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収集18 順序

どんな言辞も説明不足であると思う。
聖書も授業のパワーポイントも行政文書もおはようツイートも、どんなに量が少なくても多くてもそうだ。
なんらかのボリュームと体裁を取ってしまったら表現できない領域が生まれてしまう。
そうであるならば、伝わりやすさや量の過不足が言われるのはなぜか。と言うと、

それは、言い足りなさへの配慮に差があるからである。

言い足りなさへの配慮には差があり、改善の余地がある。明確に差があり、上下の限度がある。

どれくらいの分量で書くか、どれほど推敲したか、どの言語で、どの文体で書くか、どの媒体に書くか、誰が書く(誰に書かせる)か。

これらには先験的な基準はないのだが、それに対して、わりと確たる基準としてあるのは、順序だ。

言うべきことには順序がある。

たとえば、「アメリカ」を説明するとき、「ジョー・バイデンが大統領である」ことよりも、それが「国である」ことのほうが先に言われる必要がある(もちろん、それがあくまで当然のように知られているときは言わなくていい。それが配慮というもの。言わないという説明の配慮)。それで、「民主主義国家である」ことと「ーーが大統領である」とはどちらが先なのか、というのは難しい。

この一般的な順序を示し、あるいは忠実であるのは、百科事典という種のテクストであり、アメリカに限らずたとえば、「南北問題」というような〈論-問題〉においては、「まず読むべきもの」として主要文献が示される。

「国であること」は見落としようがないように感じられるが、まず「読むべきA,B,C,D」のうち、CやDを落としてしまっている、しかもずっと何年も気づかないということはすごくありそうなことで、そうした偶然性を減らしアクセス性を均すのが百科事典というものだ。

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