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言葉、その他:山根への応答

この文章は、僕の幾人かの友だち全員に宛てられている。厳密に言えば、僕が百時間以上真剣に話をした家族恋人以外の全員に宛てられている。そしてこれは、彼らの一部を読み手に紹介する文章でもあるし、僕がどうしてこんな場所に十数万字も形式の定まらない文章を書き続けてきたかを考えるための文章でもある。

今、つまり2024年7月12日の1時11分ごろ、俺は我慢できずにこれを書いている。奴についてなにか言いたい。何を言いたいかは、まだわからないので、出てくるものをすべて言いたい。

山根のnote

直接の原因からいこう。ある友だちが「福田」という題で文章を書いた。応答を求めているので応答する。ここで応答するのが最もふさわしいと理解したからそうする。山根とは友だちがいる:右体3に登場するGOOD VIBRATION山根と同一人物だ。高校の同級の親友で、ひどい飲み会をひとりだけで助けてくれた。なんとかしようという意識があるのはこいつしかいなかった。事情と言える事情はそれだけだから、興味があればこの二つの記事を読まれるといい。

大学に入る2022年の春、もう一人の親友と三人で、大阪と金沢とを自転車で往復するという旅行を計画し、実行に移し、失敗した。そのこともInstagramに記録してある。死にかけたから、死ぬほどたのしかったと言える。そういう種の体験は他にない。それも少しだけ見てみよう。要するにこういう仲だ、というのが分かるだろう。

琵琶湖を過ぎて山を越えたら敦賀に入ることができる。道の駅で腹ごしらえをして山に挑んだ。歩道は雪に塞がれて進むことができないので、車道の端を自転車を押して登ってゆく。馬鹿に大きなトラックが轟轟と音を立てて後ろから迫り、そして追い越す。なんど繰り返しても慣れることができずそのたびに冷や汗をかいた。鈍重な鉄塊は進行方向を変えるよりも簡単に人肉をミンチにするだろう。

2022年3月18日の投稿

さて応答へと移ろう。山根は、僕のことを「なにか、巨大なものだと思っていた」。そして「あいつほど考えている生身の人間に出会ったことがない」とも言う。

この認識は、彼が自嘲するのと同様、僕も間違っていると思う。当時も今も勉強がちっともできないし、一般的に言って仕事、つまり契約を履行するかたちで知識や物を生産することも、彼より苦手だ。

彼が捉えるところの僕の「巨大」や「考えている」さまといった印象の実体は、つまらないものだと思う。すなわち、思いつめる能力と、軽い冗談を口に出す能力、そして冗談を冗談にしては冗談じゃねえという程度に(?)広げてしまえる能力、という三つの能力の組み合わせだ。思いつめる奴の冗談が面白いというのは珍しい。軽い冗談を言う奴で一つの冗談=思いつき=妄想に執着するのは珍しい。ただ、その珍しい組み合わせを持ち、そのことに少し自覚的であるゆえに、アピールしたいという嗜好を持っていただけだと思う。

いつどこで/書く話す、といった区分けをせずに、人を単純に言語機械として見たとしたら、みんなちゃちすぎる。筋が通らないし冗談みたいにヘコヘコしている。だっさいなと思ってしまう。でもそれは、身体があって社会があって、人は出力される言葉とイコールではないからだし、筋が通らないことを言ったり書いたりするほうがうまくいくからだ。なぜうまくいくかというと、一般的に言って、人は人の言うことを理解しないしそもそもする必要がなく、誰が誰に従うかということしか実際的には重要じゃないからだ。

もう何を言っているかわからないと思う。でも、人の出力する言葉の総体にしか興味がないのはわかってもらえるだろうか。生身の人間は行動しているのであって、言葉を凝視してそれだけで真に受けたりしない。ほとんどの人は従うのに都合がいいかどうかという基準に照らして言葉を透かそうとする。

「お前みたいな話し方をする奴なんて他に一人もいないよ」。そう何度言われたか分からない。たいてい何時間もぶっ続けで話して、やっと自分の感じること考えることが分かってもらえたなと思える頃にそう言われる。そうなると僕は、冗談じゃない、あと一歩じゃないか、と訴えてきたのだが、今はそれでいい、それがいいのだと思っている。

ちゃんと話し尽くせたときというのは、わかりやすい解決や心の底からの共感といったものが生じてくるわけじゃない。僕が満足するのはむしろ、無限に話した結果として「そういうことを話そうとしていたのだったなら、私には到底わからない」ときっぱり悟る地点だ。いつだって、僕をなんとなくわかっているようなふりをしたり、距離を取ったりするひとに苛立った。心の底から呆れかえられたときの安らぎこそが、僕が挑発的に喋ることの根本的な動機としてある。そのための、本気で理解しようとして話す五十時間や百時間を共有した人のことをここで僕は友だちと呼んでいる。二叉路第十一回でそれをまさに実践しつつ語っていると思う。

小池耕は(こいけ・こう)と読む。言葉しかみていない僕とは対照的に、出来事をみている人だ。起こっているときに、起こっているなあといつも言っている。当たり前だが、言葉も物だ。作品がこの本に載っているから、書き終わったらLINEで送ることにする。

山根は「「喧嘩」がしたい」と書いている。彼からしたら、僕はいろいろやっているように見えるだろうし、ヒリつきながらやれているようにみえるかもしれないけど、ぜんぜん足りていない。お前よりまともでおもろい奴なんてどこに行ってもいない正直。同じくらいまともな奴とか、おもろい奴はいっぱいいるけど、同じくらいバランスを保ってる奴はいない。みんな、おもんなさすぎる。ひどい言い方に聞こえるかもしれないけど、要するに上に確認した定義の友だちなんてそうそう増えないっていうだけの話にすぎない。教室にいたときと同じで、人のことちゃんと見てるやつなんてほぼいないし、どこに行っても僕がやることはいったん別物として扱われる。

別に友だちはいるし、上の定義のだけじゃない。ぼんやり一緒にいる奴も僕にとってはとても大事な友だちで、むしろそっちのほうが身体には合っているとすら思う。でも喧嘩がどうしてもしたい。それは、最近どうしようもなく感じる。ヒリつきたいよ、ヒリつこうや。

人は、人のことを見ていないのだったら、じゃあ、何を見ているのか。様式を見ているのだと思う。分かりやすいのはミームだ。教室では下劣でろくでもないミームを浴びていたのは一緒だったけど、ミームをただ使っている奴と、ミームから逃げようとしている奴とに分かれただろう。ミームの習得にコストがかかるかどうかという区別があるだけでどれも一緒だ。

何かしらやり続けている人より、ふつうに生活してるだけの奴と話すほうがおもろい。これは変であるようでいて普通のことだ。これは、ミームに閉じて行ってしまうことに根本的に窮屈さを感じるからだろうと思う。何でそれやってるの?何でそれをやらなきゃいけないの?理由なんかない。だからなんとなく生きてたほうがいいんだけど、それができないから僕は虚飾を張っているだけだ。でも歯ごたえがあって遠くの人につながるための(つまり歴史を広げる)ミームはあるから、それをやりたい。

ミームに寄りかかって歪んでいくことはある意味では易しいことだ。

さて最後に。この文章は、山根だけに、山根についてだけ書いているのではないのだった。一方向に絞れていく、しかも至極つまらないような様式化とは違った奇妙な例として、ある友だちを挙げておこう。どこかのタイミングで書きたいとずっと思ってきた。ギャンブル依存ならぬ募金依存症になっちゃった、らしい。面白すぎるどういうことか。

「今日は一日何もしなかった……」という罪悪感は〈存在しないはずなのにあるように感じてしまう感情〉として処理されて消えていくが、見方を変えてみると、これはれっきとした金融商品として取り扱える。しかもこれがひどいアクシデントとして発見されるというのがいい。

例えば意地でも毎日15分の英語学習するぞ!という強い意思があったら毎日の固定費として300円を設定する
そして英語学習をしたときにその日の300円をキャンセルすればいい!
こうすれば英語学習をやる動機づけになるし、仮にやらなかったとしても罪悪感が勝手に募金にアウトソーシングされているのでやらなかった自分を責める必要もなくなる

他にもバイト先でミスしちゃったときとか、言わんくていいこと言っちゃったときとか、いつもだったらそれにくよくよ後悔して作業に手がつけられなくなるのだが
そういう時に募金すれば
「自分がミスったおかげで50人が飯を食えるんだな〜ミスって良かった〜」
と最低の合理化をして自分を納得させることができる

尋常たる日記


僕は人に宛てて書くのなら、いくらでもいつでも書いていられる。
それは喧嘩がべらぼうに好きだということになるか。




について・その8


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