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『遊びと人間』:右体9

カイヨワ『遊びと人間』の読書ノート。

遊びは次の六点によって定義される。
1.自由である。遊戯者は強制されないゆえその魅力的な楽しみを享受できる。
2.隔離されている。時間的空間的に明確に範囲が定まり、参加には明確な合意がある。
3.未確定である。前もって結果はわからない。
4.非生産的である。いかなる意味でも新しいものを生まない。
5.規則あり。日常や社会の通常法規は停止され一時的に新しい法に従う。
6.虚構である。遊戯者はこれが非現実であるとの意識を持つ。

遊びには人間の本能がもっとも明確に表れる。遊びが、強力な本能を満足させ、社会の秩序を保護する機能を有するからである。それは社会全体を規定するゆえ社会的本能とでも称されるものだ。
四種が四の本能と対応している。
1.競いの遊び。自己の能力にのみ頼み他を打ち負かす欲。
2.偶然の遊び(賭け)。運命に頼り自己を放棄する欲。
3.模擬の遊び。他者になりきることで自己を喪失・疎外する欲。
4.眩暈を呼ぶ遊び。知覚の安定を一時的に破壊する欲。
これらは、ある一つの文化あるいは文化的領域において、どれか一つが優先して表れている。

では文化と遊びとの差異はいかなる点にあり、両者の関係はどう扱われるのか。

遊びと文化とは原動力を一にする。どちらが歴史的に先行していようと、どちらからでも説明を加えることができ、また、両者は互いに還元できない独立のものである。たとえば制度や慣習の変革は遊びの規則の変更=革命として理解しうる。出生という偶然が地位をもたらす封建制が、能力と努力によってそれを獲得する試験制へ、と民主化が起こる。しかし現実のこの移行は漸進的で完全でない。遊びが他から分離され原則が絶対的に領域を支配するのに対し、文化は混乱し錯雑して境界をもたないため、原則は超越せず、一つの活動は多様に結果する。

かように遊びと文化とは隔離され性質上でも鋭く対立することを必要とする。この境界が守られないとき遊びと文化双方に「堕落」が生じるという。本能は日常から分離された遊びによって満足させられており、遊びは独立で、無用で、そして一定の限度を持つがゆえにその役割を果たすのだ。
カイヨワは「遊びの堕落」に一章を割く。たとえば、模擬の堕落。他者であるかのようにふるまうのではなく、「他者であると信じる」ようになった者、他者となった者は狂人と呼ばれる。彼にとって現実は頑固で不可解で挑戦的な装置にしか映らない。あるいは運の堕落。占いによる強固な迷信が一つの例である。重大な挫折などにより自分の能力に見切りをつけた人は運命を著しく当てにするようになる。この心性は人間の力を活用しようとする勇気を奪い、虚構の照応体系を人生に機械的に適用するよう誘惑する。カイヨワはこの症例の背景に過度のきびしい競争とそれが要求する不断の緊張を想定している(これ自体争いの堕落として考えられる)。要するに、堕落により人は自己喪失に陥ってしまうのだが、興味深いのは、遊びを含めた文化と人間との関係が、本性上、人間から適応するものとして考えられていることだ。秩序と混沌とのあいだを揺れるのは文化の時間の相においてであり、人がそこに影響を与えることはなく、従うことができるかできないかのどちらかでしかない。この図式において人間の超制度的な行為が考慮されうる余地はない。ここでは自然―動物の適応性、一体性が社会―人間との関係にも見立てられている。

さて、カイヨワにとってこの見立ての技法は社会学に奉じている。つまり、この書物の仕事の本体は、遊びの分析ではなく、上に明らかになった原動力と社会との根源的な関係について問うことなのである。

ここにおいて、社会を二つのタイプ、原始=混乱社会と計算=秩序社会とに分ける。前者と後者との対比および前者から後者への移行は、二つの根源的に結合する本能のペアを重ねて説明できる。原始社会では模擬と眩暈の、計算社会では競争と偶然との共謀関係が支配している。

ここでは原始社会の模擬と眩暈との結合についてのみまとめる。

どの文明にもみられる「仮面」という道具が「憑依」を導く。憑依とは模擬が眩暈を導く現象である。「亡霊が突如出現すると、それは魔力の出現と同じであって、人は恐れ、とても手に負えぬと感じる。そこで彼は一時的に、怖ろしい力の化身となり、それを真似てみせ、それと同一化するのだ。が、やがて気が変になり、錯乱にとらわれ、自分が本当に、巧拙はともかく最初は変装によって懸命に似せようとしていた神そのものになったと信じる。状況は一転して、怖がらせるのは自分であり、恐ろしい非人間的な魔力は自分なのである」。あらゆる規範や法規が反転し、眩暈、興奮、流動が支配する一時、すなわち祭りが周期的に訪れることで社会は生気を取り戻す。

同時に仮面は、常態での統治でも重要な役割をもつ。しばしば成人儀礼は、仮面の向こうにいるのは部族の古参者であると種を明かし、そして、恐怖を与える側に加担するよう青年に仕向けるものである。さらに、一般人の上位に信徒団、いわゆる秘密結社が存在する場合には、彼らは俗信や畏怖から解放されており、逆にこれを利用して統治をし、あるいは統治のために秘密を保護する。仮面による憑依の力は、かように秘密の保護、独占によって守られているのだ。

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