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【畑の生活】土の尾途を聴く。

年の瀬は例年になく冷え込んだ。僕の住む里の方でも雪がちらつく日がいく日かあり、畑の様子が気になっていた。師走とはよく言ったもので、いよいよ年末ともなると別段何ということもないのだけれど、なにかと忙しい雰囲気に飲まれ、毎年体調を崩したりもする。一年という節目、区切りを意識することも大切ではあるが、一直線上ではない円環としての暦、そのリズムと調和したいものだ。結局、畑に行けたのは大晦日ギリギリだったのだが、シャーマンロードを行く道すがらすでに雪がちらつく。雪の降る中を車で走ると前方から吹き付ける雪の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に包まれる。垂直と水平が入れ替わり浮遊する一瞬。

さすがにこの日は畑には誰もおらず、風の音だけが鳴っている。風に弄ばれるように雪は音もなく舞う。幾千の千切れた雪の向こうに輪郭のない畑の景色が見える。ゆっくりと土を踏んで自分の畑の前までにじり寄る。シートの上にはうっすらと雪の層ができている。収穫できる分は収穫して帰ろうと思っていたが、この天候では難しい。シートの中は概ね無事そうだ。冬の直前に植えた野晒しのイチゴと玉ねぎ、少しのニンニクたちも雪風に晒されながらもしっかりと根を張っている。焦らなくても、年が開けまた来ればいい。年を跨いだとて数日のことだ。畑の上では大晦日も元旦もない。今日も明日もない。舞い落散る雪の一欠片のように一日一日が重なるだけ。

数日後、あらためて畑に出てみると僕の他にも数人、畑の利用者の姿が見える。軽く挨拶を交わす。長老は来ていないようだ。前の収穫から数えると2週間ちょっと経っている。バインダーを外し、シートをめくってみるとベビーリーフだいぶ成長している。緑は濃く、茎が一段と太く育っている。もはやベビーという域を越えている。あまり育ちすぎると苦味が増してしまうそうだ。試しに葉っぱを一枚千切って口に入れてみる。緑の味が口から鼻腔へ抜けていく。苦味はない。大丈夫そうだ。太いものから順に収穫していく。これまで、ベビーリーフは葉を剪定しながらハサミで切り取っていたのだが、これ以上伸びてくる気配もなさそうなので今回は根っこから抜いてみることにする。このやり方が合っているのかはわからないが、とにかく実感と経験を積み上げていく。僕らは日々、間違うことを恐れ過ぎているように感じる。片手で簡単にアクセスできてしまう答えらしきものは、本当の意味で答えと呼べるものなのだろうか。それはフェイクだとかそういう次元の話ではなく、そもそも答えなんてあるのか、何を持って真理とするのかという話だ。間違いとは何か。失敗とは何か。畑で土に触れ、野菜に触れていると間違いも失敗もないように思えてくる。と同時に、それは正解も成功もないことを意味する。畑の上では物象に対する実感だけがあり、その積み重ねのなかから、ささやかながら学びというものは生まれる。そんな気がしてならないのだ。この感覚はどんな書物よりも確かに、僕のうちにある大地を肥やし、新たな感覚を芽吹かせてくれる。

ベビーリーフにサニーレタス、ほうれん草を収穫した。なんとなく風通しが良くなった。カブ、ほうれん草などの根菜類は小さな頭を出しているものもあるが、もう一息といったところだろうか。湿気で朽ちかけている葉や茎をいくつか間引いてやり、もう少し様子を見ることにする。「カブ 収穫時期」とは検索しない。僕は土と対話する。対話には間違いも正解もない。今、この瞬間に流れる土の尾途を聴く。

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