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収集30 M1

2023年12月24日はM1グランプリ2023が行われた。

感想がわくわく湧いてきた。いい意味で、M1の優勝には向いていない漫才もたくさん見れた気がする。とてもいい意味で。優勝的な漫才もたくさんあって、おもしろかった。

優勝的なダイナミズムも面白いけれど、そのままの面白さも面白い。ただし、私の面白さを発揮する限りでの面白さが優勝的なダイナミズムを伴っていることは結構締め切りと運のバランスで、しかし、その逆はほとんど難しいと言っていい。やりたいことをやるしかない。そのなかでなんらかの普遍的な型が見つかるかもしれず、そうすれば優勝的な説得が生じるが、そうでなくてもほかの方法で説得して優勝してしまうというのもある。

(優勝的な求め方をされるようになってから)二回目、三回目になって、「難しいところになる」の段階に入るところを、強く弱く噛んであげたり、待ってあげたりということを、お笑いってしてくれないというか、スピード感だけが説得力なので、難しいなと思う。その優しさを持ってしまえば間が死ぬので、僕らはそろって「間抜け」になってしまう。でもその限界点を横に置くとしたら、どんどん優しい大会になっている気がする。審査員を含めて持ちつ持たれつで評価を作り出そうとする雰囲気がどんどん嘘みたいに素敵になりつつある。海原ともこがかっこよかった。

特に真空ジェシカはいつもより整然としていて、今まで拡散していく荒々しさがあってこそ、優勝的なめぐりあわせをこれまで与えられていたのだなと気づく。インターネットミーム的な拡散していく、しかし同時に、迫真であるようなバランス。今回は何かに乗っている感じがしていた。それ自体に何か言えるわけでもない。単にそういう段階だというだけなのだ。僕らはオズワルドにもずるい求め方をしてしまっているような気がする。

湧いてくる面白さを信じる限りでの面白さと、優勝的な作為とのあいだで揺れる。揺れるときには変化がある。僕らは変化を求めている。でも求めている変化と求めない変化とを分けている。
最初から説得してしまったコンビもいる。そうでない場合、揺れるコンビと揺れないコンビがいる。僕はずっとあれをやってくれるからし蓮根が好きだ。誰よりも面白いと思う。
でもやっぱり、僕らは最初から圧倒的に説得されることを望んでいるのだ。そのことを問題にしても仕方がない。葛藤が(僕らの見える範囲で)時間的に展開してしまうのは不利で、それゆえに決勝とそれ以外という疑似的な舞台上/舞台裏が用意されているのだと思う。僕は霜降り明星が、あのとき、あの強度で登場したことは僕たちにとって途轍もなく大切なことだったと思っている。その後の説得性も含めて、今の(他のあらゆる世間とは対照的な)お笑いにおける優しさを前提せずに霜降り明星は舞台に上がってきたし、そのことを僕らに気づかせなかった。

誰もが誰かに言われるまでもなく、面白さに奉じている。

すごくうるさい話をしてしまっていると思うけど、これは人(にん)の話なので。人の話であるということは、僕らの話なので。

以下Xのポスト。みんないつも、縮こまっているか、壊れているかどちらかなのに、こういう時はわりと自由にやれているのがうれしかった。だから結構投げたし投げられるようなものが割合大きく浮かんできた。まだXにも希望はあると思う。

群像の連載「言葉と物」は、今年出て今年読んでいるものの中でいちばんおもしろい。率直であることと挑発的であることが両立していること、あるいは、率直であることがそのまま挑発的であることになっているようなレベルで書くことを最低限の条件として書く誠実さに心を打たれている。やはり批評は面白い。批評は死なないでいてほしい。特に1月号の第6回「いま、書くことについて」は面白かった。
なんだっけ?
わけのわからない言葉がたくさん出てきてうれしかった。非ユークリッド幾何学②?


敗者復活の話もしたい。

ドーナツ・ピーナツ好きすぎる。このホステスの「せたろうてまう」のネタの体重乗ってる感じ、いつかの三回戦かなんかで見て、憑依がすぎるだろうと思ってこわかった覚えがある。じっさいのホステスになっているというよりも、そこにあたらしい人が出てきちゃっている感じ。ボケの人、ホステス、ヘルパーみたいな特定の女性性の発現と相性が良すぎる感じがしてて、その性質ってモグライダーの芝とも違っていて、どんな専攻なんだよ、とずっと面白い。

ヘンダーリンおもろすぎる!!!数年前のひ弱な感じどこ行ったん?!?!
ツッコミの、弱そうなほうが弱いまま(相対的に)強い感じだったのが、ボケのひとが見た目と声と釣り合うかそれ以上くらいに強くなってて、しかもツッコミも強くなっていて、ドライブしていく感じがたまらなかった。ストレッチーズもたまらなく好きなんだけど、ボケの、(これ何がおもろいの?)みたいなわかってない顔が好きなんだと思う。こっちに振り切ってくれてありがとう。
このサイコパステイスト、完全に安定的で、かつ、ちゃんと狂ってる人格が、ずっとやりつづけているシステムと格闘しているという図、なんなんだろう。大声で狂っても、この人サイコパスキャラやってるなっていう反省が生じないこの快楽、やっぱツッコまれてるときの顔がやばすぎるからやと思う。「なんか今日しんどいな」がぜったいに狂気を一般化することを許してくれない。

実際的なレベルではぜんっぜんタイプ違うんだけど、狂気がいわゆる狂気感を想起させないという組み立てでのサイコパス漫才がたぶん僕のツボで、しきりにとろサーモンを思い出していた。漫才師ではとろサーモンが一番好きだ。M1、2017の、あの危ういバランスが決まった感じ。
一本目の旅館の前で死んでいたカマキリの話とか二本目のおならで母が死んだ話とか。声も規範性もマックスのつっこみのおかげで(こいつは頭がおかしい奴です)と無害化できているように見えて、解毒はエピソードの次元だけであって、口調の不安定とかが独特の浮遊感をつくりだしてまとわりついてくるあの怖さ。
テンションと声の強さの不安定性がその気持ち悪い面白さと不可分であるような久保田の危うさを、ずっとちゃんと強い大阪弁で迷いなく諫め、正気に戻すふりをして、その実、転がしていく村田。正統的なツッコミのようでいて完全に共犯関係なのが、しかも共犯が成功するのは久保田の不安定性の安定性(!)次第というのが、ありそうもない構造だなと思ってびっくりする。

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