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【畑の生活】フィールドワークを始める。

畑を始めることにした。庭先で家庭菜園をするレベルではだめだ。今の自分には大地と繋がっているという実感、大地の循環のなかに生きているという実感が必要だ。ただ自然を感じたいのなら山歩きをするのも良いだろう。でも、そういうことではない。僕は自分自身が生きる「生活」というサイクルと、自分自身がその一部である「自然」というサイクルを重ね同期させたいのだ。
僕の書棚にはH.D.ソローの『森の生活』が10年以上鎮座している。でも、僕はそれを読んでいない。ソローのハードコア的ともいえる実践を通して導かれる思想は、その内容を超えて僕自身の態度や実践を問うているように思えてならない。僕は「森の生活」を手に取るたびに「読んでる場合じゃない」という思いに駆られる。畑は英語で"field"というらしい。畑仕事とは、つまりフィールドワークだ。僕がこれから綴っていくのは、僕の畑仕事の記録であり、いわば僕なりの「畑の生活」だ。"LIFE IN THE FIELD"。 僕は畑という実践のなかに「森の生活」を読む。

「貸し農園」と検索すると市内で借りられる農園の情報が出てくる。家から10分ほどの場所で農具なども貸してくれる所がみつかった。オンラインでの説明会を申し込んで、一通り説明を受ける。畑が健康や食育につながる素晴らしい趣味であるということ、いかに手間がかからないか、会員専用アプリによる楽しい栽培計画、充実したサポート体制などについてまとめられた動画を見て、僕は違和感を感じた。ここでは畑というサービスが提供されている。このサービスについてとやかく言う気はない。ただ、僕がやりたいことを実践する場所ではないと感じた。僕に今必要なのはサービスではなく実感だ。本当の土の匂いと感触はここでは得られないと思った。

コロナ禍でも家に居ながらにして必要な物がなんでも手に入る状況。スーパーや飲食店の時短営業で右往左往してしまう自分。僕は過剰な便利さと引き換えに生命としての実感を失ってしまっている気がしてならない。技術やサービスがもたらす便利さは時間と空間を圧縮する。中沢新一氏の言葉を借りるならゼロ距離、ある種の密だ。「ソーシャルディスタンス」僕らは人と人との物理的な距離だけでなく、過剰な便利さとも適切な距離をとるべきなのではないだろうか。僕らはゆがんだ時間と空間のなかで生きている。そこに生命としての実感は感じずらい。僕は畑をやることで純粋な時間と空間の感覚を実感したいのだ。それは手軽さを売りにするサービスとしての「貸し農園」では得られない。

検索上位に表示される操作されたゼロ距離的なアルゴリズムに頼っていてはいけない。検索にも能動的な態度が必要だ。いろいろ調べていくと、各市町村には「市民農園」というものがあり、農家ではない人でも小さな面積の農地を利用して自家用の野菜や花を栽培することができることを知った。農地を提供しているのは、自治体、農協、農家、企業、NPOなどで、利用料は発生するものの非営利なので格段に安い。僕が契約した畑も、先の「貸し農園」の半額以下で、5倍の面積が借りられる。損得の話をしているのではない。こうした充実したパブリックなものがあるのに僕らはゼロ距離的アルゴリズムに提示される情報や手軽なサービスを選んでしまいがちだ。もちろん自治体の拡散力不足もあるだろうが、パブリックは営利サービスではないことを忘れてはいけない。それは僕らの財産であり権利なのだから、僕らも能動的な態度であるべきだ。市民農園、図書館、美術館、博物館、運動施設、公園、見まわしてみると意外とこの国にはパブリックが充実している。もちろん地方によって整備状況はばらばらだし、本当にこの場所にこの規模の施設が必要かと言いたくなるものもある。そういうこともひっくるめて、僕は市民としてパブリックなものに能動的に接していきたい。”いつまでもあると思うなパブリック”である。

話を戻そう。僕が契約した畑は家から車で20分ほどの山の中にある。ゼロ距離的な感覚でいえば、ちょっと不便だ。でも、僕にとってはこの時間をかけて空間を移動するということも実感として必要なことのように思える。「匿名の次元」から「僕の次元」へと戻る儀式のような時間。僕はこの一本道を「シャーマンロード」と名づける。

畑に関しては、まったくの素人だ。とにかく直感的に畑だと思っただけで、なんの根拠もない。僕は気まぐれに植物を育ててもすぐに枯らしてしまう類の人間だ。はっきり言ってなんにもわからない。「畑 つくり方」「野菜 育て方」と検索すれば事前にある程度の情報を得ることはできるのだが、それはなんだか違う気がする。僕は匿名の情報ではなく、まずは畑にいる先輩たちの声を頼りにすることにした。
この農園には管理人のおじさんがいる。管理人とはいっても、そう呼ばれているだけで施設の人ではなく僕らと同じ一般の利用者だ。おじさんはこの農園が始まった当初からここで畑をやっておられるそうで、農園全体の手入れもしてくれている。僕ら家族が農園を見学に行ったときにも、親切に農園や畑のことを説明して回ってくれたり、子どもたちに自分の畑のナスやピーマンを採らせてくれた。他の畑の利用者さんたちも、このおじさんを頼りにしているようで、いろいろと困ったことがあればこのおじさんに相談しているようだ。みんながこのおじさんに対して敬意を払っている。その敬意は社会的な肩書きではなく、このおじさんの知恵と経験に払われている。おじさんはこの農園という(ゆるやかな)共同体において長老としての役割を果たしている。僕は長老に教えを乞うことにした。

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