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8月のつくばのこと

夏が来ている。もはや半分を過ぎただろうか。
今日から10月の頭までつくばを離れることになるので、このタイミングでも日記を書いておくことにする。大阪とつくばとでは宛て方が変わってくるだろうから

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大阪は、とてもとても遠い。
でもそれはどうやら、大阪からみたときのつくばについてもまったく同じように言えるらしい。


持っていく本


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眠れない日がよくある。
入眠には、心地よい疲労感が必要だ。それが足りない日がよくあるということだ。入眠を適切に準備するための特別な疲労を、ダメージを、引きつける必要がある。ダメージ。ダメージの反対はダメージだ。ダメージを裏返したところにはまたダメージがある。そこからはどうやっても抜け出すことはできない。外部はない。身体があって、死にたいと思うことは、ダメージの渦から出てゆこうとすることに等しい。それはまちがっている。まちがっているというよりも、意味が通らない。意味が通らないことはやれないので、やろうとして考え始める時点で世界が存在しなくなっている。そこにはなにもない。なにもないところには住めない。住めないところでは長居しないほうがいい。長居できない場所のことばかりを考えていると眠れなくなる。眠る必要を身体が感じなくなってくる。もちろん身体はダメージを受けている。蓄積していく。偏ったものが蓄積していって、身体が偏っていく。偏っているとき、その場所はもう元には戻らないくらい擦り減っているのだ。どのみち、どんな部分も、どんな全体も、一秒前と同じでないが、それでも、回復をして、ダメージを受けて、それでもまた回復をするから、消えていくということはない。それぞれの部分は、失われつつも、消えるということがない。大まかなパーツではなくて、もっともっと、根源的に、区別そのもの、それが、それぞれ、活発になったりする。でも、身体が偏っていくと、ほんとうに消えてしまう。消えてしまったものは、どこにもなくなる。消えてしまったもののことしか考えなくなるともっとだめで、身体もその方向に導かれて行ってしまう。

そして、よく夢をみる。
この半年は記憶に残る夢は数か月に一度なかったのに、鮮明な夢を毎日のようにみている。起きぬけにそれを思い出しながらノートに書く。テストやレポートが立て込んだ時期を過ぎてから、眠る時間がどんどん後ろにずれていって、この一週間は4時や5時に眠ることもしばしばだ。それくらいの時間になるとはっきり外が明るいので眠りが浅くなる。眠りが浅いと如実に鮮明な夢をみやすくなる。それを半分たのしんでもいるが、もう半分では日中のあいだ力が出ないので困っている。いろんな夢をみた。あるときは、いろんなかたちで叱られつづけた。目覚めてからその一つひとつを思い出すことはできなかったけれど、叱られの絶えなさが昼になっても夕になっても身体を重く縛りつけていた。ずっと叱られないように生きてきたという人生の半面を、そしてその生き方を裏返そうと必死で叱られようと生きてきたもう半面を思い出して吐きそうになった。またあるときは、トイレをして水を流すときになぜだか百円玉を二枚便器に放り込んだ。はっきりとした必要を感じてのことだった。前日の出来事に心当たりはある。僕は大学の寮に住んでいて共用の洗濯機を使っているのだが、その利用料が100円から200円に値上がりしたのだった。これが8月入ってすぐのことで、いつものように百円玉を一枚入れてスイッチを押した僕は、洗濯機がいつものように動き出してくれないので思わず凝視した。蓋の傍らの液晶に赤字で「100円」と表示されていて、その上には「1回200円」のシールが貼られていた。おそらくすこし前までそこには「1回100円」の表示があったのだろうが、今になってそれを想定するだけで、まったくその心当たりがなかった。要するに、一年か一年半ぶりに洗濯機に、あるいは洗濯という営みに当惑したわけだ。

しかしこうして、吐き気なり当惑なりを書けている今というのはそのいずれからも抜け出せたから書けているのであって、夢の混乱、もっと言えば生活の混乱あるいは感情の混乱はひと段落ついたのだろうと思う。一週間ほど、起きて向かうべき場所に向かうだけで精いっぱいだった。今は自分の中に流れがあって、それを感じるだけでものごとを操作できてしまう。毎月7日動けなくなって特にそのうちの3日死んで、そこから動き出して新しいことをやり始めたり言い始めたりしていて、動けないあいだにきっと大切な何かが自分の中で醸成されているわけで、後から振り返ればそれでしかありえない日々だったとしか言いようがないけれど、それにしてもそのせいで間に合わなくなるものごとが多すぎることにいつもうんざりしてしまう。今日は朝に目覚めてから起き上がるまでの朦朧のただなかで、昨日読んだものや感じたことがまったくあたらしいかたちで編み直されているのを感じたりして、夢の鮮明さそのままに混乱だけが抜けたようで甘美な感触だった。

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まずは何よりも、素直に考えて、素直に生きることだ。この二つを片時も手放さずにやり続けることだ。そして素直にやるのがどれほど難しいかを噛み締めつつ、歩みをすこしずつ、ほんとうにすこしずつ加速させてゆくのだ。そうすれば、特定の技術はついてくる。あってもなくてもいいものは全部後からついてくる。そう信じることだ。確信を持たないと、掴めるものも逃してしまうから。


むずかしいことしかないが、それゆえに、希望しか残っていない。


午前三時・すき家・大盛・群像


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0801
子供の頃どうやって遊んでましたか?と聞かれて、何も思い出せなくて焦った。僕の中に積み重なっていると思い込んでいる無数の経験が、実はどこにもなくて、僕はいつからか空になっているのではないかという考えが瞬時よぎりさえした。そんなことはないにせよ、僕が経験の諸相をそのままに、その微細さにこだわって積み重ねているかというと、おそろしくそうじゃないなと思う。それよりも、僕は何らかの契機にかなりの重点を置いて記憶を構成している。このとき思いきり僕は沈んでばらばらになった、このときばらばらだったものが完全に一つの像になって僕は変わった、というように。断絶に近い経験を前景化している。

0807
勉強会をやってみた。私性をめぐっての包括的な評論を二本取り上げて、それについて僕と小池が30分前後の発表を受け持った。出来としてはぜんぜん悪くなくてこれからが楽しみだと思ったのだが、それよりも、こんなに分量が多くかつ仰々しくやる必要もないと思った。とにかくやり始めて、そして数を重ねることに集中したい。隔週で僕が勝手に題材を決めて、同じくらいのボリュームの発表を打ち続けるとか、そういうのでもいい。一回の分量が多く展開領域の広い映画オールナイトとは違って、勉強会は10回くらいやらないと効果が薄い気がしてきた。今のボリュームで月一回だと今年いっぱいかかっても5回しかやれない。それだといろいろと遅すぎるかもしれない。あるいは僕自身の事情もある。今の日記以上のまとまった分量としっかりした形式の文章を書いていこうとか思っていたのだが、やりたいことに引用力とか構成力とかがぜんぜん追い付いていないのを感じていて。口頭の即興性のなかで力を養っていくのが効率いいはずだし、たぶん僕に向いてもいる。まったくもって勉強が好きなタイプじゃないから。Twitterのスペースで打ってみるかな、一度。そのときはつくたんには早めにリマインドします。

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僕がながいあいだ考えてきたさまざまのことがらは、実はすべて同じ問題を繰り返し問うていたに過ぎないのではないか。この数か月で何度かそう思った。その都度、その問いが何であるかをあたかも自分が知っているかのように紙に書きつけみて、うまく言い表せたと思いつつ、同時にそれとおなじくらい、大事なところを切り捨てているような感触をぬぐえなかった。内にいながら外から問うことはできない。それはしごく当然のことでありながら、一方では、半分浮いてその中間に身を置くような自分をつくり出すことはできる。根底的な問いを抱えるにあたって僕が指針にしてきたのはその感覚だった。ずっとこの方法らしきものを方法と呼びならわすことにも、それが的外れでないことにも、迷ったことはなかった。ところで、こうしたアクロバティックな問いがまさに生きるということの中に挟み込まれるとき、さらにもう一歩引いてその問い方を問うことによってはじめて、やっとその危うさは実を結びうるに至る。この徹底的な自己言及性こそが、アクロバティックであることの本質的な条件なのだ。原則的でない問い方のうち、単に危ういものとアクロバティックなものを分けるのはこの点であって、この差異を前提しないならば、考えることの総体は、自閉か崩壊かの二択になってしまう。もっとも、僕がこうした整理を振り回すにいたっているのは、そんなはずはない、その二択しかないなんてことは到底受け入れられないという感覚に導かれてのことだが。
では、僕が問うてきたことは何であるのか、すなわち、僕とは何であるのかを書いてみたいと思う。それは、「結局のところ、何が何に捧げられるべきであるのか?」ということだ。そして、この問いに答えるためには、原初的な定式化をしたあとで、改めて問い直さねばならない。まず、「何」に当てはまるのは何であるか。それは、1.神2.人3.それ以外の三択だ。まさに生きられるところの、まさに出会われるところの現実において、どれがどれに当てはまるか?どれが人であって、どれがそうでないか。どれが神であって、神でないか。神についてもう一言加えるならば、どれが神であるかという問いかたはできない。あれもこれもそれも-でないという確認によってのみ次第に明らかになるという性質をもっているからだ。そして次には、この三項はいかなる関係であるかが問われ、それは直ちに、一番上の問いの答えにつながる。ちなみに神を項として含むために、この問いも何でないかがわかるという形でしか明らかになっていかない。こうした問い方を通じて、捧げるとはどういうことかが考えられることになる。
三角形をかく。するとゆがむ。もう一度かく。するとゆがむ。何度かいてもゆがむ。必ずゆがむ。完全な三角形をかくことはできない。僕の無能力と、僕の経験の不足とがこれに関連はするが、突き詰めてゆくと、ゆがみは、神が完全であること、言葉が不完全であることによる。すなわち、僕は言葉によってしか知ることができず、かつ、言葉は行動ではない。言うことを行うことも行うことを言うこともできないのである。もちろん「見かけ」ではできるし、できているように感じることもできる。しかし証が証するところに本質はない。神とはこの根底的な不完全を示すためのレトリックなのだ。そのまさに全体を崩壊させるところの超越的なレトリックを思考の基底たる項に埋め込むことによって、はじめて思考は可能になる。ここにおいて上で触れたアクロバティックがもっとも純粋なかたちであらわれている。

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機関誌めいっぱいやろう

去年の夏休みは春Cの授業が終わった翌日に帰って、みんなで大洗へ出かける予定があってその前日に帰ってきたから、2か月弱大阪にいた。今年の春休み、3月のバイトのシフト希望表には4日しか〇をつけず、そのあいだ遠出のほかは大阪にいた。大阪でできるだけ多くの時間を過ごそうとしてきた。今年の夏も一か月。そのあと免許合宿で2週間強鳥取にいるから、次につくばに戻るのは10月に入ってからだ。
だが、いつまでもこうしているつもりはない。春あたりから、これはながい離陸の最中だと思うようになってきた。僕は、ひとりで暮らしひとりで選んで、なにかをする。それを楽しむ。自分で生きるということをやり始めている。誰でも意識のうえでは自分が主体であるような気がしているが、実際は何かに促されて動いている。僕はここにいる。大阪にいると同時につくばにいることはできない。そして、大阪に身を置く必要をあれこれ感じる。それは一つのわかりやすいあらわれだ。そのことは、僕が土地に、血に、教室に規定されてあることをはっきりと突き付けてくる。僕はその三つに対してきちんと向き合いたい。逃げたり無視したりすることははじめからそれらに主導権を譲ってしまうことに等しい。僕は選ぶ。何もかも自分で選べるようになるつもりでいる。だから負い目を放置しない。できない。
そのために、僕は今年の夏まではできるだけ大阪にいたいと思う。来年のことはわからないが、そのとき、今つくばでやっていることが、今よりも大きくそして実体的に継続しているだろうことは確かで、去年や今年ほどの長さでつくばを離れることはないだろう。そうなるだろうことは僕の中で決まっていることだ。この夏は僕の離陸にとって大きな契機になるだろう。

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見ていてください
あちこちにいるわけではなくて、ここにいるので


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