見出し画像

(日)(日)(木)(月):右体29

(日)

東京、根津へ。根津だと思ったら隣の千駄木で降りてしまった。せいで、入れたお金が若干足りなくなったが、そのことを頭で膨らませないようにしてもう一度電車に乗りなおした。すでに10分は遅れていて、さらに遅れるということを、焦りとか申し訳なさとかに繋げても無駄で、あかるい地上へとあかるく出ていくことがまず第一。そういう操作ができるのは待っている友だちがいるからだ。なんだって、気持ちが貧乏にならないためにけっこう必死にやってるんだぜ、こっちだって。おどけてばっかりじゃない。

短歌と日本画の展示、「ロスト・イン・トランスレーションの方法2」をみにいく。一周して、もう一周して、で、ふわふわしてから、あと二周くらいした。顔を見合わせてカレー食いに行くかって出てきた。

一つの作品に画像とテキストが併存すること、その効果については、普段から映画をみるときによく考えているため、それに引きつけてこの展示のことも考えようと思った。外国語の映画を字幕でみるとき、ほとんど「映像付きのテキスト」を読んでいると言っていい鑑賞態度のことがままある。つまり「テキストが画像を食う」事態が発生する。映画の場合はテキストのみならず音が加わっていて、というより、映画はそもそも「映画音楽」という特殊音楽なしには成立しない芸術なのではないかという問題があり、実際そういう側面はある。

ここでの共通の問題は、特殊な訓練を受けない限り、画像をそれ自体で鑑賞する姿勢を備えること養うことは案外難しいということで、言い換えると、僕はただ見るということに慣れていない。しかし、慣れないことと鑑賞の成立可否は別の問題だということが重要で、コミュニケーションにつなげられる鑑賞だけが鑑賞なわけではない。映画だと食われるのと違って、この展示の形式は、難しいまま、対等的な配置であることは揺るがないと思った。鑑賞をほかのものに明け渡さないことと、ジャンルを横断することが相補的に機能している気がする。

一首で鑑賞することは難しい。最近特にそのことを考えている、まず、何に照らして良い悪いと言うのか、いかに言うかという以前に、感じたことの範囲から摘出できる観点の球数には限界がある。歌会において「良いか悪いかは別にして、こういう特徴があると思う」という評が後半に出てくる(出したがる)のはその限界の意識からであって、歌を読んでいるのか、歌が利用しているものを読んでいるのか、歌が考えさせるところを読んでいるのかの境界は曖昧で、なるべくこの三角形の広さを意識して、せいぜい頭の回転を速く保つことくらいしか気をつけられることがない。ここまでは歌会の話で、対して、この展示の間ではもっと狭くかつ踏み込んで、思い込んで、鑑賞するべきではないかと思ってみていた。

短歌に用いられるモチーフの特徴について。普段僕が見渡している現代短歌におけるモチーフの多様とは別の種類のそれがそこにあり、それは日本画とのつながりによるのだと感じた。この展示以外の場での、それぞれの短歌作者の作品傾向を十分に把握できているわけではないし、作者によってもかなり差はあるので、あくまで展示から考えたこととして。

「風」「夕日」や植物、動物といった自然物、「愛」「時間」「天使」といった非物質的なモチーフの活用の多様に比べて、「名曲」「プロローグ」「扉」といった文化的な物のモチーフの展開は抑制されている。というのも、現代短歌は具体物とそれに結びついた体験の型、つまり工業生産物やサービスを通した極小かつ紋切り型の「叙事」から世界を立ち上げるものがかなりの数で作られている。ビニール傘でも、シャンプーの詰め替えでも、十円玉でもデニーズでも、ビルボードでも『Back to the Future』でも*、その文化物の規模を問わずそれに結びついた体験の質(誰でも知っていてかつひとりひとりとしてしか知らない文化物についての感慨のようなもの?)が細分化して読解される。この偏りについて最近この展示をきっかけに考えるようになって、「花」「雨」といったモチーフが可能にする叙情についてや、「花」と「紫陽花」の距離や質感の差異は「映画」と『バックトゥザフューチャー』のそれとはまったく違ったものであることになんとなく(ようやく)気づいている。

「乳液」はそれにしても異質だった。けれども、そうだとしても「桜の木の下」であるというのが、僕のこうした考えを推し進めた(込谷和登/藤村栞)。日本画と短歌の関係で言うと神崎梓/岡田周也が一番面白かった。「天使」「犬歯」の短歌における所在がうまく汲まれているように思った。

みょうに遠くまで開けている道があって写真を撮った。これ、なんだと思う?とばかり聞いていた。広い道、建物が高い道、遠くまでひとしく見通せる道。

短歌は引かなかったので、ぜひサイトでご覧ください。

(*念頭にあった短歌)

大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円
/永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

ポケットに冷たく握る硬貨あり百円玉の花は枯れない
/藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

どれが私の欲望なのか傘立てに並ぶビニールの傘の白い柄
/魚村晋太郎『銀耳』

フルチンでボディソープを詰め替える「手で切れます」を目で読みながら
/八重樫拓也「晩年」『ねむらない樹』vol.10

ビルボードチャートをちゃんと追っている友だちとポテトLを終える
/川村有史『ブンバップ』

バック・トゥ・ザ・フューチャー 僕の両親がなんか気持ちよさそうに作る僕
/佐藤翔『学生短歌年鑑2019年号』(Xから孫引き)


(日)

月一回、連続12時間くらいで映画をみつづける会を主催している。サークルでの遊びだったのがOBOG会のようになりつつあり、さらにはサークルに関係ない人もぜんぜん呼んでいい雰囲気になってきたので、僕は会ったひとに適当に誘うかもしれない、ので、適当に断ったり適当に来たりしてください。同じ監督の作品を年代順に5本も6本も続けて観るという体験はなかなか代えがたいし、明るくなってからの作品はあんまり残らなかったりする。基本的には、ふつうの体力と映画への若干の興味と、はしゃぎたい気持ちと土日をきれいすっかり費やす覚悟があれば、めちゃくちゃ楽しいです。

このあいだはタル・ベーラを観た。炭坑のロープウェイの擦れる音とか居酒屋かカフェの後景の延々とつづく喧噪とかセックスしているときのベットの軋みとか、「生活音」という把握よりもずっと大きなスケールで世界にあふれてやまない音が拾われつづけていて、ピュアに音楽を鳴らせることがほとんどなかった。それが面白くて、声って何だろう演奏ってなんだろう、この世の音って種類としてはほとんど物と物とが擦れる音じゃんかとか、長回しと合わせてめちゃくちゃよかった。ところどころスマホで録音しておいて家に帰ってきてすぐのときに聴いている。音で魅せてもいい。音楽ではなくて音で魅せているので食う食われるなんて問題圏を抜けている。『アウトサイダー』『ダムネーション/天罰』ほかタル・ベーラ作品のいくつかはYouTubeで400円でレンタルできる。

僕にとってその日目新しかったことがあって、それは映画を観て短歌をつくり散歩をして短歌をつくれたことだ(次の日に散歩をした)。パーリンカというハンガリーの果物の蒸留酒が繰り返し出てきて印象的で何首かつくり、月を観ながら何首かつくり、歌集持ってきてみんなで同じ歌を本歌取りをして、ずっとたのしかった。次の日の昼はとても暖かくて、藤棚がきれいだった。五首ここに公開する。

四/二十八

年月の肥えて絡まる首筋を見せてはじまる野外活劇

ともしびの消えたひとつは煙草だとわかる ぬかるみばかり撮っている

蜜蜂の凭れる藤か藤の凭れる蜜蜂か せわしなく見やる

明るさに身を引くように藤の花触れておどろく手を下ろしたり

ひしめきの漢字は書けずパーリンカの内から光る瓶をあおった


(木)

『偶然と想像』を観るために大阪に帰ろうと思って授業を受けている。
大学に合格したことがわかって二日くらいで、ひとりで観に行ったのを覚えている。あれは涙が流れて流れて止まらなかった。次いつ観れるかわからないからほとんど迷わずチケットを買ってしまった。


(月)

現代詩は、ポエジイという神を祭つてゐる。西欧の神みたいにみえるだけで、本質は、鏡だつたり劔だつたり玉だつたりしてゐる。よく考へるとこのことが判つてくる。このことを避けてゐるから、現代詩に、深みのある宗教詩、祈りの詩が生まれづらいのだ。

岡井隆「富士山と富士山大賞とわたし」部分

ほーん?『現代詩手帖』2017年1月号より。

僕らが知識なしにでも勝手に鏡だったり劔だったり玉だったりを思考できてしまうというのを少し信用し始めている。








(感想くれるひとありがとうございます)
(だれでも、なんでも、どこからでも、ください)

sosohungeywithb@gmail.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?