歌に閉じ込められることについて

筑波大学病院前にて、12時17分到着・出発の東京行きのバスに乗る。
数分遅れて到着し、東京へと出る。

大手町駅半蔵門線中央林間行きの電車に乗るつもりで、表示のあった地下に降りたが、そこから10分歩いても目的地にはつかなかった。かなり予想より遠いところに大手町駅群は並んでいた。10分というのはたぶん長く感じすぎている。7分くらいかもしれない。

半蔵門線の前の定食屋で980円の鮪刺身定食を食す。空腹で手が震えていた。最近、腹が減るように減らない。減っていることに突然気づく。気づいたときには極端に減っている。ご飯をおかわりした。

半蔵門線各駅停車に乗って渋谷駅へ。階段を登って一直線でタワーレコードに着いた。6階にて、15時からさらさの「Inner Ocean」のリリース記念インストアライブがある。14時55分に観る場所を決めた。レコードの陳列の間に人が埋まっている。僕はステージ(と思われる設営)から2列ほど左に外れた列の真ん中あたりである。

さらさが横からスタッフに連れられてやってくる。思っていたより背が低い。
演奏がはじまった。僕の位置からはほとんどさらさの位置が見えない。中央左右にちょうど頭の高さくらいのスピーカーがあり、左側のそれが僕からさらさを隠している。最初の曲は、ギターを使わない曲で、マイクを持って立っているさらさがスピーカーの裏から見え隠れする。中央諸列前方の観客の頭でステージはモザイク状にしか映らず、さらさの身体もそんなようだったが、頭がその上をゆらゆら揺れていた。

僕にとって、音楽は記憶と密接だ。アルバムを一時期集中して聴いていると、そのあとめったに聴かなくなってもいつまでも覚えている。覚えているというのは、空でメロディを歌えるということでなしに、もう一度聞けばそのとき捉えた感触が戻ってくることの鮮やかさを言っている。記憶から抽象された、感情未満の感情のようなものが、当時よりもずっとコンセプチュアルな形で再演される。
僕がライブに行くとき、チケットを探して予約するのは集中して聴いている期間で、そのあとまったく聴かなくなる。直前に一度でいいから聴き直すということもしない。できるだけ忘れたように過ごす。そうすることで、記憶のあり方が微妙に変化していくのを感じている様でもある。あるいは、いつかふたたび感じることを予感している。再会を待ち望んでいるが、会うことそれ自体よりも、それまでの期間でしずかに忘却することを味わっている。要らないことを忘れる。要らなくないことは忘れない。結果忘れていないことが、その音楽と僕との関係において要ることだ。

続く2曲目3曲目は座ってギターを弾いたので、さらさはほとんど見えなくなった。さらさを聴いていたのは、どんな時期だったか、思い出せない。思い出したいかというと、そうでもないということに気づいてはいるが、気になりもする。そうしているうちに思い出す場合もあるけれど、今回はまったく見当もつかなかった。これがもっともふさわしい再会と言えるかもしれない。

曲を終えてMCに入った。至って驚きのない話をしていた。コロナによる創作態度の変化にも触れた。内容にはなんの面白味もなかったけれど、ゆっくりかみしめるように話すので心地よかった。困惑がまったくなかった。僕は困惑に出会うために芸術に依存している。美術館に行ってさっぱりわからないことを自分自身から隠さないというのが好きだ。けれど、音楽とりわけ歌というものとの関係はそうではないのではないか、と思い始めている。歌は本質的にデジャヴを含んでいない。デジャヴから逃れようとする志向もない。ある感情のなかに人を閉じ込めることで、時空から疎外することだけを目指しているように感じられることもある。ほかの芸術でも似ているものはあるけれど、それらには実際の閉じ込めるという力が宿っていない。閉じ込めるという図式が刻印されているだけだ。音楽だけが展開するのを許されているような恐怖というのを感じることがあって、それが僕と音楽との間に比類なき愛憎が渦巻いている理由の一つだ。

話し終えて、最後にアルバムのなかでいちばん気合の入っている曲をやって終えた。さらさがステージからいなくなると、店内にはさらさの曲が流れ始めて、何かが変わらず続いているようで、不思議な気持ちだった。さらさの肉体を、少し遠目ではあるが確かに感じることによって、彼女の音楽を少し前まで特殊な愛し方をしていたのに気づいた。ステージに上がるまえに、僕のほんの数メートル先を通って行ったから、彼女は僕の中で肉体を伴った人になった。だから音楽に対する印象もどこか変わっている。いつもライブに行くときはステージの横からミュージシャンが生えてきて、またステージの横からSpotifyやInstagramの中に戻っていくような気がしていたからか、その後聴いてもこういう変化はなかった。

レコードをしばらく物色した後、店内をうろついていると、レコードプレーヤーが並んでいるのを見つけた。ボタンや針をいじりながら、どうしてもレコードの出すであろう音を想像してしまった。まずいな、と思ったけど、しばらくコーナーから離れなかった。その時間のせいで、僕はレコードプレーヤを買う決心をしてしまった。この滞空時間がまずかった。でもそんなことはわかっていたから、いいや、と思った。現在の僕を裏付けるために直前の僕たちが全員協力してくれた。まったくどうしようもないことだ。

サニーデイのDance To Youと一緒にプレーヤーをレジに持って行った。2つで14000円である。まったく気分がいい。手渡された大袋は重量感があって、余計に気分がよくなった。帰りに新宿に行って、18時半上映のロウ・イエ監督の映画を観ようと思っていたけれど、大袋の重さが今の僕を満たしているので、やめることにする。ゆっくりゆっくり帰ろうと思った。

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