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 設計図懐疑主義、とでもいってしまおうか。

 設計懐疑ではなく、設計図不信、設計図懐疑主義、とにかく体感としては設計"図"に対する態度にまつわる話である。たぶん。

 目下、僕が身をおいている会社は、とある壮年巨匠の手による大きな公共施設の木工事に、施工者として携わっている。僕も大工ではないのだけれど大工工事や作業外作業のお手伝いに何度か現場に入っている。

 部材単品の持つ直角意外には一切直角のない、果てなきうねうねの外観を備えたコンピューターありきの設計物であり、正直なところ会社の規模や経験値を考えたらば請け負うこと自体が大実験な大仕事である。会社の主宰者の情熱と統率力、それに応えてくれる凄腕の大工さんのなせる技であるのだなと感心するばかりだ。

 建築の大工さんの世界に臨席して1年ほどが経ち、美術展の施工の仕事を含めたらば大体5年ほど現場仕事と関わっている。美術展絡みの仕事は作品製作となると相当チミツな話になってしまうのでどちらかというと工芸やプロダクト的な感覚に近いけど、会場設営は建築大工仕事の雰囲気と近い。

 数ミリの誤差をどういう風に呑み込んで、その誤差の痕跡を残さないようにするかという塩梅だ。

 僕が美術施工の仕事に携わった最初期、寸法/部材設計としてある作品を担当した。金属部品の複合物にピンを設け、そこに穴あけレーザー加工したアクリル板を嵌め込むというもので、CADで図面を引けるものだからコンマ数ミリの寸法を指定して各部材を発注したが、(今となっては案の定、)部材同士は噛み合わなかった。金属部品の公差に組み合わせる段階での伸びを掛け合わせ、そしてアクリル板はそもそも吸水膨張をするものであるし、そう言った全てのズレを図面に取り込まなければ有効な製作図面ではないのだ。(隙間なく嵌り合う水密レベルの部品や回転部品は高価な切削加工によるものだしそれであったって寸法許容公差を等級別に設定している。)

 建築において事前加工(木材ではプレカット)を必要とする設計にはそのように現場レベルで露呈したり生じたりするズレを考慮する必要がある。これを怠ると、ズレは規模に比例して大きくなるし、乾式で他の部材と関係する場合なんかそういう不整合は冪乗的に増える。大工さんや軽鉄,ボード,クロス屋さんは、これを現場で削ったり切ったり叩き込んだりして隙間ない仕上がりとすることを要求される。

 だから全てが現場での調整を前提としない設計をすると、1箇所のズレが全面的に波及することになるし、部材の作り直しか、その時間や資金がなければ望まれない隙間かあるいは補修材による埋め合わせが生じてしまう。あるいは竣工して間も無くズレが生じ顕在化する。

 逆にいうと設計図通りの部材と部材を隙間なく組み合わせたいなら、その間の部材は現場で加工調整してもらう前提の寸法で設計し、その時間を工程に組み込み(そしてその予算を確保さえすれば!)最も線形プロセス的な施工段取りになり淀みない仕上がりになる。削り合わせの困難な鉄骨部材は、部材長さに数センチの逃げ寸法を確保し、長穴の開いたプレートで部材同士を接合する。これを前提とすることで水平垂直でかつ強度的に問題のない構造が実現する。鉄工屋さんはこの点の感覚が鋭い。大工さんは、現場加工可能な材を取り扱うからぴったり合わせなければならない時ほど長めのものを用意する。部材というものは梱包、積み込み、輸送、荷下ろし、搬入の過程で端部を痛めやすいので、現場で切った方が確実に綺麗だし、既存部の寸法の数ミリー数センチの変化に対応できるからだ。

 しかし木材は、どうも設計者から誤解を受けているきらいがある。殊木材が、だ。手加工によっていた工芸的な仕口等加工を工場化し、それゆえ従前の手加工の分の手間を単に現場から削除できていると思われているのではないか。そしてその発想には図面が前工程に行き渡っていれば寸法も一貫されるという考えが無論前提であろう。結果として、たぶん昔よりも設計図が無謬な物として扱われる傾向があるのではないか、というような気がする。3Dで、BIMで、天文学的な情報量で以て描かれた図面に対して抱かれる超人的な信頼というのか。その部材が乾燥収縮することや、温度変化、塗膜の不均衡、接着剤の厚み、合板のケバ、鉄工の切り出しのバリetc...この辺の意識が、いよいよ感得されにくい。自分も含めて時代人として、高度に精密なプロダクトが普及しすぎてムラやスキの存在そのものが脳裏から消えつつあるのかもしれない。精密なプロダクトは大手資本が圧倒的な市場占拠に基づく量産体制と末端の安価な労働者の複合技によって手元にきているに過ぎず、工芸的な精度には依然相当の値段がつくわけであり、単純にその手数を建築規模に拡大させてみれば、総工費が想像できないほどに膨らむのは火を見るより明らかだ。

 そういうわけで、そんな設計図が一貫していようと、現場ではとうぜんフィットしない。削り合わせて、調整をする。すると断面欠損だとか言われるが、こちらとしては、削り合わせを想定していない設計なのかと噴飯する他ない。インテリ巨匠のはずの「設計サン」達がここでは極めて情けなく見えてしまうし、実際間抜けだ。安全率を見込んでおられるわけだが、竣工時に確保されるべき安全率がソレであるだけであって、施工時に必須の調整については念頭にないのだろう。起工時安全係数などをさらに設けて欲しいところだが、意匠性の観点から好まれないことは明白だ。ま、その辺の調整自体が生じるのは加工/施工側の責任と思われるのであろうが、開き直りではなく、現場で別個に立ち上がってゆく物が不整合なのはほとんど摂理だと思う。施工者の良し悪しというものは、決められた予算と工期の中でソレを最小限にとどめるか増幅させるかの差異であり、基本的には施工段階において調整そのものが行われないものはない。 ないというか、調整が行われない場合があるとすれば、それはアメリカンな寛大さを持つ設計ならではのものなのだ。シンプルに、施工の都合上良い設計は許容寸法のある設計だし、それは施工都合でモノの品位を下げるというわけではなく、確実に設計を精度良く現実化するのだ。0.5mm、1mmの許容によって無理なく負荷なく組み上がり、よく収まる。

 腕のいい大工さんは加工が正確、という印象があったけど、仕上がりのどの段階でどの程度の精度が必要かを把握していることが肝要なのだなーとしみじみ思う。空き地やスケルトン内でイチから墨出しをする彼らは恐ろしく論理的で現実的だ。そして自らは1ミリ単位での精度の実現に努めながら、次の工程での調整シロを確保する。ちょいずらし、チョイ、もうチョイ...と調整して墨壺で弾いた線もレーザーで出した線も、結局のところ幅があるから、他の人がどう読むか、どこに針を刺すか、水糸を張るか、鉛筆が、刃物の先がどの部分を突くかはわからない。引いた線には幅があるし、引かれた線の幅の概念的な"中心"を次の人が0.01mmのズレなく拾い出せる可能性は極めて低い。なので現れた線そのものにも実はあんまり期待をかけていない様子だけど、そこに立脚つつ補正して、信用に値する次の線を出さねばならない。

 このような、一種諦観に基づいた淡白な現実主義は、CADの線のような概念的で情熱的な理想主義(=マルクス主義)と対決する。設計を通じて線への疑いが反芻されなかった設計図は、最終的に設計図外の出来事を多く生み出してしまう。


後半(時期未定)へつづく

 

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