優等消費者主義

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 豊かさを失うことについて、鈍感か冷淡な奴は、そもそも豊かさというものを見いだせていないだけでは? とか、よくある逆張り的な野次が出かかって結局ツンのめって、タイピングをする。

 千葉雅也が近頃よく言っている話もそうだし、宮台真司も別の言い方で繰り返し言っている。

 僕の中の"平成性"は「とにかくおじさんが言っていることだしな...マユツバだ」とか言う。しかしまた僕の"20世紀性"は満腔の同意を示している。僕は後者を意識的に選択する。

 両者とも(特に千葉は)、喫煙を例に挙げているし僕も重度の喫煙者なのでなんかそういうバイアスはあるのかもなーと思いつつ、しかし問題は ー 現在の社会で最大の賛同者を搔き集め連帯戦線を構築しうるであろうイシューの ー 喫煙にとどまるものではない。でもそこで損なわれる豊かさとは何か、ということの説明は、自分の組成をコンマ1mm単位で保守しようという態度や、その裏返しで自分を取り巻く環境の不全さを全き他者の仕業であるとしたてあげる態度、そしてそれらのムードが社会にはびこることによって失われるところのものが豊かさだ、というトートロジカルなものになる。失われて初めて知る、という。

 とはいえ、そのようなものがはびこる過程に対し生理的にネガティヴな反応を催せていない、ということはもともと失われて気がつくような豊かさを感受できていないということなのではないか。

 このプロセスの原動力であり加速材であり、あるいはその惨憺たる結末を糊塗するものともなるモノは「優等な消費者」という自意識である。優等な消費者は科学的に正しく、衛生的で、流行に敏い。

 優等な消費者は「優等な消費者」のために売られる商品を、その事業主体が提案するスタイルに則って消費する。これはブルジョア趣味であるということに限らず、貧しさが賞揚されれば提案済みの貧しさを"自発的に"謳歌し、無事承認され、登録される。

 再帰的近代主義の従順な履行者。無論、投資して価値を高めた自分の身体は堅守する。生産者の肉体としてではなく、消費者の肉体として。(まぁ、国家が戦争近しと叫ぶことで雲霞のごとく生産される軍国少年少女みたいなものだ。"そう思え、そう振る舞え、このプロセスを再生産し、このように死ね。")

 戦時中をして、都市農村全てが戦争一色になった、という。この言葉を借りれば、現在の都市は優等性消費一色だ。無菌で無臭の空間が(俺に言わせりゃ)身の程をわきまえずに繁茂している。


 この優等消費主義のもとで見出された「心地よさ」は画竜点睛を欠くがごときものに過ぎないのではないか、と思う。瑣末なモノまでがコード化された土壌の上に設けられた「自由」なぞ、唾棄すべきものではないか、と思う。

 優等消費主義者の設計物件は、まぁ大抵自分が優等消費者の姿を借りて体験しない限りは、呼吸もままならない。こちらには優等消費主義者自体排除するつもりはないのに、彼ら(they)が彼ら以外を言外に排除している、ことを拾い出さずにはいられない。

 平地人と山人の構図で、平地人に阿る山人はいるが、山人に同化する平地人はいない。むしろ山人を政治利用するのだ。山人は、山に籠って天狗か狸になるしかない。

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