、そうすることによって「現実」そのものを構成している。

なぜ笑えるのかを考えてほしい。そしてお母さんのせいにするのをただちに辞めなければならない。これ関連の動画にしばしば付いているコメントで、終わってるな、と思うものがある。それは、「こういう母をつねづね軽蔑してきたのに、大人になって立場が変わってきたとき、私もこういう台詞を吐いていることに気付いてぞっとする…。やっぱり血は争えないのかな。」というやつ。それに返信で「お母さんにはそういう遺伝子が宿っているんだろうね」みたいなコメントが付く。なんでこいつらはここまで生物学的要因に、あるいは「科学」に還元するのが好きなのかと思う。それで自分を、「母親になってしまった」自分でさえも、免罪できるからだろうか。

血じゃない。役割を押し付けられて、そして役割に対応して割り当てられて駆動している「現実」に囚われているからだ。追い詰められれば追いつめられるほど役割としての自分にしがみついて、それでいて追い詰められるほうに流れていくしかない。それしか現実が見えていないからだ。

言うしかない。「あなたはお母さんではない」、と。

僕とあなたはただの対等な人と人であり、その関係において、あなたという存在はお母さんという役割に尽きるものではない。その役割によってこの二人の間のコミュニケーションには不当にコストが負担させられている。「だから辞めましょう」というのではない。それは無理な話だ。役割は「ある」。そして「現実」がある。それに紐づけられたかたちで技術をそれぞれ蓄積しているし、時間を費やしている。だからあなたは私よりも料理が得意だし、洗濯や掃除を素早く済ませることができる。でも私も訓練すればできるようになる。母でないとできないことではない。女でないとできないことではない。当たり前だ。それと同時に私は子であるばかりではない。夫であるばかりではない。

「私はあなたを見ている」。そう伝えるしかない。そして見るためには現実を破るほかない。破るには笑うしかない。くそしょうもなくて悲惨な現実を直視して笑うしかない。

もう一つ。上の二つのように具体的なコンテンツを提示するわけではないが、「老人」という役割はかなり強力に作動していると思う。例えば、「まだ若いのだからあなたは何でもできる」。この台詞が至るところで出現する。若さというファクターを磨き上げることによって、自らの有限性を受け入れずに受け入れようとする。昼間のテレビなんかはひどい。特にCMがひどい。老いにまつわる悩みを助長し、それで商品を売りつけようとする粗雑で下品な作法が目立つ。

この三つの役割はとくにかなり強力で、われわれの制度を、現実を構成するにあたってかなりの負担をかけていると思う。これには僕らが狂ってしまうほどの厳然たる事実として、平等に備えている生の条件を覆い隠すということにかかわっていると思う。

「学生あるある」。知というものの性質。知らないものを狙って知ることはできないし、そもそも知らないことを欲望することはできない。それを制度で囲い込むことによってわれわれの欲望は大方規定されていて、その抑圧を内面化しているから、一人ひとりの差異は微々たるものしか表面に現れてこない(実際には実体として蠢いているが)。

「お母さんあるある」。飯を作って食べ、身体を清潔にしなければならないということ。放っておくと身体は汚れるし痩せこけるし動かなくなる。その反語として「楽園」や「到来する王国」というようなユートピアの観念がある。生きている時間の大半をこうしたことに頭を悩ませ手を焼かなければならないが、そうすると制度が用意するような「達成」や「努力」と言ったものに割ける時間はほんの微々たるものになる。だから一部の役割にそのための仕事を押し付けることによって半分楽園的な現実を構成している。

「老人あるある」。人は必ず老い、死ぬ。だんだんと活動量が減っていくし、そのため明確で有意味な役割を任せられなくなっていく。そうすると現実にコミットしづらくなって孤独になる。現世的な意味での自分の存在意義を否定し、そのぶん若さというアイデアを多分に巨大化して社会がまともに存在していることを信じようとする。そしてそれに若い人が加担する。

知が現実を基礎づけることを、身体が現実を基礎づけることを、皆で合わせて忘れたら、楽園を生きることができる、のだろうか?そんなわけはない。必ず無視したぶんのエネルギーは僕らのもとに戻ってきて、それを償わねばならなくなるだろう。忘れないためには、現実を生きないことだ。現実を剥がして剥がして、剥がすことだ。

ただ、最近考えるのだけれど、たとえば僕が「現実を剥がす」とか言い出しているのは、あるいは誰かが無視したぶんのエネルギーがどこかで誤変換されて(そのぶん誰かの行為なり発語なりが削がれつつ)、僕に力を与えているからで、すべてを見ないふりをするような社会であるからこそ、そこで見えないものを見ようとするという力も生まれてくるのだろうということだ。そんな「無駄」なところにエネルギーが割かれるくらいには、社会は多様で、そして許容力があるのだ、とも言える。

***

***

9月2日。夜にTohjiのライブに行く日だった。

日がのぼりきってから起こされて、昼ご飯を食べながらTohjiの話をしてみる。僕の頭の中にあったのは、ヒップホップという音楽ジャンルにおいてTohjiがいかに特異かという問題で、それを母や父に話すとしたらどんな表現になるだろう、ということだったが、実際の展開はまったく違った。その手前でヒップホップというジャンルとは何であるかということのすり合わせに終始した。こうしてみるとジャンルとして何なのかというのは僕にもよくわからず、僕の説明には「それはレゲエではないのか・レゲエとはどうちがうのか」という父母のリアクションが数度ついたが、レゲエのことはもっとよくわからないので、説明はあまり進展しなかった。僕がヒップホップを通りつつレゲエにまったくと言っていいほど接触していないのはなぜだろうか、それもよくわからない。

話の中でいちばんびっくりしたのは、父母のなかでは、不良という概念がまだしっかりあることで、それが〈ラップ小僧〉という形でヒップホップと結びついていることだった。

たとえば援交女子高生のような、たぶん同世代くらいのシンボルや、最近の、全員がうっすら病んでいるようないくつかの界隈の若者など、そういうのがボキャブラリーとして無いから、不良というアクセサリーに過剰に負担がかかっているのだろうか。僕が片耳にピアスを開けて帰省してきたときも、心配、というか言及の力点が僕が不良になってしまうというところにあったらしかったし。実際ライブに行ってみると、入場待ちからコンビニで買ったチューハイの缶を握りしめているような人も珍しくなかったから、〈不良〉というのは認識としてそこまで外れていないのかもしれない。

今までラップが聴けなかったのが、この半年くらい、けっこうな割合で聴くようになった。自分(たち)のバイブスをあからさまに誇る感じとか、お金・ジュエリー・酒みたいなリリックのカラフルさ、とか、一言でいうと、見せるという行為にどうにもアイロニーが挟み込まれないことばかりが気になって受け付けなかったのだけれど、感じ方が変わってきた。

長らく、僕にとって、行為するということは、ほとんど演技することだった。どういうことか。生きていると、かならず人の目に触れてしまう。見られてしまう。そして、見られているとき、見せるという可能性がかならず生まれてくる。生きる-見られる-見せる。

これらは実際、一体となって切り離せないし、取り立てて意識されるものではないのかもしれない。しかしこの区別に気付いて、次第に振り回されていくにしたがって、この三つは、僕の中で完全に分離して奇妙な運動を始めるようになった。すべての感受や行為や発語が、これに従う。見せることの美しさの限りにおいて生きることの充足は許される。見られるという無際限の追及によって見せ(て生き)ることの欺瞞が暴かれる。生きることが見せることに、見せることが見られることに規制されて、幾重にもねじれたユーモアだけが残されていく。誰も僕のサーキットを見ていないのに、表出するまでのあいだに、疲れ果てて自分を(ひとまず)許せるようになるまで「あえて」の「あえて」の「あえて」の……と否定を重ねる。結果見られるところのナンセンスな僕の振る舞いに、誰も不安や疲労を読み取らない。

当時の僕は、このねじれがすべて、見られるということの快楽に飼いならされるがゆえのものであることに気づく由もなかった。気づく余裕もなかった。もっぱら、誰にも見つけられずに、この奇妙なバランス感覚を養うことだけに夢中だったようだ。

―短歌をつくるうえで大事にしているテーマはありますか。
他人の痛みを自分のものにはできない、ということです。これは、僕がなにかを書こうとするかぎり、おそらくずっと考えつづけることです。誰かの痛みにどれだけ共感したとしても、それを自分のものにすることはできない。それはたぶん、文学一般の問題でもある。

第三滑走路15号「青松輝インタビュー」

「それ」を痛みと呼ぶことは、一つの発明である一方で、取り返しのつかない冒涜であるような気もする。僕自身、上のような分裂的なあり方を緩和するために、この発明を利用した。あるいは利用せざるをえなかった。

〈私は他人の痛みに気づいていない〉この捉え方によってひらかれる倫理と敬意のあり方というものは間違いなくある。しかしこれは〈私は私の痛みにも気づいていない〉という転移を伴うことは必至であり、そうすると、私の、私に対する/私の、あなたに対する/あなたの、私に対する/あなたの、あなたに対する誠実さという四つが、どこまでもわたし=あなたを許さず、ついには純粋なよろこびそのものさえも許さない。そこでは完璧な自己憐憫と完璧な誠実さとが重なる。これはいったい、どういうことなのか。

言うまでもないことだが、〈痛み〉とは比喩だ。〈すべて〉を名指す比喩だ。それは場合によって、よろこびと呼ばれることもあれば、かなしみと呼ばれることもある。問題は、その外部がありえないことにある。

外部がないがゆえに、身体が痛いという内部の一部分を転用して、すべてを痛いものとして感じてみる。痛くない状態はない。そうすると、外部は存在しないこと=痛くない状態などないこと=存在するということすらも痛くなる。

僕がジョークを言うと世界は泣きはじめる、存在は悲しいから ステラ

/青松輝「natsunoshinosetsuna」(第三滑走路15号)

ジョーク。平気であるようなふりをすること、大げさに痛いと示すこと、内部が内部であるままであることを拒絶すること。
ステラ。星またはその光。外部であるような気がするが当たり前に内部であるような存在。その存在を思いながら、存在以外を思えるような、珍しい存在。

〈痛み〉とは比喩だ。しかしこの比喩は、外部を当てにしすぎる。そしてそれを僕たちに許す程度には、この世界は十分に甘ったるい。たとえば星。たとえば他人の死。たとえば詩。その甘さと、僕たちの、生きながら死に死にながら生きることの痛みを、詩は一寸の迷いなく利用して膨張する。そのようにして蒼白い詩人が絶えず地上に現れる。地上に居ながらにして、みずからが詩になろうとする欲望を自分自身から必死に隠しつつ、地上を呪う。

ただ、幸か不幸か、人はかならず死ぬ。死ぬということは単に生きるということが終わるというだけであるのに、人は死を当てにすることができる。死のみを与えられるものとして、そのほかのすべてを設計することができる。そしてそのようにして生きてしまうことすらも、悲しいと嘆くことができるのだ。

***

泣くために生きるのは変だ、ということを考え始めてから、しばらく経っている。相変わらずほんとうに遅いなと思うけれど、ちゃんとやってきたわけで、その宙づりの時間を手放して自分を責めるだけならかんたんだし、らくなのだ。

復讐のために神を持ち出すのも、持ち出す必要がないくらい巧妙に自分から自分自身を隠すのも、どちらも最低だと思うようになって、それで前者でしかありえなくなってしまった僕がやれることと言えば、ちゃんと宗教を死滅させるために努力したことがあるのか、と後者に行動で問いかけることなんだと思う。

いろんな方向に気持ちや考えが振れるのはこれまでと変わらないけど、けっきょくのところ、すべて、気持ちがいい酔いをしてるのか、悪酔いしてるか、ということに過ぎない、と思えるようになった。だから躁っぽいときも、今までのような「この時間のために生きているんだ…!」という暑苦しい感慨も捨てて、今感じられる限り・思いつく限り・やれる限りのことをやるのだ、という目線でいる。

人より酔いの波が大きいだけで、それはほかのいかなる違いをも同時に意味したりはしない。人の酔いから溢れてくる言葉はぜんぶ嘘じゃないし本当じゃない。

いい酔い/悪酔いというのは自分にとっての快/不快で、それ自体を優越して問えるよさ悪さというのは基本的にない(というのが酔いという比喩の意図するところだ)が、どうしても許せない酔い方はあって、それは人という存在を無視することによって重心を確保しているような酔い方だ。自分という身体・キャラクターの外部からなら、いかなる資源をも強奪してよいと思っている、というか明示されないもののほとんどを資源として考えたことがないような人は割合として大きいし、人がいっぱい集まると全体の仕組みもそういうふうになる。

バランスを取ろうとするのはとても危ないことなのだ。

人を無視できる人の分まで自分がバランスを取ろうとすると程度の差こそあれ絶対に逆効果にしかならない。だからあくまで、やれるのは敬意をもってその人から遠ざかることだけだ。

自分と、自分が人だと思える人のバランスを守る。まあ、毎月自分に向けて(?)一気に一万字書いてしまう=書けてしまう人がバランスが取れているわけがなく、つまるところバランスを取ろうとしている人は少なからず不全に陥っているのだ。これは、追い詰められて考えるほかなかった人しかその問題を徹底して考えられない、という人権問題で入れ替わり立ち代わり現れる問題と似ていて、「万事仕方がない、それでも」という話だけれど。

僕はずっと、うれしい、かなしいとすぐさま出力する自動機械(であるところの自分)を憎んできた。その結果、無限の否定の運動のさきに、復讐の機械に成り果ててしまったように思う。
それもまた「万事仕方がない」ことの一つだとして、ではそれを超えるにはどうすればいいのか。たぶん僕の次の関心はここにある。

ただただ、目前にあらわれてくる不可解を抑えつづけるために普通のことを喋りつづけるか、普通でないことを喋りつづけて不可解を一身に背負い、沈黙のうちに否定を身体に刻印しつづけるか。この二選択を超えるというのは、話す・喋るということを上手く辞めるということなのだと思う。

純粋な沈黙を自分に許すためには、黙っているだけでも喋っているだけでもだめなのだ。発語をやめて、うたう。うまくいけばそのあとに沈黙がやってくる。

その都度の錯乱は、後になって振り返ってからでないと必要だったとわからない。これを福音であると感じられるかどうか。

つくたんのこと(あるいは、つくたんによって育てられた僕のすてきなところ)を、ちゃんと信頼してくれる人たちがいるし、最近増えて、これからも増えるような気がする。それに対して、(ありがたいなあ)とかより、(そうだよな)というその人への励まし?が先に来るようになってきて、なんだかすごくおかしくて笑ってしまう。でもそれは、信頼に踏み切るときのその人に、その人自身の覚悟が見えるからで、おかしいことは(おかしいくらい)起こっておらず、ありがたい(有難くはない)。





ぜんぶ間に合わせるよ








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?