嗚呼コストコスト

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 諸コストの都合で取り残されたり放置された部品や部分、みたいなものの情緒ってモノがあり、それが結構美しい感じだったりするけど、それを乗り越える景観的ビジョンやフィロソフィーが無かった、と考えてみてもなお美しいか(まぁ、美しい)。

 生活、生活の経済...の中にあっては絶対に景観や仕上がりを徹底も網羅もできない場面がいくらでも生じる。改装工事の収支と、労働時間の勘定をしているとなおさら肌身で感じてしまう。

 時にそれらを採算度外視でドッと塗り込めていく出血サービスや労働サービスが"粋"であったりすることも、理解しないわけにはいかない。「手を惜しまない」ことが、コストを超えた生活の文化的な程度の維持を下支えすることもまたなかなか真実味のあるはなしなのだ。

 どう残すか、放棄するか、はアドリブでも結構やれちゃうけども、「文化的」ケアが"なされたように見える"ためには、①一定程度の統一性のある観点による不断の指導監督か、②あるいは汎用的な計算式/レシピを整備しておく必要がある。そしてそのディテールを実現する仕事人の存在も不可欠だ(板を切り欠いて既存の突出部分を避ける、という時のその板をキレイに切り欠く人が超大事)


 そんなこんなでてんやわんやな現場が進行している。未だにチームの齟齬(設計(プロダクト派)-現場管理(美術施工出身)-現場担当大工(リフォーム出身)-その大工の先輩筋(伝統工法派))が全面的に形となっている感は否めない。各者のコスト感覚とフィロソフィーの釣り合いはてんでバラバラな上に上下関係及び指揮系統も曖昧だ。この体制だと上記②の仕組みを持ち出す方が良さそうだが、計算式/レシピの制定が、関係者の凡そが納得し受理できるものであることに理想を措くのならば、その道も決して平易なものではないことはあきらかだ。そして理想はそこにセッティングしたい。

 理想主義者であることは結構簡単で、まぁ時に理想像をスケッチしてそれの切り売りでも飯を喰うことが出来なくも無いのだろう。ただしこの、西暦2020年の-地球上に-限られた工期と-許された予算と-必要な労働対価と-法的正統性を満たすブツを成り立たせるという条件をクリアする為に、理想が迂回し、あるいは自分の目の黒いうちに達成されないこともあることを覚悟しつつ、歩みを進め続け、そうした格闘の成果物を微温的に提示することとその情景自体が、結構生活的な美観なのかもしれない。

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