どうすれば弔えるのか

(856文字)
 振り返ると、京アニの時もnoteを書いていたhttps://note.com/kukikeikou/n/na7fcb1534ab8

 先週の北新地の事件は、それを凌駕するおぞましさを感じる。無差別殺人である以上に、一定の人を確実に殺害するということへの決意が、報道によって次々に明らかになるにつれ、である。

 どんな突然の死もむごいし、それが人為による場合の絶望的な不条理の感覚はなおひどく、それがランダムに選ばれたとなるといよいよ地獄である。その上で、突然の火災に加えて犯人による肉弾的な強い殺意が示された場合、脳裏に去来するのは何の感覚だろうか。

 相変わらずのことではあるのだろうけども今回は特に報道の上滑り感が強い。被害者の善良さ、雑居ビル火災の困難さ、犯人の生い立ち、どれもことの本質でないように思える。阿鼻叫喚、動物的に喚起される生への衝動と、疑問、憤激、火炎、黒煙、意識の喪失。

 防犯カメラの映像をもとに犯人の行動が説明されるが、被害者の行動は語られないし、下手に語られるべきではない。映画の「ユナイテッド93」を思い出す。被害者の行動を克明に再現することが、せめてもの弔いにはならないか。

 あの映画のようにテロ犯と闘ったアメリカの悲劇的英雄譚のようには描きえないが、その地獄、具体的な死のシークェンスをなぞることが大切なように感じられる。「ユナイテッド93」では、乗客の反乱が始まり犯人の一人が顔面をぐちゃぐちゃに潰されていることを思わせるシーンがあったが、ああいうものだと思う。人間の極限の悲劇的でグロテスクな行動。現場検証レベルでは生へのもがきの痕跡がいくらか判明しているかもしれない。

 それをなかなか知らせられない私たちの義務は、抽象化した死を尊重しながらも距離を置いて、ということでなく想像力で以ってその地獄を透視することだ。霊はいずれにせよ不慮の死では成立するが、絶命の瞬間を想像することを放棄しないことによって霊の成立をなるべく後ろの段階に持って行くことができる。それが、死んだ人を弔うことになりはしないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?